まどろみの窒息
妹のことをあなたに任せたいのだけど、構わないね――シャンパンゴールドの髪を風に揺らし、薄紫の瞳をじっと昂輝に向けている同業者――巴日和のその言葉に、昂輝は思わず、少しばかり思考を止めてしまった。
彼の妹というのは、たしかに、昂輝とも懇意にしている人間ではあるけれど、さて本当に昂輝の元に来てくれてくれるだろうかという疑問もある――なにせ昂輝のことを推しと言って憚らない少女だ。彼の妹――巴麻由という少女については、昂輝も十二分に承知している。ことある毎に解釈違いですと言って自分から逃げてしまう彼女ではあるが、なにより昂輝自身、麻由のことをよく気にかけている自覚はあるし。
「あなたを信頼して話すけれど。うちの妹が幼い頃、悪夢ばかり見て眠れなかった時期があることは知っているね?」
「ああ、それは麻由から聞いたことがある。そのせいで荒れていた時期に、俺を見つけた、と」
「うんうん、本当にあの時は助かったね――まあ、そういう時期、うちの家族としては、あの子に喋りかけるのがぼくだけだったということもあって、あんまり家族と折り合いが良くないんだよね」
いまにも溜息を吐きそうな日和の言葉に、おや、と昂輝は思わず目を瞬かせた。その話は、麻由から聞いたことがない。たしかに麻由から出てくる家族の話といえば日和のことくらいで、なにかあるのだろうなと思ってはいたが、そこまでとは。
「あれももう高校生になったし、環境の変化もあるんだろうけど――いまはあの時と違って、ずっとぼくが傍にいるのは難しいからね。その状態で実家に置いておくのもどうかと思ったんだよね」
――なるほど、それで白羽の矢が立ったのが昂輝というわけだ。たしかに昂輝はこれまでに麻由の食育だの、簡単な生活指導だのに手を付けて来ていたし、それを苦と思ったこともまた、昂輝自身は一度もない。いまこうして日和から授けられた彼女自身のことを放り出す気すら微塵もなく、昂輝は日和のその言葉に頷いた。現時点では事務所の寮に住んでいる身の上ではあるけれど、昂輝自身が以前住んでいたマンションの名義が残っている。彼女が住むには不便もないだろうし、あの場所が最適と言える以上、昂輝はもはや自分より他の人間に麻由が住む場所を用意してもらうような気などすっかり消え失せていた。
「俺で良いのなら、構わない」
「助かるよ――ただまあ、ぼくの目が黒いうちは、分かっているね?」
「アイドルとして」。衛藤昂輝自身のことを好きになったのは、たしかに麻由が先だろうけれど。それでもそこに、恋愛感情が挟まっていたことはなく、いつだって麻由は衛藤昂輝のことを、あるいは一種の神のようにすら思っていたことを、日和は知っている。そしてもうひとつ、「ひとりの人間」として、昂輝が麻由を好きになったことすら――それはたしかに、渦中の人間ではないからという理由も大きいが――それでも兄として、巴家のうちで唯一巴麻由という末妹が忌避なく、忌憚なく、あるいは遠慮なく接することのできる人間として、すべきことは心得ているので。
「頼んだよ、衛藤昂輝さん」
「……ああ」
――かくしてそれが、巴麻由という少女が高校生になる、その少し前の話だった。
「……え、お兄ちゃんその話わたし初耳……」
当の本人たる巴麻由に話が下りてきたのは、高校生になる四月の入り頃だ。兄である日和から引っ越しの準備はしておいてねと言われていたので大人しく荷造りはしていたものの、実家が用意するのだろう――いや、そんな余裕があるのだろうか――と半信半疑であった麻由にとって、自分の神にもひとしい衛藤昂輝という男が以前住んでいた場所を提供してくれるというのは、まさに寝耳に水、と言わんばかりの話だった。
「昂輝くんが優しくて良かったね?」
「そうだね……わたし、なにもあのひとに返せないけどね……」
衛藤昂輝という人間が――自分がそうと決めればそれを曲げることはない、意外と頑固な性質を持っていると知ったのは、そのひとと本当の姿で関わりはじめてからのことだ。なんということはない。作曲担当の藤村さんでさえはじめはリストラされてニートだったところを昂輝に拾われたという話を聞いた時は、流石の麻由も驚きのあまり言葉を失った。衛藤昂輝とはそういう人間であるからして、しかもあの昂輝くんというひとは、麻由の生活が不摂生だと知るや否や餌付けだの様々なほどこしを麻由の手のうちに握らせるほどのパワーを持っている。これで今度から家を借りるだなんて、いったいなにを返せばそれに釣り合うのかと思う麻由を、けれど日和がそっと押し留めた。
