Roost
春の訪れを示すかのようにはらはらと風に揺れている桜の花びらを見る度に、去年、この桜が舞う下でしずかに寄り添っていたふたりの少年の姿を思い出す。桜の花びらもすっかりひらひらとした風に乗ってどこぞへと運ばれていくだろう導線を目にしながら、朔は先日まで髪をまとめていたピンを外して横髪に付け替え、もみあげから内側にかけて入れられた薄桃色のインナーカラーを揺らしながら、こつこつと病院への道筋を歩き出した。
夢ノ咲学院アイドル科、二年生、冬海朔。夢ノ咲学院、とくにアイドル科に在籍している者にとっては当たり前ですらあるその肩書を、けれど朔は春先の登校日、ひどく困惑した様子で、それを敬人から受け取った。『彼女』が身にまとうには眩しすぎるこの制服は、英智や『五奇人』をはじめとした特定の層が公然の秘密として守っていた朔の本来の性別に即しているものではない。なんの変哲もないスラックス、学年によって色の変わるネクタイ――どこからどう見ても、そこに変な要素なんてひとつもない、ただの夢ノ咲学院アイドル科の男子制服だ。
「進級おめでとう。よく似合っているよ、朔」
「どうもありがとうございます、英智くん。もしかしてと思うから一応聞いておきますが、それって嫌味だったりします?」
「まさか。僕からの精一杯の祝福だよ、もちろん。疑われてしまうなんて悲しいなぁ」
無機質な白に染め上げられた部屋。四面をそんな無感情の白に囲まれたこの部屋は、いっそ牢獄のようだ。大部屋のはずなのに息苦しさすら感じてしまうこの部屋に、しかし英智は慣れたような表情で穏やかに座っている。この世で誰よりも尊ばれるべきだと言わんばかりに最大限の庇護を受けているように見える英智の表情は、少しだけ血の気が引いているような白さは見受けられるけれど、嫌悪感を滲ませているようなものは見ることができない。朔を見上げて悠然と笑っている英智は、心底朔の制服姿を見ることができたことを喜んでいるように見えて、朔はやや居心地が悪そうにそっと英智から視線を外した。
「退学か、よくても転科かなと思っていたんですけれど? 随分甘いんですね、アイドル科って……? はす……敬人先輩の前で困惑していたら、敬人先輩にもため息を吐かれましたし。良くないですよ、そういうのは? ここぞとばかり『僕たち幼馴染なんです』アピールでもしているつもりかと思いました」
「ふふ、そんなアピールをしたつもりはないのだけど。でも、面白いね、それは。僕が復帰したら、敬人に打診してみようか? 幼馴染アピールとか」
「そんなことしたらただでさえ多忙な敬人先輩の胃が爆発四散しちゃう……」
いちど伏せられてしまった瞼を開くには、朔にとって風になびく英智の金糸は、やけに眩しすぎる。時差のせいはあるだろうけど、とちいさく痛み始めた後頭部の痛覚に少しだけ顔を歪めれば、それを察したのだろう、英智は本題に入るかのように顔つきを少しだけ変えて、やわらかく朔に向かって問いかける。
「どうだったかな、海外は。君には『朔間零の名代』――後釜として、三か月間、海外の系列校を任せたけれど。楽しかったかい?」
「いや、まぁ……はい、少しは……楽しかったかもしれないですけど」
「だよねぇ。まさかあのアカネ・ハルナ――全世界に名高い天才ダンサーを虜にして帰ってくるなんて、流石の僕も予想外だったけれど。さぞかし楽しかっただろう?」
「とんでもない……というか、予想外なのはわたしも同じですから。わたしだって、なんであの子がわたしのためにダンサーを辞めるなんて言い出したのか、まだ分かってないんです」
「そうかな? 僕はなんとなく理解できるけれど……?」
イギリスはロンドン。朔が英智に任された『巡礼』というべき命令のうち、最後の一校。あの頃の零はこんなに忙しなく動いていたのかと彼の苦労を垣間見ることのできたイギリスでのパフォーマンスを、けれど結局のところ、朔は朔自身すらも承知しない展開を引き連れて終わらせることとなってしまった。
