Recall/第三話
『五奇人』の名声と、その神にもひとしい権能による守護は、決してそれのみで完結すような、ある種の万能性を持ったものではない。とくにいまこの夢ノ咲においては反『五奇人』の風潮が渦巻いていることもあって、そうして奇人の名を設けて祭り上げられているひとたちのことを恨み、妬み、私怨と嫉妬と羨望の中で鬼と化すような人間は、おそらくひとりやふたりでなはい。底辺のまま燻っている『アイドルくずれ』など、この学院には文字通り星の数ほど在籍している。その中の何割かが諦めることなく朔に対して宣戦布告し喧嘩を売り、果ては夏目にまでその矛先を向けるというのだから、やはり朔は、朔の友人である夏目を守るために、対決を受ける、といういまのスタイルを、自分が感じている多少の疲労を原因に、諦めてしまうわけにはいかなかった。
冬海朔は、才能に恵まれた側の人間だ。輝くことを定められているわけではないが、その可能性はあまりにも多くある。掴み取ることのできるチャンスの母数がそもそも多いような才の中に生きる朔は、けれど天才ではない。努力を重ねなければ、その荒地に埋められた才を開花させることはできず、夢のまた夢の先の幻を夢想する『アイドルくずれ』になる可能性すら残っているということを、朔はよく理解していた。この身で実感さえしているようなおそれの感情を、朔は後生大事に抱えながら、過ごしている。一時期通い詰めていたはずの、夏目のいる『秘密の部屋』から朔の足が遠のいたという事実が、なによりも鮮明に、それを証明していた。代わりに朔の足が辿り着いたのは、誰もいない、無人のレッスンルームだ。ひとりでは持て余してしまいそうなほどに広いその場所は、けれど予約状況を見る限り、あまりここの生徒に活用されているということもないようで、朔はもはや無数に輝くくすんだ星々の中に埋もれてしまったのだろうひとびとのことを思い、そっと目を伏せた。
じりじりと、朔の背に迫ってくる焦燥の炎。いつ夏目本人に手を出されてもおかしくないだろういま、朔が自主的に練習を行い、自分の持つ才を磨くことを怠れば、自分たちはその流れに容易に飲み込まれてしまうだろうということは、想像に難くない。なにも知らない無知な子供のままではいられないのだ。歌しか知らぬ冬海朔のままでは、このくすんだ色の濁流をせき止めることなどできないだろう。どうしよう、どうしたら、朔は――この夢ノ咲を取り巻く暗澹たる深い色の闇のすべてから、夏目、というたったひとりのはじめての友人を守ることができるのだろう。
ずるり、と。朔は丁寧に磨かれた鏡を背に、力尽きてしまうのも目前といった様子を見せ、ゆるゆるとその場に座り込んだ。レッスンルームの中、がんがんと大きな音を響かせるスピーカーから流れてくる音楽だけを耳にしてうつむく朔の影は、まるで風に揺らぐ蝋燭の灯のような儚さを見せている。朔の持つ、うつくしく、強気で、太陽のような芯すら見えるような翡翠の瞳が、くすんで、濁っていく。朔はがんと頭の後ろにある鏡にそれを乱暴に預けて、座り込んだまま伸ばしていた足をぎゅっと抱えた。
今年の春に出会ったばかりの、ただの同級生でしかない夏目に、どうしてこんなに心を砕いているのか、正直、朔自身もよく分かってはいない。見る人が見ればおかしい人間のように映るだろう。朔も、多分、それが自分自身のことでなければ、そう思ってしまう側の人間だったはずだ。それでも朔は、いまこの瞬間の冬海朔は、本気で夏目を案じて、自分の心ばかりを抱え込んで、そのすべてから目を背けようとしている。
夏目。
(君を守るために、俺はどうしたらいいんだろうね。『噂のぼっちくん』でしかなかった俺を……友達なんていなかった俺を、この世界のことなんてなにもしらない、面倒臭い俺のことを見つけてくれた、たいせつでだいじでだいすきな、君のために)
