一松とイチマツのお粗末な結末:起
一. 起
ワンシーズン飛ばして、夏が到来したかのような雷雨。五メートル先も白く煙り見通すことができず、一松は傘の下で肩をすぼめた。
昨日から降り続いていた春霖が一転、攻撃性をもった大粒の雨となってビニール傘を襲う。通常の雨でさえ、雨水が持ち手を伝ってくる安物のボロ傘が、癇癪を起したような天候に堪え切れる訳もなく。申し訳なさそうに雨漏りを起こし、みじめに一松を濡らしていた。
先日パチンコで儲けたものだから、少し遠くまで足を延ばし高級ネコ缶を買いに出かけたその矢先だ。まんまと酷い雨に振られたものだから、一松はつくづくついていない自分を呪う。
重ねて、住宅が立ち並ぶこの一角には雨をしのげるコンビニなどは見当たらない。逃げ込める場所がない以上、足早に歩みを進める他なかった。地面から跳ね上がった雨粒のせいで、早々にジャージはぐっしょりと濡れ、ひざ下にまとわりついて冷たかった。夏の豪雨とは違い肌寒く、一松の肌にはぶつぶつと鳥肌が立っていた。
雨に濡れて風邪をひこうが、肺炎になろうが、死んでしまおうが、正味どうでもよかった。とは言え、さしあたり顔やら頭やらが濡れて、水分が伝う不快感からは逃れたかった。彼はふと公園の存在を思い出し、小走りで路地を曲がり見晴らしの良い公園に避難した。
公園の土は例のごとくぬかるみ、彼のサンダルを見るも無残な泥まみれにした。彼はぐじゅぐじゅするサンダルに「うぇ」と舌を出し、ピンクや白、ライトグリーンのタイルがランダムに貼られたかわいらしいトンネル型の遊具に飛び込んだ。
とにかく、酷い雨が過ぎ去るまでここで雨宿りできればいい。幼い頃よりも大きくなった体は、子供用の遊具にはふさわしくなかったが、文句は言っていられない。立てはしないものの、身をかがめていれば居心地はよい。雨をしのぐにはいささか狭いが、十分だ。一松は腰を下ろすと、寒さから身を守るように膝を抱えた。
入り口は四方にあり、四つん這いでしか進めない細長い筒状のトンネルが合流する真ん中の地点に、広い空間ができている。中央は膝立ちができるくらいの高さはあり、モルタルの床が冷たい。入り口から外光は差し込むが、水は入らない仕組みになっているのだろう。砂の侵入は許しているものの、からっと乾いていて彼の膝の跡しかなかった。
トンネルの中央部分は驚くほど静かだ。土砂降りのザーザーとした音は、一松の知り得ないどこかで降っているかのように遠い。取り残された感じがして、落ち着かない。
「にゃーお」
すると、トンネル内に弱々しい猫の鳴き声が響く。一松は膝に埋めていた顔をあげると、キョロキョロとあたりを見渡した。世界から切り離されているような感覚に、心地よい感傷を味わっていたところに思わぬ来訪者だ。
一松が入ってきた入り口とは反対方向のトンネルを覗くと、そこには濡れそぼった猫がいた。彼は体育座りの状態からもぞもぞと四つん這いの態勢になると、猫の声がする方へ進んだ。ずるずると膝を引きずりながら、声の聞こえてきた方へゆっくりと近づいていくが、猫はまだその場所にいるようだ。
視界が悪くはっきりとは見えないが、鳶色の目が暗がりでキラリと光った気がした。彼は警戒心を与えないように、ゆっくり手の甲を向けて猫に腕を伸ばす。猫は、一松の予想に反してゴロゴロと喉を鳴らし、彼の冷たい手にすり寄ってきた。一思いにヒョイと抱き上げたが、猫は嫌がる素振りも見せずまだ喉を鳴らし続けている。喉元をカリカリとかいてやろうとすると、指に何かしら引っかかり、見ればそこには紫色の首輪があった。
「飼い猫、か」
道理で人に慣れている訳だ。彼は先ほど腰を落ち着かせた位置まで猫を抱え、連れて行く。猫は水が滴るほどビショビショに濡れていたので、パーカーのすそで猫の体を拭いてやった。濡れてはいるものの、毛並みの良さが伺え外飼いの猫ではなさそうだ。
体育座りした足と腹の間に猫を乗せると、猫は居心地がいいのか、丸くなって居座る準備をしている。人慣れしている毛並みの良い猫がなぜこんな大雨の中外を歩いているのだろうか。ましてや、雨をやり過ごす術も知らないような、世間知らずが。
「捨てられたの?」
俺みたいに、という言葉が口を衝いて出そうになったが、自分は誰に捨てられた経験がないことを思い出した(そもそも拾ってもらった経験すらない)。もちろん猫は何も答えず、濡れた毛を舐めて整えていた。「呑気なもんだな」と口にした瞬間、ピシャーンと雷がどこかに落ちた。近いのか、地響きが地面から伝わる。ぼわんとトンネル内に音が反響し、屋内で聞くよりも遥に迫力があった。猫は毛を針金のように毛羽立たせて震えている。一松の心臓も確かに強く脈打った。
彼は、猫と自分両方を落ち着かせるように、ゆっくりと猫の柔らかな体を撫でる。体温のあるふにゃっとした生物に、緊張に固まった心臓も柔らかくなる。
意識がオブラートを包まれたように曖昧になってきて、自分と世界の境目が分からなくなった。一松は抗えない眠気に襲われる。呼吸で上下する柔らかな体温を感じながら、眠気に抗うことなく意識の底へ沈んで行った。
「イチマツー? イチマツー?」
