Recall/第四話
朔は、超越者としてのチケットを持たない、ただのひとだ。もし英智が朔に、朔の持つ歌声に気付かず、なんの忌憚もなく、『五奇人』としての立場に据えていたら――おそらく、英智が想定していたすべてのシナリオは、ことごとく潰えてしまっていただろう。そのことを思えば、英智のとった朔への対応は、ただしい。敵陣営に置くことなく、自分の側に取り込もうとする動き。それ自体は正解だっただろうが、しかし朔は英智の思惑通りにはいかなかった。朔は、英智の伸ばした手を拒んでいる。――天才の傍にいる凡人同士、仲良くできると思っていた英智からすると、まさに目から鱗が落ちるほどの衝撃だったかもしれない。渉に憧れ、アイドルを志し、この学院の現状をひっくり返そうとしている凡人の英智と、夏目の隣にいることだけを求めている、だからこそ決して才能を振りかざすことのできる『本物』にはなれないだろう天才の朔。順当にいけば、ふつうに関わっていれば仲良くなれてはいたのだろうけど、まあおそらく、接触の仕方も時代も扱いもすべてが悪かったのだろう。それを指摘してくれる友人は、いまの英智の傍にはいないから、英智はどうしてだろうとひとり首を傾げているしかないけれども。
朔は、超越者だけが持っている籍を持つことはない。ただ、自由奔放に歌を紡ぐだけの精霊。朔が『五奇人』となれなかった理由の大きなものは先述した通りのものだったが、ほかに、人見知りであった朔は、多くのひとの中心人物とはなれなかった。最低限の芸能界についての知識もない。それに朔は、あえて英智が手を加えるまでもなく、夢ノ咲学院アイドル科の多くの生徒には悪逆の徒と見られ、嫌われ、敵対心を向けられていた。朔がその憎悪に準ずるものに対して鈍い人間でなければ、こんなにちいさく若い芽など、すぐに淘汰されていただろう。元から憎悪の対象になっているような存在は、扇動の範疇ではない。英智は石橋を叩いて渡る、あるいはそれでもその石橋を安心して渡ることもできず、突貫工事で添え木を埋めてからやっと渡り始めるような人間だ。英智の手のひらの欄外で生まれた感情をコントロールするというのは案外難しく、そんな悪手を使うほど余裕がないわけでもない。
『五奇人』はあくまでも、夢ノ咲学院の代表でなければならなかった。そしてそこには畏怖と畏敬があるべきで、その頃すでに多くの生徒に敵方だと思われていた朔は、その構想にはそぐわなかった、というだけの話だ。そういった面で、朔は根本的に、この処刑台に繋がる舞台の上へ上がる機会と資格を剥奪され、取り上げられていた。夏目の立つはずだった首吊り台が夏目の愛する兄たちによって壊され、かろうじて観客席に夏目を逃がしたのと同じように、朔は、朔の立つはずだった舞台のポジジョン・ゼロは、朔をそこに立たせたくなかった英智の手によって、永久に葬り去られた。しずかに、しめやかに、ひそやかに。朔のもとから取り上げられたその場所について、誰かが気付くようなことはないだろう。それに関わるたったひとり、冬海朔そのひとであろうと、朔のことを遠ざけたその舞台のすべてに、気付くことはできない。天祥院英智はひどく巧妙な手口で朔をそこから追い出している。だから、『気が付けないこと』は、なによりも正しい。
朔が英智に勧誘された折、夢ノ咲学院、とくにそのアイドル科の生徒会長をつとめていた『五奇人』である朔間零の気配を感じることはなかった。長時間借りているレッスンルームの確認で、以前、朔の代わりに零が舞台に姿をあらわした時、やれやれと頭を抱えていた緑頭の眼鏡先輩――*間真*郎先輩ですか、と聞いたら当たり前のように怒られた――と少しばかり話すことは増えたけれども、それだけで、零と会う機会など皆無にひとしかったはずだ。多忙なひとでもあるし、それが当然で、むしろこの前の出来事が珍しいことであることは分かっている。ただ、こう――英智のように、突然朔を訪ね、朔を勧誘するような人間のことを、朔はあまり強く信頼することはできなかったので。そういった素振りを見せることのない、というか、見せられるような余裕を持たず海外を飛び回っている零は、朔にとって、『理想の先輩』のように見えていた。