「昂輝くんに頼んだのはぼくだけど、一も二もなく頷いたのは昂輝くんの方だったね。……お前は、その意味をきちんと推し量るべきだね」
それから、きちんとその不眠を治してくるんだね! 声高々にそう宣う日和の頭の後ろから、きらきらと光にきらめく黄金の髪が落ちてくる――麻由がそのひとを見間違えることなど、ただの一度もない。
「こ――昂輝、く……」
「――麻由を迎えに来たんだが……日和、俺は時間を間違えていただろうか?」
「いや、ナイスタイミングだね。うんうん、ぴったりだ。これぞ、良い日和……♪」
アイドルが。しかも、孤高の光とすら呼ばれているこの美しいひとが――少しの変装だけして迎えに来るだなんて! ――思わず発狂して叫び出してしまうかと思った。なんとか叫びは喉の奥にしまいこめたが、それにしたってあまりにもお粗末すぎる変装だ。何年芸能人をやっているのか。
なおそこまでひどい変装というわけでもなく、芸能人として「嗜み」レベルのきちんとした変装はしているわけだが、あまりにも麻由の視界にキラキラエフェクト満載のフィルターが掛かってしまっているだけで、昂輝はなにも悪くないということは、ここにしっかりと明記しておく。
「準備は出来たか?」
「あ……えっと……うん、必要最低限は……」
――実際。
麻由が悪夢障害で不眠症に陥り、生活からなにからひどく荒れた時――日和以外の家族は、それまでの態度から様子を変えてしまった。まるで腫れ物を扱うように麻由の顔色を伺う家族の姿は、麻由にとって絶望を誘うものでしかなく――実家から離れて暮らすとしても、その家が実家を感じさせるものである以上、根本的な問題はいまだ根付いたままになる。そのことを考えると、日和の提案はなによりもいまの麻由にとってベスト、これ以上ないものだとも言えるだろう。
「必要なものがあれば、俺が用意する。いつでも連絡してくれ。俺が来れない日は、ケンたちが来るかもしれない」
ただひとつ麻由にとって誤算だったのは、その手を――この手を。麻由にとっての神様が引いている、ということだ。
昂輝とともに家を出た後ろ姿を日和に見送られた麻由は、そっと上の方にある昂輝の顔を仰ぎ見た。面倒そうな表情などミクロンほども感じさせることのない普段通りの涼やかな顔だけが空とともに麻由の視界に映り、麻由は思わず昂輝から目を逸らす。繋がれていた暖かい手が、ふとぎゅっと握られて――麻由はもういちど、昂輝を見る。
「――すまない」
「あ……え、昂輝、くん?」
ちいさな、懺悔の声。すこしばかり形のいい眉をひそめた昂輝の表情が、そこにはあった。
「ただ、俺が……他の人間に、麻由の面倒を見られたくなかっただけなんだが」
迷惑だったか、と。昂輝が告げる。
これまで、あまりにも長い時間を――あるいはある人間から見れば短いだろう時間を、麻由の世話に費やした昂輝が、はたと母性本能とは様相の違う色を帯びた感情を発露させてしまったことを目撃したのは、なにも昂輝自身ばかりではない。日和はその上で昂輝を信頼してその話を昂輝に持ちかけたし、最後のセーフティとでも言わんばかりに釘だって刺した。
するりと麻由の手のひらに昂輝のゆびさきが絡まるのを、麻由はぴくりと肩を揺らして、それでもその指を否定することなく、そっと目を閉じる。
「う、うれしい……とか、言っちゃっても……良い感じ、ですか……」
申し訳ない、なんて。そんな感情を、たったのいちど、ほんの少しだったとしても、昂輝に植え付けたくなんてなくて。麻由が風に攫われそうなくらいにぽつりと零した声は、果たして昂輝の耳にまでしっかり届いて――それから。
「当たり前だろう」
ひどく、幸せそうな声で――そのような顔で、昂輝がそう言うものだから。麻由もまた、それでいいかと思ってしまった。
まあ――推しが幸せそうにしているのだから、それでいいか、なんて、そんな、ばかなこと。