忘却に伴う呪い




ガランとした家に甲高い受話器を置くベルの音がチンと響く。
置いた受話器を離せず立ち尽くす一松は、凍てついた氷に手の皮膚が張り付いてしまったかのように見えた。
春先だというのに真冬の寒さが残る今日、暖房のない玄関口はひんやりとしていて薄着の一松は身震いをした。
そのせいか特に長電話もしていないのに、彼の四肢の末端は完全に冷え切ってしまいすっかり青ざめている。
一松は自分のつま先を虚ろに眺めながら、恐らく自分の顔も青ざめているのだろうと思った。
それは外的要因からくるものではなく、電話で伝えられた内容によるものだ。
一松は震えそうになる唇を軽く噛んだ。

一松の顔から色がなくなる大凡5分前、松野家の黒電話がけたたましく鳴り響いた。
普段であれば滅多に電話に応じない一松ではあったが、今日は彼以外の家族は皆外出していたため仕方なく電話をとった。
一松はどうせ家族の誰かだろうとあたりを付け、出ないことで後で何か言われるのも癪だったので重い腰をあげたのだった。しかし想像していた兄弟の誰の声でもなく、今後話すことも無いと思っていた中学生時代の友人からの電話だった。
最初まるでピンとこなかった一松ではあったが、名前を告げられてやっと同級生だと気がついた。

「もしもし、松野さんの御宅ですか?あ、一松か。みょうじなまえさんが一昨日の夜に亡くなった。告別式があるらしいから…」

一松の友人はそう口早に告げると一松が状況を飲み込む前に通話を終わらせた。
ろくな返事も無い一松に呆れてしまった友人が、途中で案内をやめてしまったのかもしれなかった。
どちらにせよ一松の意識は、自宅の玄関口に立ち知り合いの訃報を聞く自分ではなく、遠い中学時代、息が詰まるような橙色の空が広がる屋上に立たされていた。
みょうじの告別式の事を受け止め、友人の話を聞く余裕は内側から湧き上がる震えにかき消された。

***

見事な夕日に染め上げられた白いセーラ服。
紺色のセーラカラーは風と遊ぶようににはためき、スカートは原っぱを駆け回る子供のそれと同じく軽やかに動いて白い太ももを露わにしていた。
細い髪は風に乗り、まるでドラマの印象的なワンシーンを観ているかのような情景に一松は屋上のドアノブに手をかけたまま、ぽかんと立ち尽くす。
周りに撮影用カメラを探す程に完成された空間は、自分が空気の読めない邪魔者に感じて一松は扉を閉めそうになる。
しかし、扉を閉めなかった理由は、セーラ服の彼女が落下を防ぐ柵の外にいた事と、揃えられた靴の下に女の子らしい花の描かれた手紙が添えられていた事だ。
出来すぎた演出に現実味こそ無かったが、用意されたアイテムを繋ぎ合わせて導き出される漢字二文字が、滅多に躍動しない彼の心臓を強く跳ね上げさせた。
声をかけようにも呆気にとられた一松の声帯は機能せず、彼はパクパクと口を動かすばかりだ。
一方で一松は下手に刺激しない方が良いのでは無いかと、冷静に彼女の背中を見守る自分もいるように感じていた。
何にせよ、夕焼けの元女の子が屋上の柵を乗り越えた場面に遭遇するという、妄想すらしたことないような状況に混乱していた。
彼女の髪の揺れ、聞こえるはずもない息を吸う音さえ、一松の手足の筋肉を敏感にこわばらせた。
一松は口に空気をたっぷりと貯め、息を細く吐き出すが、重く痺れる手足は未だ動き出しそうもない。
出来ることならこのまま何事もなかったかのように屋上を後にしたかったが、その後訪れる自己嫌悪は恐らく今までの比ではないないだろうと思い、背を向けたい衝動を抑えた。
どんな結末であれ、このまま逃げることは一松に良い結果をもたらすものではない事は彼にもわかったようだ。
すると何もできず一人慌てふためく彼に気づくことなく、柵向こうの彼女は空に敷かれた透明な道を探すように足を前に差し出す仕草をした。

落ちる。

ゾワッと硬いブラシで撫で上げられた感覚の後、今まで動くことを拒否していた一松の体が、やっと彼の意思に従う。
始めの一歩が異様に重く、その後足は引っ張られるようにして自然に足は前へ出た。
今にも空へ踏み出しそうな彼女の元へ一松は走ると、咄嗟に彼女の手を掴む。

