一松とイチマツのお粗末な結末:転
三. 転
湿気った洗濯物の甘ったるい香りを感じる昼下がり。桜の時期もまだだというのに妙に蒸し暑く、一松は縁側の扉をあけた。母親によって部屋干しされた六色のパーカーが風にゆらゆらと揺れる。窓を開けてもこの邪魔くさい洗濯物たちは、夜まで乾きそうにない。挙句の果てには、曇天は今にも抱えきれなくなった雫を落としてきそうだった。
他の兄弟たちは、新台入荷がどうとか、就活がどうとか、スタバァだとか言いながら出かけていて珍しく朝からいなかった。一松も猫探しにでも出かけようと思っていたが、雨予報だったこともあり母の松代と二人、自宅に残ることにした。
松代は居間に一松以外いないことを確認すると、冷蔵庫の奥から苺を取り出し、ちゃぶ台の上に置く。優雅な昼下がりを、旬の熟れた苺と、痴情がもつれまくった昼ドラで贅沢に彩ろうとしたのだ。
「これ、食べていいの?」
「他の子たちが来る前に食べちゃいなさい。すぐ喧嘩するんだから」
松代はコチラに目もくれずにそういうと、前回急展開を迎えた(いつもそうだが)ヒロインとその恋敵の行方を見守った。数日前ちらりと観たときとは状況がずいぶん変わっており、憧れの男は血縁関係者だと発覚したらしかった。
唐突に訪れる濃厚な濡れ場を、一松は苺の房をプチプチとむしりやり過ごす。かじれば甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、さわやかな春の香りが鼻から抜ける。急ぐことなく一人で苺を満喫できる幸せと、昼ドラの気まずさを天秤にかけているうちに、気づけばヒロインは別の男の子どもを産んでおり、次回に続いた。子どもの名前はあこがれの男と同じ名前だった。
「ねぇ母さん、もし僕らが一人っ子だったら、なんて名前をつけた?」
「何よ急に」
「いや……別に、何となくだけど」
松代は怪訝そうに、苺の房をちまちまとむしる一松を見やった。彼女は右頬に片手を当てて考え込む。六色のパーカーを眺め、思いを巡らす。まさか自分の腹から六人もの子供が出てくるとは思っていなかった、あの分娩室での衝撃を。
「一松ね」
「え」
「だって一がつくでしょ。しかも六人も生まれなきゃ自分の子供におそ松なんて名前つけないわ」
開き直ったように豪快に笑う母を、一松は呆然と見つめた。
「それは、僕じゃないかもしれない?」
「そうね一人しか生まれてこなかったら、それはおそ松かもしれないし、チョロ松かもしれないし、トド松かもしれない。まったく違う子かもしれないけど、一松よ。一が付くから」
松代は一が付くと念を押すように繰り返すと、空になった苺のパックをもって立ち上がった。
「じゃあ母さん買い物行ってくるから留守番しててくれるかしら」
一松は頷くように、重くなった頭を重力のままに下ろした。自分の名前なんてその程度のものなのは承知の上だったし、名前の由来で一喜一憂するような年齢でもない。けれど実の母にすら軽んじられているように感じて、ガラガラと閉まる扉の音がむなしく響いた。喉の奥がつかえ、うまく唾が飲み込めない。一松は冷めたお茶を一気飲みしたが、ただむせただけだった。
「ただいまー」
すると松代と入れ違いに、のんきなおそ松の声が響いた。おそ松は居間のふすまを開け、一松の姿を確認するや否や、目と口を綺麗な半月型にゆがめる。
「いちまつぅ〜みずくさいなぁ〜」
彼は一松の肩に腕を回し、脇腹を小突く。一松は先ほどの苺のことを思い出す。母親と二人で食べたことがばれたのだろうか。
しかし、入れ違いざまに松代が苺のことを話したとも考えにくい。蒸し返されても、猫が毛玉を吐くように、苺を吐き出すことは無理だ。それにおそ松だって自分が吐いた苺は食べたくないだろう。一松の思考は的外れと分かりつつも、苺の詰まった胃袋を回遊していた。