「後輩の理想を壊すようでしのびないが、あれで朔間さんは意外と適当なひとだぞ」
「蓮巳先輩と比べたら、大概のひとが適当になっちゃいますよ。ほら、いまの夢ノ咲を見たら、とくにそうじゃないですか」
「……まったく、度し難い」
かつて零と『ユニット』を組んでいた、と言っていた敬人が零について朔にそう告げるのに、朔はふと、ゆったりとした苦笑をこぼす。たしかに敬人にはお世話になっているけれど、なんというかこう、安心感が違う、というか。上手く言うことは難しいのだけれども、朔間零とはつまり、朔にとっては尊敬すべき『大人』であるのだ。零に対してそのような幻想を抱く朔も、いつか『大人』ではない零を見て幻滅するだろう。できるなら、そこに自分が――蓮巳敬人という人間が居合わせなければいい。零に対してそんな感傷と少なくない失望を抱いてしまった自分を振り返った敬人がちいさく息を吐いた。朔の翡翠が以前の自分と似た胡乱なものに彩られるところを想像して早々に憂鬱な気分になってしまった敬人は、気分をごまかすように朔が手に持っていた多くの書類を受け取り、ちいさくこくりと頷く。
「冬海名義でのレッスンルームの予約確認だな。確かに、確認した」
「はーい。よろしくお願いしますね、先輩。……整備されていない法のせいで、そういう承認とかをぜんぶ生徒会のほうでやってもらわなくちゃいけないの、どうにかしたほうがいいんじゃないですか?」
その書類と交換されるかのように朔の手元に置かれたそれは、もうすっかり見慣れてしまった例のレッスンルームを開けるための鍵だ。荒れた夢ノ咲の法律や良心を一手に受け止める敬人への心配や気遣いはするくせに、朔はいつも、自分のことはあんまり顧みない。敬人はオーバーワーク気味な後輩を見送りながらちいさな息を吐き、受け取った書類に不備がないことを確認する前にぱたぱたと廊下を駆けていってしまった朔の足音を、ぴくりと反応する耳で追った。敬人とて朔のことを心配はしている。この時期の夢ノ咲学院に在籍しているにしては真面目すぎる朔をある程度気がかりにも思ってはいる。けれどもだからといって練習を止めろと注意するのに、こんな微妙に関わりの薄い先輩が行っても、朔にとっては良い迷惑にしかならないだろう。それに敬人の目から見た朔は、焦燥ばかりに背を押されているような気はするが、けれど死んでしまいそうな気配は感じられない。――いまにも死んでしまいそうな、敬人の幼馴染とは違うのだ。
「俺の周りにいるやつらがことごとく生き急いでいるように見えるのは、いったいなんなんだ……」
誰かに強いられたわけでもなく、ただ、後世に花を咲かせるアイドルたちのため、自分の体調すらも鑑みることなく走り続けている英智も――いましがたこうして、敬人の目の届く範囲から姿を消してしまった朔も。そして自意識の中ではそうではないけれど、甘やかな幻想を追いかけ続けている敬人自身すら。
英智も朔も、自分についても――敬人はたしかに頭を抱えながら、しかし、それを止めることはしなかった。
――おそらく、敬人の思っていたそれは、零がひそやかに朔に対して抱いている心配と、きわめて同じような色のものだっただろう。自分たち『五奇人』の末っ子のことを、陰に日向にと、自分の身が削れることも気にせずに守り続けているような人間を、他ならぬ零が無視することなど、到底、できそうになかった。零は、つい先ほど、久方ぶりに日本の地を踏んだような、海外から帰ってきたままの足で、ずんずんと『目的地』である大きなレッスンルームへと向かう。ひとり、レッスンに励んでいる少年――否、零はすでに、冬海朔という人間の性がどちらであるのかを承知しているので、少女と呼称すべきだ――の姿をじっと目にしたあと、んん、とひとつ声を調整するかのように喉を鳴らし、こんこん、という軽い音を立てて、『彼女』のことを呼んだ。