――春名茜。テレビを見ている人間ならその九割が認知しているとされる、若き天才ダンサー。御年は朔のひとつ下。彼がイギリスで行っていた公演期間の真っ最中、たまたまその日が茜の当時所属していたカンパニーの休演日で。その日は偶然、ロンドンにある系列校の主催するライブステージがその日と合致していて。運命的にも朔がその時期にその系列校に顔を出していて、ステージに立っていた。暇潰しがてらアイドルのライブでも見ようと観客席に紛れ込んだ茜の姿にざわつく観客のことは、いまでも思い出せる。普段であればそれに気付いてさっとファンサービスくらいできるポテンシャルの持ち主であったはずの茜はしかし、舞台の上でスポットライトの光を浴びている朔の影から目を離すことができなかった。――ひとめぼれ、に近しいものなのだと思う。朔の歌声に、朔の奏でる音楽に、朔の線の細いからだに、茜は一瞬にして魅了されて。結果、そのダンサーとしての人生を途中でドロップアウトし、朔を追いかけて夢ノ咲の門を叩くことと相成ったのである。正直ざわつく客席を見ていた側の朔としては、なにか甚大なミスでもしたのではないか、とすこしの恐怖を抱いたのだけれど。
憧れる側しか経験したことのない朔はまだしも、渉に対してそれと似た強い感情を抱いたことのある英智にとっては、茜の心中に眠っているだろう感情のひとつひとつには、見覚えがあるようなもので。憧れた存在に手を伸ばす――自分の持っている力をすべて使ってでも、必ず。彼/彼女に出会うために費やされてきた僕たちの、味気なかった人生は、彼/彼女を見上げることでやっと色づいた。自分ではわからない感情をいきなりぶつけられた朔はいまだくちびるを噛んでぼんやりしている。伏せられた表情は普段のそれよりもやや暗く、英智は心のうちでしずかにため息を吐いた。どうすればこの自己肯定感の低さ、という問題を解決することができるのだろう。
(やれやれ……。少なからず彼女のことを卸していた君たちにご教授願いたいよ、渉? それとも、僕がいちど壊しかけてしまった『かみさま』の幼体を討伐してしまったことの副作用だったりするのかな、これは?)
――ともかく。『五奇人』の最後のひとりであった日々樹渉のことを英智が下してから、しばし。英智が学院の内側を崩して為そうとしていた革命のために結んでいた『ユニット』の姿は、急速に瓦解した。無理矢理手綱を握っていたメンバーもいたのだから、当然といえば当然だ。二枚看板と名高かった乱凪砂と巴日和は血なまぐさい夢ノ咲から早々に立ち去り、英智のもとで縁を紡いでいたはずの青葉つむぎは、ほかのだれでもない英智自身の手によって、舞台へのぼるための梯子を外された。少なくとも『ひとり』になってしまった英智のもとに残留する、という選択をとった朔は、逆先夏目、というたったひとりの親友を守るため、あるいはそうして天高くから地上を俯瞰し続けている英智の背を見届けるため、英智が朔に対して伸ばした手を取っている。朔が誰よりも大好きだった、いつくしんでいた、愛していた、守るべきはずだった夏目から、英智は朔を引きはがした。その衝撃によって一旦『こわれてしまった』朔の神性は、弱々しい輝きになってしまった――それだけは、英智にとっても予想外だったのだけれど。
聖夜。年若いカップルたちが、人工的なライトに遮られ、薄ぼんやりとしたものになってしまっている星の光のもとで寄り添い、ともに輝かしいイルミネーションを見上げている、聖人の生まれた記念すべき日――生誕祭の夜。これまでの無理のツケを払うと言わんばかりにふらりと倒れこんだ英智は、しかしそうして意識を失う直前、自身に仕える影となった朔に対し、こう告げていた――『海外にある系列校を回っておいで。春までに帰ってくることが相応しいけれど、気に入りの場所があれば居座るといい。親御さんへの説得も金銭面も、この天祥院――ひいては夢ノ咲学院が受け持とう。ただし、あくまで、朔間零の名代として、赴いてほしいな』。
「とにかく……、普通でした。思った以上に……。ただ、朔間先輩の名前だけはひとり歩きしていたような気はしますけど? いかにあのひとが海外で名を馳せていたのかがよくわかる留学でしたよ」
本当にこれで満足なんですか、と朔は英智に問いかける。首を傾げればさらりと揺れる薄青の髪は、英智が最後に見た朔のそれよりもやや長い。その分の時間を、朔は海の外で過ごしたのだ。