「何やってんの危ないでしょ。」

一松はかすれた声をやっとの事で搾り出した。
掴もうとした手が空を切らなかった事に一松は安堵したが、なおも妙な鼓動を続ける心臓のせいで手は汗ばんでいた。
ツルツルと滑ってしまいそうで、彼は彼女の手を取りこぼさないように、手にしっかり力を込めた。
一松が握った彼女の手は驚くほど冷たく感じ、すでに気持ちは先立ってしまったのではないかと思うほどだ。
極度の緊張で体温が上がってしまった一松の手では彼女が火傷をおってしまうのではと杞憂する。
同様に彼女も目を白黒させながら、掴まれた手と一松の顔を同一人物の手だと確認するよう視線を上下させた。
彼女は一松が軋むドアを開けながら屋上に入ってきたきたことも気づくことができない程、空の向こうに興味があったようだ。
しかし彼女は人の存在に驚いただけで、それ以上取り乱す訳ではなく、一松の手を握り返しこれ以上空の方へは進まない意思を示す。
そして、肩をすくめると何故か哀れむような視線を一松に送り、彼女はおとなしく彼が導くままに柵を乗り越え安全な内側へ入る。

「ごめんなさい。嫌な場面に鉢合わせさせちゃって」

風に煽られて乱れた髪を手ぐしで治しながら俯く彼女は、彼氏との逢引を友人に見られてしまった年相応の女子に見えた。
空の先を見据え、今にも足を踏み出しよもやその体をコンクリートの道に自ら打ち付けようとしていたことを忘れてしまうくらいに、彼女の一松に対する反応はあっさりしたものだった。
一松は彼女に夢遊病の気でもあるのでは無いかと疑ったが、決まり悪げに苦笑し、床に置いた手紙を拾い上靴を履いている様子はしっかりしたもので、それは考えにくい。
なお状況が飲み込めない一松はしきりに視線を泳がし、最後は彼女の手に持たれた便箋に視線を落ち着かせた。

「それ…」

一松はおずおずと彼女が手に持つ手紙を指差す。
何事もなさそうに持っているその手紙が授業中友達と回すくだらないものではない事はわかっていたが、この状況で彼女がしようとしていた事に触れず、何事もなかったかのように立ち去る程彼は他人に無関心ではいられなかった。
しかし、面と向かって何故そんなことをしようとしていたのか直接聞けるほど、一松の肝は座っておらず、恐らくは受け止めるほど大きな器は持ち合わせていない事は自分でも分かっているようだ。
しかし人の踏み入ってはいけない領域に足で上がりこむ背徳感が一松の表情と声を強張らせる。
途端もしかしたら聞かないほうが良かったかもしれないと、後悔の念にじんわりと支配され嫌な汗が背中を流れる。

「遺書」

ところが彼女は言い淀むでもなく、言葉を選ぶでもなくやけにさっぱりと答えた。
彼女は自分が持っている手紙を僅かに強く握り、確かに持っていることを確かめた。
ここまできて隠し通す意味も無いと思ったのか、竹を割ったような性格なのか分からなかったが、余りにも軽くその言葉を発するものだから一松は一瞬言葉の重さを測りあぐねる。
返ってきた言葉は彼の想像するそのものだったが、余りにも直接的だったので逆に理解するのに時間がかかり惚けたように口を開けた。
言葉の意味が一松の感情を左右する器官に浸透し始めると、彼は徐々に墨汁の海に放り出されるような暗さと息苦しさ苛まれた。

そんな彼の瞳の揺らぎを見て彼女は、申し訳無さそうに眉毛を下げる。
見せるつもりはなかった、何も聞かなくても良いのにと目線を合わせずスカートの皺をのばす彼女も一松同様、表面に現れていないだけで気が動転しているようだ。

こんな深刻な状況に今まで出会ったことのない一松は、掛ける言葉がみつからなく、手をスラックスのポケットに入れたり出したり、口をむずむずと動かしては声にならない息を吐き出していた。

「…どうして?」

聞こえなかったら聞こえなかったでいい、その方が気が楽という気持ちがあったのだろう。
一枚は小さな声で彼女の問いかけると、目も見れないのか下を向いた。
しかし、彼の思惑は外れその言葉を聞き取った彼女は先程とは違って言い淀む。