「よっ、朔チャン。ちっと邪魔するぜ」
ちいさなノックと、零にしては控えめな声。扉を閉めているにもかかわらずガンガンと部屋の中から流れてくる音楽は、『オセロ』ではなく、ええと、いまはなんだったか――『チェス』? 『バックギャモン』? だかに所属している天才作曲家のようなメロディを紡ぎ、天国への一本道を舗装しているかのように透き通る朔の歌声を支えている。春のはじめ、零が不覚にもしばし聞き惚れて動けなくなってしまったほどのそれが、この短い期間を経てすさまじい変化をみせているらしかった。零はその音についに我慢ならなくなり、ぱあん、とレッスンルームの扉を叩き開ける。
「俺様ちゃんが迎えに来てやったぜ、朔。光栄に思えよ?」
「……えっ、と」
朔間先輩、と。困惑したような表情をたずさえている朔に、零はおっと、とするどく顔を引き締める。これでも海外留学常連、『五奇人』という通り名を同じくする道化師には負けてしまうだろうが、零自身も間違いなく『アイドル』である身だ。先ほどの朔の歌を耳にした興奮から一転、きりっとした表情をつくった零に、朔が困惑の色を貼り付ける萌ゆるようなうつくしい緑色の瞳から剝がすことはない。
「おっと、とつぜん押しかけちまってごめんな。怪しいモンじゃないぜ、もちろん? これも『朔』のよしみってやつだ。――俺は朔間零。まあさっきの独り言を聞いた感じ、俺のことは知ってるだろうけど……いつも『うちの夏目』と仲良くしてくれてるらしいなぁ、お前」
「はあ、ええ……まあ、それなりに。いえ、だいぶ……俺としては、無二の親友だと思ってますよ、夏目のこと」
――どう考えても、ヤンキーの殴り込みにしか認識できない、とは、言ってあげた方がいいのだろうか。まるで夏目の親権者のような振る舞いをしている私服の零を前に、朔は汗だくのレッスン着のまま、ただそこに突っ立っていた。
朔間零は、うつくしい男である。朔ももちろん、女でありながら男性アイドル養成校である夢ノ咲学院の受験にパスできるくらいには『危うい美貌を持つ青少年』ではあったが、零のそれとは種類が違う。圧倒的ですらあった。半分ほどは完成している、と言い表して差し支えないだろう彼の優雅で泰然とした立ち姿を前に、普段歌っている時には見せたことのないぼろ雑巾みたいな姿のままでいる朔を、しかしそのうつくしさを持つ零が気にすることはなかった。――そして事実、彼という魔物の手引きがなければ、朔は永遠に、永久に、英智によって遠ざけられていた舞台の存在を認識することはなかっただろう。客席の傍観者。舞台を動かすゲームマスターによって直々に用意されたその場所から背を背け、夏目が崩れていくところを見ることしかできない役立たずの冬海朔のままだったはずだ。それほどに、いまは凡人の気配をしている朔のことを迎えに来たなどと宣う零に、朔はすこしばかり、意識と考えを巡らせる。
朔のことを『朔ちゃん』と呼ぶこの男は、たしかに朔の裏側を視認しているはずだ。なのになぜ『迎えに来た』などと宣ったのだろう。たとえば朔がこの思いのままに零たちの陣営についたとしよう。そのあとに朔の持つ秘密の内容が露呈してしまえば、石を投げられるのは、朔だけではなくなってしまう。朔のそれを知っているからこそ、零は英智のような露骨な接触をしてこないと思っていたのだけれど――ううん、むしろ、だからなのかもしれない。英智とはなにもかも逆の場所に座を構えているこの男を、どんな不確定性があるものよりも信頼できる大人だと、無条件にも近い憧憬に裏付けされた意識が、なによりも信じていたはずだったけれど。信じていたかったはず、なのだけれど。