「なまえちゃんって誰なの〜なんで一松知り合いなの〜」
電流が流れたように全身の筋肉が硬直する。一気に汗が吹き出し、一松の脇腹を小突くおそ松を引きはがすことができない。一松の瞳孔は震え、いよいよ胃袋をひっくり返しそうだったが、食道を閉じるようにのどに力を入れた。
「さっき、おそ松くーんなんて呼び止められちゃって」
「……なんで」
「なんで一松の知り合いってわかったかって?だって、なまえちゃんが『今日は紫じゃないんだね』なんて言うからさ、一松の知り合いか〜ってわかったわけ! なはは俺名探偵だからさ!」
おそ松が一松の肩を上機嫌に力強くたたく度に、一松は脳が揺らされているようであった。おそ松からは若干酒気が漂っている。こんな真昼間から一杯呑んだらしい。ニートで昼間から酒を呑んでいる男が、品のいい猫を飼っていて、一松のような人間にやさしくしてくれる彼女に一体どんな態度をとったのか、彼は気が気ではなかった。
「それで、なんて」
「なんの事情があったか知らないけど、兄ちゃん優しいから、俺が、一松ってことにしておいてあげた」
乱暴に抜型を押し込まれたかのように、すっぽりと体の真ん中に穴が開いた。大切にしていた何かを、取られた。傷は凍って冷たくて、でも脳は煮えたぎって熱い。目の前が蜃気楼にゆがむ。
「……とったな」
「え?なに?いちま」
「俺の名前だ返せよ!」
その瞬間赤い飛沫が飛び散る。一松は、自分の血管が破裂したのかと本気で思った。しかしすぐにそれは、おそ松のものだと分かった。傷とも模様とも取れる縞模様の紫色の毛の塊が、おそ松に襲い掛かっている。
紫色のそれは、球体に猫のような手足と口が付いただけの化け物だった。鋭い牙を持つ口の奥は深く、虚ろな空間が広がっている。まるで底の見えない枯れた井戸のように。目や耳などは見当たらず、やけにシンプルな形状が逆におぞましさを際立たせている。得体のしれない獣は、声にはならない断末魔をまき散らしながら、またおそ松に鋭い爪を立てた。
「おいやめろ! なんだ、これ猫!?」
額をひっかかれたのか、派手に血こそ出ているが致命傷にはなっていないらしい。おそ松は頭をかばってじたばたと逃げ回るが、紫の化け物は執拗におそ松を追いかける。呆然と立ち尽くしていた一松だったが、それが、公園からなくなっていた自分の自意識だとはたと気が付く。形状こそ変わっていたが、薄汚れた紫の毛玉には見覚えがある。
一松はその獣に飛び掛かり、床に抑え込む。獣は手足をでたらめに動かし抵抗した。上からの圧迫にぜーぜーと息苦しそうな声を出す。一松は、それの手足の付け根を握りこみ胸に抱える。そして、彼は外に飛び出した。家の中からおそ松が何か言う声が聞こえたが、立ち止まらなかった。
雨はいつの間にか降りだしていた。雨脚強く、責めるように雨粒が彼を叩いた。悔しくて、みじめで、むなしくて、受け入れがたい感情に、雨とは違う生ぬるい水分が頬を伝う。
どうせ僕は、と言ってすべてを諦めたかった。自分と似た人間が六人もいるのだ。アイデンティティの形成なんて求めずに、誰かの特別になりたいなんて考えずに生きていきたいのだ。それなのに彼の自意識は抱えないと持ちきれないくらいには大きく、重かった。自分を一人の人間として認められる努力をする根性も、勇気もなく、それでも馬鹿みたいに「自分」を求める。だから一松はそれを土に埋めた。土に埋めて目につかないところに隠して、そして誰かに踏み続けてもらえれば、なくなると信じて。
「お前なんていなくなればいいんだ」
人目を避けるように路地を駆け抜け、泥水が彼のジャージのすそを汚す。腕の中の生き物はなお抵抗し、歯ぎしりをしては奇妙な自身の腕に歯を立てた。
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