ねむらない夕焼け

 彼の庇護下であることに、甘んじている自分がいる。衛藤昂輝に守られていることに、衛藤昂輝に、慈しまれていることに、甘んじて――ただ眠っているだけの、わたしがいる。
 おそろしい。その手が離されることが、なによりも。わたしが眠れなくなった頃、あまりにも露骨すぎるほどに態度を変えた、血を分けた家族からの拒絶よりも、もっと。
 呼吸が浅い。耳鳴りがする。眠っているはずなのに、睡魔に負けてしまったはずなのに、わたしの意識だけが宙に浮かんでいるみたいだ。
 ――だって、だめになる、から。「昂輝くん」と呼ぶと、そのすらりとしたゆびさきで触れてくれるひとの低い体温で、全部、わたしのからだが消えていくようで。
 こわくて、寒くて、背筋が震える。まるで、いま生きている世界がすべて紙面上のもののようで、そんな悪夢を見る。わたしすらも、そこでは人間ではなく、ただのインクで、薄っぺらで、それで、――昂輝くん、も。
「麻由? どうしたんだ」
「ぁ……ちが、ご、ごめんなさい、わたし、」
 ご丁寧にハンガーに掛けていたコートを肩にかけ、もう靴も履いて、そろそろ寮に帰るのだろう格好をした昂輝くんが、ふとわたしの起こした物音に振り向いて、麻由、と名前を呼んで、それからすこし、顔色を変える。
 寮に帰ることを、引き止めたいわけじゃなかった。この家に住んでいるのは、昂輝くんの好意にすぎなくて、度々昂輝くんがわたしを訪ねてくるのも、その好意に含まれているひとつの要素にすぎない。これ以上は、領域侵犯にしかならないだろうから、はやく帰って――こんなに暗い夜にひとりで寮に帰らせるのもすこしばかり心配なのに、ほんとうに真夜中になってしまっては、心配がすぎて眠れもしない。
「かえって」
 震える手で、震える声で、それでもはやく帰ってほしくて。――この夜のことは、お兄ちゃんも知らないから、バレたりしない。だから。
「お願い、昂輝くん、わたし大丈夫だから、迷惑かけないから、大丈夫、……帰って、大丈夫だよ」
「麻由、……ちゃんと俺の方を見てくれないか」
 大丈夫、って、笑ったはずだった。これ以上迷惑かけられないからって、そう思ったはずだった、のに。昂輝くんは靴を脱いで、そこらへんにあったソファに脱いだコートを適当に引っ掛けて、わたしの頬を撫でる。
「俺は頼りにならないか?」
「え、いや、そんなこと……」
「麻由のことなら、迷惑だなんて思わない」
 いままでに思ったこともない、なんて昂輝くんは続けるから、わたしは思わず返事に窮してしまった。なによりも困惑してしまったのは、おそらくそれが嘘ではない、ということで――だから、そうしてさらりと指を通された髪に、ゆったりとからだを預けてしまう。調教、といえば外聞が悪いけれど、それとよく似ているだろうか。
 かみさまだった、推しだった、ただ見ているだけで満足だったひとに出会って、ご飯を食べさせられた。健康な生活を送る手助けをされて、ついにはお兄ちゃんにさえこのひとなら安心だねとか言い出してしまって、このひとの昔住んでいた家に住まわせてもらっている。毎夜訪ねてきてはわたしの話を聞く昂輝くんは、かみさまというよりは正しい親のようで、いつしか憧憬は親に、兄に向けるような親愛に変わった。
 それで、昂輝くんが、わたしのことを好きだとか言うから――甘えることができるひとだと、そう認識してしまったのが、たぶん一番の誤算だったと思う。
「眠れなかったのか?」
「――いやな夢を見た、気がして……」
「……そうか……」
「……昂輝くん?」
「……いや。今日は寮に帰らない、とケンに連絡しようと思ってな。丁度明日の仕事は午後からなんだ」
 すっかりわたしが住み慣れてしまった場所に、きらきらとしているひとが触れる。もとは昂輝くんの家で――藤村さんの家でもあったのだから、手に馴染むのは当たり前ではあるのだけれど。
 ソファに剥き出しになって置いてある肩掛けを拾った昂輝くんが、それをわたしの肩にふわりと広げた。
「寒くないか?」
「あ……ちょっとだけ」
 分かった。わたしの言葉にそう返した昂輝くんがキッチンに入っていくのをぼんやりと見送る。なにしてるんだろう、昂輝くんのことだから心配はしていないけど、ぼこぼことなにかが沸騰している音がして、はた、と。ふたつのマグカップを手に、熱いぞ、と言って片方をわたしに渡す昂輝くんは、ゆるやかに微笑んでいるままで。
「お前が悩んでいるのなら、力になりたいと思う。……相手のことを好きなのは、なにも麻由だけじゃない」
 むしろ。
 ――むしろ、なんだというのだろう。首を傾げながら昂輝くんを見上げれば、昂輝はいや、というようにかぶりを振った。なんでもない。ただ――「お前が好きだから、いつまでも見捨てられないんだ」、と、昂輝くんが言うものだから、まんまと流されて、誤魔化されてしまった。
「添い寝でもしてみようか」
「ご自分がアイドルということをお忘れですか?」
「残念だが、この家ではただの衛藤昂輝だし、ただの俺はお前の彼氏だからな」
「……ケンくんはなんて?」
「構わない、だそうだ。それから、リョウが」
「桜庭さんが?」
「『コウだからないと思うけど、まだあの子は未成年だから手は出さないようにね』と」
「……なんであのひとちょっとノリノリなの?」
「ふふ、さあ、なぜだろうな」
 楽しそうに笑う昂輝くんに手を引かれて、わたしは寝室へ。どこか嬉しそうにしている昂輝くんに疑問をいだきながら、わたしの頭を撫でている体温にいやに安心して、あんなに眠れなかったのに――あんなに、変な考えばかり巡っていたのに、昂輝くんの手のひらだけで、すべてがゼロになる。
「俺がいるから、安心しておやすみ」
 なにもかも。彼の庇護下であることに甘んじているわたしを、けれど彼自身が認めてくれていて、それを望んでくれていて――だからわたしは、昂輝くんの手のひらの中で、ただ、眠るだけだ。