「俺が、『冬海朔』を隠してやるよ。お前、まだ夢ノ咲の――夏目のための、『アイドル』でいたいんだろ?」
――言外に、だからこの手を取れ、と強制しているその言葉を聞いて、一秒前まで朔が零に対して抱いていたはずだった信頼は、蛇の脱皮のような気軽さでもって、ぽいと投げ捨てられた。
これは、交渉相手であって、信頼すべき相手ではない。ただ実際、零にそんな意図は一ミリもなく、ただ夏目を守るために身を削っている後輩の保護に動いただけで、朔が疑心暗鬼になり、深く考え込んでいるだけにすぎないのだが。零は心中しずかな息を吐いた。守るためとはいえ、こうして誰も彼も疑ってかかるような精神状態になってしまっては、色々まずいだろう。まだ入学したばかりの一年生なのに。なんでもかんでも信じ込んでしまうのも困りものだが、これはこれで。
朔間零という人外のかたちをとったものは、燃える炎のように煌々と輝く赤い瞳を朔に向けている。朔はその瞳の中に渦巻いた魔力のようなものに足を取られるように、すってんころりん、と意識を転ばせた。あの朔間零ともあろうものが、一介の生徒に目をかけている、という事実は、やや信じ難いことではあるが――しかしこうして、本人が朔の前に立っている以上、その手を取る選択肢しか採ることはできない。英智の時にはなかった威圧、あるいは――カリスマ、というべきそれに、朔はゆっくりと絡めとられた。
「夏目のことも、守ってくれるんですよね?」
「あたりめ〜だろ、ウチのカワイイ末っ子くんだぜ」
「なら、構いません。俺のことは――『わたし』のことは、どうとでもしてください」
『はじめての友人』。その空虚ですらある称号ばかりに執着し続けている朔に、零はそっと目を細める。言葉を紡ぐと同時にゆるりと揺らいだ翡翠の奥、うつくしいほどの意思の強い瞬きが、さっと雪のように白い瞼に隠されてしまう。その動きは、零の赤い瞳からそれを隠すかのような、半分反射的に行ったかのような動きをしていた。
朔を隠すということは、つまり、夏目を守っていたいくつかの防波堤のうち、最も外側にいたはずの存在が瓦解する、ということだ。いままで吹っ掛けられていたライブ対決のすべてを受諾するというひとつの選択のみを選んできた朔だが、その宣戦布告から身を隠すという新たな選択肢を手に取ることになる。朔はたしかに、すべての悪意、あるいは好意に対して身を隠す、だなんてことはしてこなかった。疲弊していたのは事実だが、だからといって夏目を背にしている以上、そのスタイルを変えることは不可能に近い。後ろ背に守っている夏目の存在を思えば、その姿が、幻がある限り、朔はなんとしてでも舞台の上で歌い続けなければいけなかった。そのことに、否定も嫌悪もしないけれど――むしろ夏目を守れていたのならその疲弊は勇者の証でもあるし――ただ、いつかそれが夏目の前に晒されてしまった折、夏目がどのような反応を返すのかが心配だった。怒るかもしれない。泣いてしまうかもしれない。もしかしたら自分を責めるかもしれない――そんな夏目のことを見るのは、朔には耐えられない。しかし、零がいましがた自身の手のひらにころりと出したのは、それらすべてを打ち消し、帳消しにして、そういった不都合な事実すらも書き換え、覆い隠すことのできる提案だった。
「随分、優しくて甘いんですね、俺に? 俺は一年生だし、あんまりあなたとは関わってこなかったと思うんですけど。なにか理由とかあるんですか」
「あ〜……まァ、さっきもいっただろ。『朔』のよしみってヤツだよ」
「……適当だなあ、理由が」
――それにお前は、どこか、弟に似ているから。零がそれを朔に言うには、ややはばかられる心情だ。元より弟と交わしていた『約束』を破ってしまったのは弟ではなく、零の方だし。勝手にそれに未練を抱いて、挙句の果て他人と重ねて、似ている、なんて。
