Recall/第五話
「……あレ」
「……夏目?」
「そうだけド。朔、どうしてここにいるノ……にいさんモ?」
「いや、なんか……俺もよく分かってないんだけど」
「分かってなイ、ッテ……。出るところに出たら誘拐だヨ? もウ、しらないひとに着いてきちゃだめでショ。しかたのない子だナァ、朔ってバ」
「もしかして俺、夏目に赤ちゃんとでも思われてるの? さすがにそこらへんの判断は自分できっちりするってば」
「さぁ、どうだカ」
かくして、朔が地味におそれていた――『廃倉庫で行われるリンチ』的な展開にはならないようだった。さすがに夏目の前でそんな残忍なことはしないだろう。存在も知らないような空き教室の前、どう考えても規定のものではないだろうマスターキーを使って開かれたその中にいた、驚いたようにぽかん、とちいさく口を開けた夏目と対面した時には、朔すらもしばし困惑してしまったほどだ。いまは夏目も多少この異様な状態に慣れてきたようで、驚いた表情を晒してしまったことにやや照れた顔は見せているものの、それだけで。
「というより零にいさんってバ、また変な思い付きでもしちゃったのかナ。朔、ほんとうに大丈夫なノ? ここからおうちまでの帰り方はわかル?」
「俺に対して過保護すぎるよ、夏目。大丈夫だってば。……とうの零さんは、俺たちの会話を見ながら楽しそうに笑ってるけど。ずいぶんといいご身分のようで?」
大丈夫なんですよね、と。いつの間にやら夏目が用意していたらしいあたたかな紅茶の注がれたカップを前に、朔が胡乱げに翡翠の瞳を細める。朔が一方的に『そう』なのかと思えば、夏目も自分たちを前にした時よりもよっぽど献身的だ――なんて思いながらくく、と喉を鳴らしていた零が、面白いものを見るかのようにその翡翠を見返せば、朔は気まずさをおぼえた様子でそっと、零の瞳から視線を逸らした。
「はは、悪い悪い」
「本当に思ってるのか怪しいですけど」
「お前マジで俺に対して当たり強すぎね〜か? ほぼ初対面だよな、俺たちって?」
「……嫌ですか?」
「……いや、べつに?」
「にいさん……」
とはいえ、まあ。安心しろよ、と、零は言う。ひどく穏やかな様子で、悠然と。害になることはないだろうと――夏目にも、朔にも。ただでさえいまの夢ノ咲学院は不穏という言葉を体現するような雰囲気の渦巻く魔境でもあることだし。本格的にそれが形を成して襲い掛かってくる前に、夏目の傍にいてくれる子を必要としていた矢先の、これだったから。年長者として、あるいは兄として、これくらいのことはしてやらねば、と。なによりも、庇護すべきと零自身が定めた二人のことだ。もしもそういったことがあったのなら、零がこの手を伸ばして守るべきだとは思う――たとえ凛月のように嫌われてしまっても、だ。
それでも。そう思って決意してはいても、可愛い弟から明確に拒まれてしまったことを思い返せば、零の伸ばしかけていた腕なんて、すぐに静止画のように留まってしまう。零の手のひらを一時のみ凍らせてしまった記憶にはたと気付いて不思議そうな目をしたのは、やはり夏目の淹れた紅茶を、猫舌らしい、細心の注意をはらって味わっている朔、そのひとだった。
「……あの、零さん」
大丈夫ですか、と。鮮やかに広がる翡翠色の瞳が、零の血のように赤黒い視界に光を灯すように、きらきらとした瞬きを散らすかのように、しずかにほとばしる。
――まったく。零がむりやり引き込んでここに連れてきたくせに。零がその触れたら折れてしまいそうなほどに弱っちい長い腕をこちらに引き込んだくせに。信頼なんてしませんよと言わんばかりの視線すら向けてきたくせに――その声は、やわらかな心配に彩られていた。やさしい子たちだ、と思う。身内の贔屓目などではなく、真実。幼く、純粋で、柔和な。だからこそ、誰にも壊されないように、大事に、大切にしまって、隠して、守っておかなければならないのだ。零は心配そうな視線を向けてくれている琥珀と翡翠ににっと笑いかけた。
「で、朔チャンは俺様の『隠し子』っつ〜設定な」
「……にいさんごめんネ、もう一回言ってくれル?」
「朔チャンは、俺の、隠し子」
「……あの、零さん。言い方が悪すぎるんですけど」
「あっはっは、俺様ちゃんもそう思う」