あまりにも無知だから。あまりにも拙いから。朔が夏目にできることなどなにもないのかもしれない。それだけがここにある真実なのかもしれない。でも。
朔、と。名前を紡いでくれる、優しく甘やかな夏目の声を、思い出す。すぐにでも夏目のもとへ向かって、その声をまたこの耳にしたくはあるけれど。ぐ、と朔はまぶたを強く瞑って、脳裏によぎった一瞬の赤い星にあてられたかのように煌めきを取り戻した翡翠を、そのまぶたの下から覗かせた。もう少しだけ――あと少しだけ、このまま、頑張ってみよう。鏡の中の自分としずかに向き合い、鏡の中の冬海朔とじっと視線を合わせて、こつり、と額を合わせ、朔はゆっくりと深呼吸を繰り返した。スピーカーから流れ続けている音を口ずさみ、朔がふわりとゆるやかにそこに立とうとして――その直後、鍵を締めていたはずのレッスンルームの入り口から聞こえてきた、がちゃり、という音に、動きを止めた。
このレッスンルームの予約を取っているのは、他でもない、朔自身だ。その他の『ユニット』、あるいは『アイドル』たちは、あまりこの場所を有効活用しているようには到底見受けられなかったし、朔もそれを見越して、随分長い間の予約を取っていたはずだけど。
「――どなたですか。いまは俺が予約をしているはずですけど」
がちゃりという重苦しい音の鳴った方向に対して、たしかな警戒心を滲ませて。朔はその扉に向かって、ぽつりと小さく、そう告げる。声の響きからしておそらく、相手方はまだこの部屋の中に足を踏み入れてはいない。扉の向こう、ふふ、とひどくお上品な微笑みをこぼした男の顔は、なんの悪びれもなく、また冗談という様子も見せないままに、ひどく凪いだ声で――「あしながおじさんだよ」、と名乗った。
「は? あし――なに?」
「ああでも、おじさんという年齢ではないよね、僕。僕は君とひとつしか年齢が変わらないし。……ふふ、うん、そうだな。それなら、『おじながおにいちゃん』と呼んでくれた方が嬉しいかな……♪」
「……あなた、頭でもおかしいんですか」
「おや? これは手厳しい。逆先くんやつむぎと接していた時とは真反対の性格のように見えるのだけれど――ううん、むしろいまの君こそが、本当の君なのかな?」
頭のおかしいひとが来たな、と思ったのが、思わず声に出てしまって、朔はふと口を抑える。でも本当に、心底そう思ってしまうくらいには、その穏やかな声は不審を極めていた。というかそもそもこのレッスンルームの鍵は朔が持っているのだ。この男がどうしてこの中に入ってこられたのかも気にはなるけれど、きい、という音を立てて開かれた向こう側、顔を晒した男の姿は、つくりものだった朔なんかよりもずっと上手で、うつくしくて、まさに彼こそが『天使』なのだと言わんばかりの気配をまとわせていた。多分、この天使が運んでくるしあわせは、ろくなものではないだろうが。
明るいクリーム色のさらさらとした髪には、部屋の照明のせいだろうか、うつくしく天使の輪が浮かんでいる。血の気が引いたように真っ白な顔にくっつけられている瞳は澄んだ塩湖に似た透き通る青みたいな群青色だ。ゆるりとした微笑みをかたどっているその表情を見ながら、けれど朔はいやいや、と首を振った。突然訪ねてきた不審者の顔に呆けているとは何事か。というか、その本名を名乗る前に『あしながおにいちゃん』とか自称しやがった男である。ネクタイの色、そして本人の言の通りに朔のひとつ上――夢ノ咲学院アイドル科二年生らしい彼の様子を見上げ、まるで目の前に不審者があらわれたかのように、朔は眉を顰めた。
「べつに、俺はお金には困ってないんですけど……『あしながおにいちゃん』を名乗るというのなら、あなたは俺に金銭的な援助をするつもりで?」