唐突に言葉の詰まった零に対してゆるやかに首を傾げた朔の薄青の前髪が、さらりと揺れる。いっそ恣意的だと疑ってしまいそうなほどに、朔にとって都合よく進んでいく舞台装置の準備に、夏目がいつか言っていた『なんらかの意思』を感じてしまって、朔は思わずそっと表情を歪めた。ぺらぺらと話し続けていた零の言葉が止まってしまったのも、朔のそれに拍車をかけている。零ははっとして意識を同じく夢ノ咲学院に在籍している弟から目の前に立っている萌ゆるような緑色の瞳に移し、ぱちぱちと不安げに、不愉快そうに瞬きを繰り返す朔の薄青の髪を、がさり、と豪快に撫でまわした。
「まあ――いったんはこれで、お疲れさん?」
舞台の上のお前の歌、好きだったぜ。
けれど今度から、『冬海朔の舞台』はお休みだと言わんばかりに。朔はその手のひらにされるがまま、すこしの物寂しさを感じながら、大きな手のひらが遮る視界の中、零の持つ整った顔を見上げる。
「素直に受け取っていい感じですか、その言葉」
なんの間違いか、どんな気まぐれか、あの月永レオが書いてくれた、朔のためだけの曲だ。賞賛を受けてしかるべきそれを、しかしなまじ曲自体が良すぎるばかりに、自分の歌が褒められているという意識が薄かった朔は、じっと零の称賛を耳にしているままで。
「好きなように受け取れよ。俺は舞台上のことについて嘘は吐かねぇ――それにしても、夏目の前とは随分性格がちげ〜じゃねえか、お前? そういうの、俺はべつに嫌いじゃね〜けどよぉ?」
「……そうですか?」
そんな意識はなかったんですけど、というように、朔がふとなにかを考え込むように俯く。しかし零はそうして考えている時間も惜しいと言わんばかりにレッスン着のままの朔の腕を取った。行きたいとこ、あんだけど。なにも言ってないけど、察してくれ。その態度は、あまりにも傍若無人で。なにより、唯我独尊で。ここ最近の生活では海外を飛び回っている零に、夢ノ咲で自由に使うことのできる時間が少ないことは、朔だって重々承知している。だからといって、こうして強引に連れていかれるわけにもいかない。朔は必死に声を張り上げた。
「ちょっ……と、朔間さん待ってください、あのっ、俺、レッスン着のままだし! 流石に着替えさせてほしいんですけど。……朔間さん! 朔間さんってば、あの……、――零さん!」
ぴくり。朔の声に肩を揺らし、腕を掴んでいた零の手のひらから徐々に力が抜けていっていることを確認して、朔はようやく、ほう、と安堵の息を吐く。朔のなにがこのひとの琴線に触れてしまっていたのかは、よく理解できないけれど。
零は、朔に『零さん』と呼ばれた瞬間に、自分の持つ心臓の近くに、ピシャン、と大きな音をたててほとばしった稲妻のことに、しっかりと気が付いていた。零にいさんと無条件に自分のことを慕ってくれるかわいい後輩、愛すべき末息子のような、あるいはやはり、もう疎遠に近くなってしまった弟――凛月の気配を朔の口調から感じて、零はぐるり、と自分の顔を朔の方に向ける。
「あのさぁ」
「はい?」
「……『零お兄ちゃん』って呼んでくれね〜かな」
「……ばかなんですか?」
無論、そうした行き当たりばったりの、とくに衝動に任せたそれであったものだから、零のそれは他の誰でもない朔自身によってばっさりと、種すら残らないほど綺麗に刈り取られた。零はするりと自分の掴んでいたはずの手のうちから消えていく朔の白く細い、ともすれば折れてしまうかのようなおそろしさを内包する腕を目で追う。先ほどまで朔が真面目に練習していたレッスン室に吸い込まれていった朔が、再度その扉を開け、見慣れた夢ノ咲学院アイドル科の制服を身にまとい、零の顔を見上げるのを、零はしずかに、その扉の前で、ただ待っていた。
(……失敗しちまったかな)
あまりに未練の残る年下の集合体みたいな姿をしていたから、つい。こういうのはきちんと自分の役割だけを果たせる渉に頼むべきだったのかもしれないな、という、もはや手遅れの後悔を、頭の片隅に浮かべながら。