Revral/第一話


 春の息吹がする。ただよってくる桜の香りは、朔に、朔が夏目と出会ったころのことを思い出させた。ここは裏庭ではなく夢ノ咲にある空き教室のひとつで、新学期から復学する朔にとってはあまり馴染みがなく、生徒会の手によってレッスンルームになるという話も、べつにそんな感慨深いようなことはない。英智の手によって外国に放り出されていたこの一学期のあいだに夢ノ咲が変わったようなことも、早々ないだろう。
 新しいユニットを組みなさいと英智に言われた時は、なにを言っているのだろうこのひとは頭がおかしいんじゃないか、と言おうかと思ったくらいだった。どうやらそれは本気の話だったらしく、英智によってひらりと出された書類に書かれた名前はしっかり『Wish』と印字されている。留学中海外で行ったライブに来ていた人間が申請したそうだ。朔よりひとつ年下の。朔は知らないが、一般人でも名前くらいは聞いたことがあるのが当たり前とかそういったレベルの、有名人。
 春名茜とかいったっけ。書類に書かれたリーダーの名前を怪訝な様子で読み上げる朔に、英智は病室の無機質なベッドの上でからからとわらっていた。あまりに切迫して、切実な様子だったそうだ。あらゆる伝手をつかって夢ノ咲学院にコンタクトをとり、絶対に入学試験をパスしてみせるから冬海朔とのユニットを組めるようにしてくれと、頼み込んだとか。しょうじき、朔にそんなことをされる価値があるとは思えないんだけど。それでも朔を望んだ。まだ顔の知らぬその男が、朔とともにいることを願った。――『Wish』。朔がまたアイドルとして返り咲くことを願うひと。
 だから朔は英智にこう言った。
 ――ユニットの名前が『With』になるなら、うなずきますけど。
 だって、そうだ。朔が願われるだけでは、意味がないから。君もいっしょに、俺と、舞台に立ってもらわなくちゃいけない。その責任が君にもあるんだよと言わんばかりの、目。茜くんにそう伝えておこうと頷いた英智の病室をあとにしたのが――二時間は前のことだ。
 新学期がはじまる前に朔が片付けて置きたいことは、いくつかある。両親のことだったり、さっき話してきたユニットのことだったり、いろいろ。母のことについてはあたりがついている。では父のことは誰に聞いたらいいか。泉であればこころよくとはいかないまでもふつうに応えてくれるだろうが、朔の良心がそれを拒んだ。朔はレオのことを助けられなかったし、泉のそばにもいなかった。それで、泉が何度か口に出していた泉の『お気に入り』の後輩をたずねることにした。さいわい、朔とは同い年だったし。
「きみが、遊木真くん? 泉せんぱ……瀬名先輩の『おきにいり』の」
「た、たしかに僕が遊木真だけど……どうしたの、とつぜん呼び出したりして? 僕、なにかきみに悪いことでもしちゃったかな」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど、どうしても……君に聞きたいことがあって」
 とつぜん呼び出したにもかかわらず、真は朔に親切だった。そして異様に腰が低く、自己肯定感もないにひとしい。泉とは正反対の子だなとおもった。眼鏡を外したら綺麗だろう顔立ちをじっと見てしまう朔の視線からややあって顔を逸らした真に、朔ははたと瞬きをして、返した。
「俺は、冬海朔です。君とおなじ一年生――つぎの四月からは、二年生になるんだけど」
「うっ、うん、知ってるよ、君のこと……『五奇人』のひとたちとよくいっしょにいたし、仕事も多かったみたいだから」
「そうなの?」
「応援してた、ちょっと……」
「そう。……それは、ありがとう、かな。ふふ、すこし意外だったけど」
 朔がひとさしゆびで頬をかいた。すこしだけ漂っていた緊張感は、いまは霧散している。深呼吸した真が息を整えるのを待って、朔はひとつ咳払いをした。思い当たる節がないようなら、泉のほうに話しかけにいくしかない。王さまをうしなった、騎士に。できれば、そうなることは避けたかった。
「俺の名字、冬海っていうんだけど……心当たりとかないかな、遊木くん。どんな思い出でもいいんだ」
「ふゆみ――『冬海』? そういえば、朔くんの名字って、たしかに冬海だったね。『冬海』なんてめずらしい名字だと思ったけど……ううん。意外と、よくあるのかもしれないし……」
 ふるり、と真が首を振った。藁にもすがるような思いで真を呼び出した朔がいることを、真は知らないのだ。言っていないのだから当たり前だけど、そういうことではなくて。朔が祈るように目を向けた先の、朔とよく似たエメラルド色が窓ガラスに反射して、きらりとかがやく。ふっと伏せられた真の瞳は、なんとなく、なにかを思い返しているようで。
「僕がお世話になったカメラマンさんの名字が、たしか『冬海』だったんだけど……あのひと、子どもは一人娘しかいないって言ってた気がする」
「あ……――」
「僕はとちゅうでモデル業じたいからドロップアウトしちゃったけど、当時の僕からしたら、もうひとりのおとうさんって感じで。僕に期待しない、『ふつうのおとな』みたいに、笑って泣いて、たすけてくれて、面倒も見てくれた……恩人みたいなひとかな、あのひとは」
「……ちなみに、そのひとのフルネームって、思い出せたり、する?」
 ――そうであってくれ、と願った。けれども、真のそれを聞いて、そうじゃないひとであってほしいとも、祈った。だって朔には、いちども手を伸ばしてくれなかったから、あのひと。羨ましくて、だけどもう諦めていて、どうでもよくて、めちゃくちゃになりそうだった。真がなにかを言おうとして息を吸い込むのを、朔はもはやなにを願っているのかすらわからなくなって、待った。
「冬海新さんだよ。あたらしいって書いて、あらた」
 ――瞬間、世界から、音が消えたような気がした。朔の脳裏に、冷たい態度だった父のすがたが横切る。テレビを見るな、触れるな、なにも聞くな。朔が物心ついたときにはもう母親は実母ではなくなっていて、このひと誰なんて聞いたときには、もう、だめだった。父は朔になにも教えてくれなかった。自分のことを弱小カメラマンだなんていつわっておいて。
「……そっか」
 ほんとうは、望まれて生まれてきた子どもではないのかもしれないと、わかっていた。それでも希望くらいは持ったって許されるでしょうとすら思っていたのに。それもぜんぶ、高望みだったらしい。
「そっか」
 よその子どもに優しくできるようなひとなら、どうして俺に優しくなかったのかなんて、決まっている。俺のことを望んでいなかったからだ。俺に優しくする必要がなかったからだ。俺のことを――愛して、いなかったからだ。
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