思うけれど――これがなによりの、『五奇人である朔間零のお手付き』をにおわせる、なににも劣らない称号だろうから、仕方がない。やや顔色の悪い弟分の恋路に突然顔なんて出して、馬の脚に蹴られたくないし。朔が女であることを公表していないにも関わらずに、それでも朔のことを好きになってしまっている夏目は、おそらく、朔が零の――恋人、と思われているのは、嫌だろう。となればやはり、これが最善手なのだ。いや、勝手に零がそうだろうと邪推してしまっているだけなのだけれども。だってどうしても、夏目が朔に向けている視線は、親友というべき存在に向けるには、やや甘いもののように感じて。
冬海朔がたったひとり、ただひとり、壊れてしまわないように。それが朔と零の交わした契約の内容だったけれど。零は口角を引き攣らせている朔の目前に席を構えた。
「夏目のためにも、あんまり無理してやんなよ?」
「善処します」
「……他の言い方なかったのかよ」
「努力します」
「え〜……俺様死ぬほど心配なんだけど」
ひくり。口角を引き攣らせる零に、事もなげに、死にやしませんよ、と、朔は言った。度々会話には出てきているらしい自分の名前に首を傾げている夏目をちらりと見て、朔はもういちど、大きなため息を吐く。そもそも夏目の前でするべき話ではないのに、どうして零は夏目がいる前でこんなことを朔に伺ったのだろう。
「ボクにはなんにもお話してくれないノ?」
「いや、うん、まあ、ちょっとねぇ。……あ、でも夏目、これで俺たち、一緒にいられる時間増えるかもだよ」
「……ふうン?」
まあ、今更夏目に疑われたって、痛くもかゆくもないけれど。夏目が淹れてくれたあたたかな紅茶の味が、以前話した朔の好みと合致していたこともあるし――それで十分、幸せだ。朔にとっては、適当に交わした会話の一部が夏目の中にきっちり根を張っていることの方が重要で、自分が疑われることなんて、とくに気にしていない。
そんな朔の心情を知ってか知らずか、夏目はその兄と友人の会話に入ることができないことに対して憮然そうな色をまとわせた琥珀を、しかし隠すつもりはないようだった。一種の甘えでもあるだろうその態度も、素振りも、朔はなによりも受け止めたくはあったけれども。どうしても、そうすることは難しい。ただ困ったような笑いを絶やさない朔から目を逸らした夏目に、朔は焦ったように言葉を重ねた。
「ごめんって夏目」
「べつニ、怒ってないヨ」
「仲間外れにしてる気はないんだよ。っていうか、むしろこの場だと俺の方が場違いっていうか――俺、『五奇人』じゃないしさぁ……?」
猫が飼い主にじゃれるかのような気軽さで夏目の腰元に抱き着く朔に、夏目は仕方ないなあというような様子を晒し、そっと呆れたような息を吐く。事実、呆れも諦めも、朔に対して少なからず抱いている感情ではあるけれど。その琥珀の中にあるたしかな安心とちいさな慕情を認めて、零は音にならないため息をこぼした。面倒臭くて、青さの抜けない、ゆるやかな愛情。多分、朔は自分の性別を失念しているのだろう。朔の本当の姿を知った夏目がどんな反応をするのかは気になるところだが、そういった野次馬精神は自分の奥底に沈めておいて、零はそっとその戯れを眺める。
――こうも仲の良い相手だというのに、夏目は朔のことを識らない。それは、朔が自分のことをひた隠しにしてきたからだ。この程度で懐に入れた人間を手放すような夏目ではないことなんて朔はすでに分かっているだろうに、それでも一握の不安が、それを告げようとする自分のことを押しとどめるのだろう。朔が認識している夏目にとっての『冬海朔』は、芸能界のことについてなにも知識のない、というのにポテンシャルだけはすさまじいほどに芽吹いているような、どこにでもいる、しかしそうはいない、稀有な存在であるだけの、ただの同級生でしかないはずだ。夏目を前にした時の朔は間違いなくそうで、そうあるように自分を見せているから当然ではあるのだけど――どうしていまになっても、それを続けているのか。流石に家族関係のことに首を突っ込むのには気乗りしなかったらしい零が首を傾げる。零は博愛の男だ。もしもそれがゆるされるのであれば、零はどのようなところにも手を伸ばした。どこまでも自身という傘にすべてを受け止めるほどの胆力をみせる零にとて、分からない、視認できないところはある。
それでも――来る者のことを拒むことなく、また去る者の背を追うことのなかったはずの、いっそ聖人のようですらある零が、自分から伸ばした手のひらは、零自身、はじめての存在だった。だから、彼らの恋路は応援してやりたいのだが。