「病気…で」
「病気?」
「多分、治らない。…だからあまり迷惑はかけたくなくて。」

途切れ途切れの情報が、彼女の口から浮かび上がる。
一松は彼女の目を見流ことができず、薄汚れた自分の上履きを眺めてはいたが、言葉の一つ一つを丁寧に拾った。

「今年、大きな手術をするの。たくさんお金もかかるし、それで治るかどうか分からない」

ただの延命、結局全うできないなら早めに命を絶ってしまった方が家族のためだと彼女は言った。
そこまで裕福ではない両親に迷惑はかけられないと。
一松はそれが正しいとも思わなかったし、間違っているとも思わなかった。
彼女の言ってることを正しく判断できる立場でもなかった上に、一松は人の気持ちを慮る力量はもともとあまり備わっていないようだ。
とはいえ、彼女のような稀有な運命はそうあるものでは無いので、言葉を選ぶのは当たり前といえばそうなのだが。

彼女を踏みとどまらせる正解の一言を考えれば考えるほど、適切と思える単語はばらばらに分裂していき言葉にならない。
根が真面目な一松は、この場に立ち会った以上自ら命を絶とうとする同級生を引き止めたいと思っていた。
しかし掛ける言葉を必死になって探す彼の脳みそは、夕暮れの涼しい風吹きぬけようともが一向に冷静になれず軽い目眩を覚えた。

「でも、もう少し待つね」
「え?」
「死のうとするの」

彼女の顔を真正面からは見れず、風に揺れる毛先ばかりを見ていた一松は顔をあげて彼女の顔をみる。
自分にはどうにも止められないような理由で彼女は悩んでいたが、あっさりとその行為を、やめると言ったのだ。
しかし、待つという言葉がひっかかり一松は不思議そうに、顔を覗き込んだ。
夕焼けの下でも顔色悪く彼女はいかにも病弱そうにみえた。

「これで死んだら貴方に迷惑かけるでしょ?」
「ぼくに?」
「だって、きっと止められなかったて後悔する。私のせいでそんな後悔して欲しくない」

もう一度誰にも迷惑をかけたくないのと小さな声で言う彼女は、随分弱々しく見えた。

「だから貴方が忘れた頃私は死ぬよ。私のこと綺麗さっぱり忘れた頃に」

生きていても自分は迷惑な存在だと言い張る彼女の目には一点の曇りも無かった。
彼女のことは深く知らない一松ではなあったが、闘病生活のなかでジワジワと家族への罪悪感が彼女を削っていき、気づけば純粋なまでに磨かれた死への羨望がそこにはある気がした。

「そうすれば、貴方は罪悪感なんて感じなくていいでしょ?」

確かにその通りだと思ったし、その日から数日経って彼女が例の高額な手術をし成功したと聞いた。

彼女が病弱だったことはクラスメイトのほとんどが知っていたことだったが、大病を患っていることは教師以外は知らなかったようだ。コミュニティの狭い中学校内では噂は瞬く間に広がり、彼女のことを忘れようにも忘れられなかった。彼女が学校に復帰してきて何度か一松は屋上へ行き、柵の外側にたつ女の子を探したがいなかった。安堵すると共に、じわじわと彼女を忘れることが彼女を殺すことと一致すると気づいたのだ。

一松が彼女を忘れるなんて、彼女の知りえないことではあったが、どうにもそんな思いに駆られて数回一松は自分が忘れていない事を証明するかのように屋上に行ったのだった。

しかし、時たま見る彼女の病弱そうだが元気そうな姿を見ているうちに、月日が経つうちに、高校受験という難題に頭を抱えているうちに、パッとしない高校生活を送っているうちに、一松の中から彼女の存在は消えていき、気づくまでもなく糸クズほどの記憶となって、他の記憶の下敷きになっていった。高校が別だったこともあり、あれから数年間彼は彼女を思い出すきっかけを一切失ったのだった。

***

そして、彼女はそれはそれはあっさりと死んだ。

一松からすれば彼女に劇的な何かがあったかどうか知りえないが、彼の感覚からすればあっさりだ。なんの味っ気もなく、電話口の向こうから感情のない声で告げられた。

しかし、糸クズとなっていた記憶は寄り合い鮮明な形で思い出される。ドラマのような情景に、風に舞い上がる髪、夕日に染め上げられる真っ白な顔、そして申し訳なさそうに眉をひそめながら、屋上から落ちていく彼女。

「僕が、忘れたからだ」

一松は冷たい板張りの玄関口で一人うずくまった。



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