「けれど、君が彼の名の持っている威光を弱めてくれていたのだろう? 話は聞いているよ。まるで彼の再来のようだったと、在籍している生徒たちは口々に語っているらしいじゃないか。伝説の効力は、その対象がひとりだからこそ絶対的な輝きを放つのであって、君も同じようなことができるということが知られたら、それまでにあった光の強さは半減する。朔、君が彼らと同じ博愛を受け継いでいてくれたことは、僕にとっては嬉しい誤算だったよ」
「まさか。同じにしないでくださいよ、あのひとたちと……? わたしのはあのひとたちのとは違って、後付けの器官です。天然ものではない養殖。インストールの遅いHDD……それに、系列校でのこと、わたしはまったく満足していませんし」
なにかを気にするように、翡翠の瞳が隠される。薄い瞼の下に伏せられた瞳がなにに対しての負い目を色濃く滲ませているかということを、すでに英智は理解していて。その上で、あはは、と面白そうに笑った英智の表情を一瞥し、朔は不愉快そうに顔を歪ませた。
「まだ逆先くんを裏切ったことを気にしているのかな、君は? というか、あちらから見たらそう感じてしまう、というだけで、君は実際には彼を守っているんだから……感謝はされても、謗られる道理はないと思うのだけれど」
「英智くんだって、青葉先輩のこと、まだ吹っ切れてませんよね? 言っておきますけど、わたしたちって似た者同士ですよ。あの頃の英智くんがなにを思ってわたしに手を差し伸べたのかはわかりませんけど、傍から見たら、悪趣味すぎるし……?」
「酷いなぁ。僕もきちんと考えた上での行動だったんだよ? ……ふふ、でも僕たちって、本当に自分勝手だな、と思うよ。こうして君と話していると、もっとね。勝手に置いていったのは僕たちなのに、未練を感じているのも僕たちだし。どっちかというと、未亡人なのはあっちなのに」
「……あの、言い方が悪すぎるんですけども」
英智は、面白そうに細められた青空みたいな瞳を細めて、ばさりと手に持っていた資料を白いベッドの掛布団の上に適当に置き散らかして、そっと朔の顔を見上げる。春名茜の情報の書き込まれた、個人情報丸出し、プライベートの概念を知らない人間が情報を扱っているように投げ捨てられた紙の束。朔はそこに書かれた筆記体の英字を見てからやや考え、はあとひとつため息を吐いた。すでに『ユニット』の名前まで決まってしまっているらしい。やはり世界的ダンサーともなれば様々な補助が付けられるのだろうか。春名茜と、冬海朔――二人組の『ユニット』が作られる旨の書かれた書類から、朔はそっと目を逸らした。
「来年度が楽しみだね、朔?」
「正直、『ユニット』なんてもうこりごりなんですけど。『わたし』のことを誰かに預けるのもおっくうだし、勘弁してほしいです」
「ああ、こらこら。一度もしたことがないことを、やったことがあるような口ぶりで語るのは感心しないよ、若人……♪ 一度くらい、きっちりしっかり、やりきってっみせなさい。後悔したかどうかは、すべてが終わったあとに判断しても遅くないよ」
「……まるで、わたしの親みたい。親権者でも血が繋がっているわけでもないのに。そういう意味で言うなら、多分、日和先輩がいちばんその立場に近いんだろうけど」
「おや……ふふ、実のところ、僕も君のことをそう思っているんだよ。朔を――庇護すべき、僕の娘だ、とね。あまりこんなことを言っては斎宮くんに怒られてしまうかもしれないけれど。彼が復帰してくるまでは、その椅子に座っても許されるだろう?」
本調子ではないというのに、長く話しすぎただろうか。唐突にけほ、とひとつ咳をして顔色を悪くした英智に気付いた朔が、焦ったように手を動かす。英智はそんな朔のことを、仕方のない子供を見守る親のような気持ちで見据え、くすりと笑った。どちらかといえば神話的な『母親』のようであった宗に対して、英智は『父親』のようにも思えたが――英智は今年度も間違いなく夢ノ咲学院アイドル科の制服を身に着けている朔を見上げて満足そうに頷いて、そっと自分のいる病室の扉に目を向ける。
「さぁ、もうお帰り、朔」
君がなにを言おうと、君は明日からも『夢ノ咲学院のアイドル科』に所属する『アイドル』にほかならないのだから。
「……はい、英智くん」