「後ろ盾も少ないんだシ、知らないひとに着いてきちゃダメだヨ。次にこんなことがあったらどうなるカ、わかってるよネ」
「ひいっ、疑問符さえない!? ……あの、でも……零さんは、見たことあるひとだったから」
……大丈夫、かなって。
少なくとも、天祥院英智と名乗った男よりは、とは、夏目には言わなかった。朔も零もあの男のことは認識しているけれど、夏目がそれを知っているのかどうかということについては、朔はあまりにも無知だったので。
「『……かな?』ってなるくらいなラ、こんな危ない綱渡りしないノ。ほんとうに朔っテ、目を離すとおそろしいことになってそうで心配だヨ」
「あはは、ごめん。夏目にはいつも心配をかけちゃってるね」
「……べつにいいけド」
苦笑をこぼす朔の隣に立ってぐちぐちと説教まがいのことを続けていた夏目の、五月雨のように叩きつけられていた言葉が、ぐっと動きを止める。夏目と朔が並ぶ場所の向こう側、頬杖をついている零が、どこのカップルのいちゃいちゃを見せられているんだ、と食傷気味になってしまうほどだ。末っ子の『もしも』――があるとするのなら、その瞬間を写真におさめてやるのも、兄の使命だ。零にとって電子機器を扱うのはどうしても苦手なことだったが、それでもわたわたとスマートフォンを準備している零に、朔ははてと首を傾げた。朔にありがたいお言葉をたれていた夏目もまたそんな様子を見て零の名前を呼び、朔は座っていた席を立って、失礼、と言いながら、零の操作している画面をのぞき込んだ。
「どうかしたんですか」
「写真が撮りて〜んだけどよぉ」
「写真?」
それなら簡単ですよ、と、朔はするり、と、朔のそれより何倍も大きな手のひらにおさまっていたものを抜き取り、そのまま、零のスマートフォンでカメラを起動させた。そういえば、何を撮りたいのかは聞き及んでいなかったな。そう思った朔は、こてりと首を傾げたままの夏目と、おもいのほか真剣な表情をしている零を見て、くすりと笑う。
折角だし、この光景のひとつでも撮らせてもらおう。うつくしく畏怖あるべきものたちが立ち並んでいるこの景色は、目に焼き付けるだけでは物足りない。ふ、と微笑みを浮かべた朔のことを見る夏目に、朔はちらりと翡翠色の視線を向けた。
「俺が撮りますよ。ほら、夏目は零さんの横に並んで」
「ボクも?」
「そうだよ。零さんと夏目の写真なんだから」
君がいなくちゃ始まらないじゃない。朔のその言葉に、怪訝そうな顔をしながらも従い、零の傍に寄る夏目の体温を間近に感じながら、零はそっと眉を顰める。おかしい。夏目と朔のことを撮りたかったはずなのだけれども。
「俺はお前と夏目の写真を撮りたくて、」
「はい、アイドルでしょ、ふたりとも。ちゃんとその綺麗なお顔を準備してくださいよー? はあい、チーズ……♪」
零がそれを告げる前に、楽し気な朔によってぱしゃりと切り取られてしまった瞬間の零と夏目は、奇しくもほかのどんな写真よりも自然体なもので――満足そうに頷く朔に、どう言っていいものか、しばし迷った零は、ひとつのため息だけをこぼすことにした。存外大きく空き教室の中を反響した音に、やれやレという気持ちはあったものの、嫌がる様子を見せなかった夏目に、零はすこしだけ安心して。当初の予定は達成できなかったけれど、まあいいか、なんて思ってしまったのだ。いつかまた、この二人の姿をカメラに収めることができるだろう、なんて、夜闇の魔王たる朔間零にはそぐわない、希望的観測。
「夏目はかっこいいね」
「好きになってくれてもいいヨ」
「またまたぁ。俺はいつだって夏目のことが大好きなんだって、夏目はもう知ってるでしょ?」
真実、夏目のためだけに自分のすべてを投げだし得る朔の影を、しかし夏目だけは認識しえない。零は撮ることのできなかった写真の代わりと言わんばかりに、そのルビーのような瞳に、ふたりの姿を焼き付けた。『五奇人』――この不穏ですらある何某かのシナリオの上に集った、得難いともがら、超越者たち――彼らとともに、なんの忌憚なく、この子たちを愛でることのできる時が来ることを、祈っている。零はたしかに、そう願っていた。
――そんな祈りも、切実な願いも空しく。夢ノ咲学院を起点として渦巻く嵐は、動乱の時代は、すぐそこまで迫っていた。夜闇の魔王といえど、その波に足を掴まれたら最後、抜け出すことはできまい。