「君が望むなら。ボーカルトレーナーも、君が師事することのできるプロデューサーも、演出家も、すべて用意してあげよう」
「あなたがほんとうにあしなが何某なら、最終的にあなたと俺は恋に落ちなきゃいけませんけど。それでも構わないと?」
「それも楽しそうだね。君が望むなら、契約恋人、みたいなものも約款に組み込んでおこうか……♪」
「……『俺』という存在を得ることであなたに返ってくるメリットがあるだなんてこと、俺には理解できません」
「君が理解できなくても、僕には理解できる。そして君の価値を知るひとは、僕以外にもいるだろう。僕にとってはそれで十分なんだ。――『彼』の音楽も使わせてもらっているようだしね」
「――月永先輩のことを、ご存知なんですか?」
「もちろん♪ 僕と彼はちょっとした知り合いだから、君の話も聞いていたよ」
懐疑的な視線ばかりを向けられていてもなお、男は悠然とした笑みを崩すことはない。男は朔の眼前でゆったりと腕を組み、いまこのレッスンルームで流れ続けている朔の歌声が入った曲の作曲を担当した生徒の名前を当ててみせる。けれどもその群青の瞳の奥に燻っているのは、少なくとも朔が見た限り、とくに変なものではない――とは、思うけれど。
「力がほしいだろう? 君の友人を――逆先夏目くんのことをなにもかもから守れるだけの、強大な力が」
「俺がいちばんだいじに思っている友人の名前まで出して、まるで脅しみたいですけど。……それをあなたは、俺にくれるって?」
――そんな上手い話があるわけないだろう、ということも、やはり、思ってしまうのだ。無知で稚拙なものであろうと、ふつうの一般常識くらいは朔とて心得ている。それになにより、朔の第六感が告げている。じりじりと強く焼き付いた脳の奥が、この男を信用してはならないと、警告しているから。
一瞬だけ、彼の下にいる自分を想像した。けれど、やめた。
「……ごめんなさい」
「そうか。……とても残念だよ」
「そうは見えませんけど」
――むしろちょっとだけ、喜んでいるような。
「これでもすごく落ち込んでいるのだけれど。僕は君がほしいんだよ。君のその、神さえ耳にし酔いしれるほどの歌声がね。……けれどまあ、無理強いはしないよ。安心しなさい」
そっと。緩慢な動きで伏せられる翡翠の瞳を、朔の前に立っている男はただじっと、見つめているだけだった。警戒心があるのは悪いことではない。なにより虫の知らせというものもあろう。男自身が誰あろう朔の大切にしている『魔法使い』を壊す計画を立てていることに勘付かれてしまったかもしれないし――深追いはしないということだけは、朔に会いに来る以前から、男は心に決めていた。うん。本当に、心底、残念ではあるけれど。
「――僕の名前は、天祥院英智。また会おうね、冬海朔ちゃん。次に君と相まみえる日のことを心待ちにしているよ」
ゆるり。男のまなじりが下がる。英智と名乗った天使みたいな風貌の男は、じっと朔のことを見据えている。朔が毅然な態度でもって英智の持つ深い青の瞳を見返せば、英智はその視線を受けて満足そうに何度か頷き、こつりという靴音を立てながら、朔の借りていたレッスンルームから遠ざかっていった。
「……あのひと、さっきつむぎって言ってたよね」
(それに、夏目の名前も。……もしかして、と、思ってもいいのかな)
新たな謎も、嫌な予感も、燃えるような朔の背に置いていったまま、英智はどこぞへと去ってしまった。なんだったんだあの人、と朔が思ってしまうのも仕方のないことだろう。もう会いたくないなと感じてしまってはいたけれど、その願いが叶うこともないのだろうなという予感だけが頭の隅に残っていて、朔は深々とため息を吐き、スピーカーから流れる音楽に身を預けた。