一松は自分の名前を呼ばれ、ハッと目を覚ました。トンネルの中で眠ってからどのくらいたっただろう。猫を抱えていた腹部は暖かいが、背中と腰は冷えてしまっている。体を動かすとバキバキと音がしそうな程に関節が固まっていた。
一松はぶるりと身震いをして立ち上がろうとするが、天井の低さを失念しており勢いよく頭をぶつけた。ジンジンと痛む頭と、凝り固まってしまった節々の痛さに呻く。急に起こされた猫は、不機嫌そうにこちらをみていた。
「イチマツー?」
またも、どこかで自分を呼ぶ声が聞こえた。兄弟の誰かでは無く、女の人の声。母親かと思ったが、母親よりも随分若い声だ。一体誰が自分なんかを呼んでいるのだろう。混沌としている寝起きの思考と、痛みの情報過多のせいで、一松には答えがまるで出せなかった。しかし、切羽詰まったように自分の名を呼ぶ声が、彼の節々の痛み以上に痛々しく感じ、早く自分の存在を教えてあげなくてはいけないような気がした。
一松は猫を小脇に抱え、小さなトンネルを這って出る。雷雨は、細い糸のような弱弱しい霧雨に変化していた。トンネルの外に投げ捨てた傘を探すがどこにもない。土砂降りの雨に耐えかねた誰かに持って行かれたようだ。一松は苦々しそうに舌打ちをする。
すると、公園を右往左往するベージュ色のレインコートを着た女の人と目があった。前髪が額に張り付き、顔全体が濡れている。鼻は赤く色づいていて、眉が綺麗な八の字を描いていた。
彼女は一松見るなり目を丸くし、肩の力を脱力させた。そして小走りで一松に駆け寄った。
「イチマツー!」
一松は目が回りそうなほど高速で記憶の引き出しを漁って回った。しかし、自分の名前を呼び、こちらに向かってくる彼女の顔を一松は思い出せなかった。少なくとも、女性に好意的に接された経験のない一松は、思わず逃げようとするが思考に体が付いてこない。根が張ったように立ち尽くしていると、彼女は一松の足元にしゃがみこんだ。
「イチマツ! よかった! ここにいたんだね」
よもや泣きそうな声で彼女はそういうと、彼の小脇に抱えられていた猫は甘える声でにゃーと鳴いた。
「……だ、誰?」
やっとのことで振り絞った言葉は、乾いた紙をこすり合わせたような声だ。初めて言葉をしゃべった猿人のようで、恥ずかしくなった。一松の足元にしゃがみ込んでいた女性は、初めて一松の存在に気が付いたように彼を見上げ、勢いよく立ち上がり深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! このこ、イチマツを見つけてくれて!」
そこでやっと、彼女が呼んでいた名前は、この猫の呼び名だと初めて気づいたのだった。一松は、一瞬でも自分と彼女に何らかの関係があるものと勘違いしていたことを、恥ずかしく感じた。
しかし、まさか猫の名前がイチマツだなんて誰が思っただろうか。しかも、一松がイチマツを拾うなんて天文学的確率ではないだろうか。自分の勘違いも致し方のないことだ。勘違いの肩を持つように肯定的に考えたら、彼は急に腹立たしくなってきた。一松は猫をずいっとレインコートの彼女に無言で押し付け、立ち去ろうと踵を返した。
今日は最悪な日だ。体も痛いし、帰るのも遅くなる。今日に限っては猫を拾うべきではなかった。彼はそそくさとその場を立ち去ろうとした時、不意に左手を掴まれる。その手は、猫のように暖かくて柔らかかった。
「あの、待ってください。お礼くらいさせてください」
「いいよ、お礼とか」
「で、でも。何だかすごく濡れてるし傘持ってないし……風邪でもひいたら」
「いいよ、俺、風邪とかひかな……っぶえっくしょーい!」
しばしの静寂。注がれる視線。猫の呑気な鳴き声。ちくちくと肌に刺さる雨の音。彼女はむずかゆそうに口元を歪ませ、一松はみるみるうちに赤くなった。
「っぷ、あはははは言ったそばから」
「…寒かったし」
「ですよね、寒かったですよね。なのにイチマツと一緒にいてくれてありがとうございます」
「別に」
「暖かいお茶でもださせてください」
「いや、それは……」
「ほら、イチマツもこんなに懐いているし」
イチマツと呼ばれる猫は、その柔らかそうな丸い手を愛らしく一松に伸ばしていた。散々昼寝をしたのだから、次は遊んでくれとでも言いたげに。飼い主が雨の中レインコート一枚で探してくれたというのに、本当に呑気なやつだ。一松は口元を綻ばし嘆息する。
「……そいつがそう言うなら」
「決定。家はすぐそこなんです」
一松はこくりと頷くと、彼女に誘導されるがままついていく。いつまでも繋がれた左手が熱くて熱くてしょうがないなんて、言い出すこともできずに。
「ところで、お名前聞いてませんでした。 私はなまえです。 あなたは?」
「えっと……」
一松は言い淀む。なまえの飼い猫と同じ名前だと言い出せなかった。今まで黙っていたことが、急に後ろめたくなったのだ。
「……お、おそ松。」
「すごい、イチマツと松つながりだー!」
とんでもない嘘をついたような気がした。
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