今は6月。梅雨前線が上空に停滞しじめっとした雨を降らせている。4月の初旬、春特有の強い風に流される花弁のようにその場の勢いと、流れで入部してしまったみょうじがマネージャーを始めてから丁度2ヶ月が経とうとしていた。全くの無知の状態からのスタートだったため、ルールも知らなければ飛び交う言語すら異国の言葉に聞こえる毎日を送ってきたが、持ち前の負けん気の強さが幸を奏してか、今ではすっかりマネージャー業が板についてきた。自転車競技というスポーツが意外と彼女の興味をそそるものであったことも、彼女の習得の速さにも関係しているだろう。とにもかくにも、マネージャーの仕事はほとんど覚えていたし、自転車競技の面白さを誰かに紹介できるくらいには理解を深めていた。強いて言えば、戦術だったり整備の仕方だったりといったコアな部分まではまだ勉強中らしい。それでも、彼女の勉強熱心なところは部員の誰しもが認めるところであったし、唯一のマネージャーということで可愛がられないはずが無かった。けれど彼女の目指すところは実際、マネージャーとして活躍することでも、先輩に可愛がられることでもなく、一目ぼれした巻島と話ができるというところに常に焦点が絞られているようだった。

 というのも、巻島と話す機会は何度かあったがどうにも話が続かないのだ。口下手を通り越して、コミュニケーション能力に何らかの欠陥があるのではないかと疑ってしまうぐらいには。しかし、話が弾まないということが彼女にとっての彼のマイナスになったかと言えばそうではない。そんな彼も素敵と思ってしまうくらいには遺伝子レベルで彼に恋をしていたし、自転車の話であれば会話と会話の間にある空白に何かを探しているような妙な間は開くのだが話が続く。彼に対する評価は、恐らく興味の無いことにはとことん無関心なタイプなのだというところに落ち着いた。そうであれば彼女のすることはただ一つ、自転車についての知識を深めようという当面の目標ができたのだった。

 また、あとになって聞いた話だが自転車競技部の3年の先輩である寒咲は意外と女子からの人気があるらしい。素人がマネージャー希望となると、彼に気があるのかと思われても仕方がないとのことだった。その証拠に彼女も友人に誤解を受けた。すぐに誤解は解けたのだが、巻島にそんなことを思われるのは彼女の意図するところではない。そのため理由はなんであれ、自転車競技自体に興味があることを演じなければならなかったのだ。最終的にはその魅力にどっぷりハマり、彼との共通の話題ができたのだから経緯はともかく成功と言って良いだろう。今となっては純粋にロードバイクが面白いらしく、時間があれば戦術本やらルールブックを眺めるようになっていた。

***

 朝のホームルーム前、巻島はみょうじのいる1組の前で立ち止まっていた。教室の中を覗き込めばみょうじが所定の位置に座っていて、相も変わらずロードバイクの関連書を読みふけっている。付箋を貼ったり真剣に読んでいるところをみると、全く廊下側に気が向いていないらしく教室の前でうろつく彼にも気づいていないようだ。目が合いでもしたら切り出しやすいものの、彼女の目線は完全に本の文字を追っている。巻島は手に持った紙袋の中身を覗いて浅いため息を付いた。中に入っているのは去年と一昨年ツール・ド・フランスのDVDだ。理由こそわからないが、初心者らしい彼女がロードに興味をもち勢いでマネージャーになったと聞いたとき思い切りの良い子だななんて思っていた。ましてやマネージャーのいない部活に単身乗り込んできたのだ。随分肝の座ったやつというのが彼の彼女に対する第一印象だった。しかし小さい体をしているのに懸命に重い工具を運び、よりサポートできるようにとロードバイクの勉強をしているところを見て彼女に好感以上の気持ちを抱いていた。もちろんただ一生懸命だからという訳はなく、どちらかと言えば女子からは怖がれる類の風貌をしているにも関わらず、怯える様子もないところが気に入ったのかもしれない。如何にせよそんな彼女ともう少し距離を縮めたいという気持ちの表れがこの紙袋の中に詰まっていた。建前としては、みょうじが頑張っているからDVDを貸してあげるといったところだ。

 しかし意気揚々と持ってきたはいいが、教室を前にして自分の行動が果たして正解なのか分からなくなったというのが今の状態である。確かに彼女は一生懸命自分が身を置いている部活について勉強しているが、それを知っていたのは自分が一方的に彼女を見ていたからだ。それなりに印象深い入部の仕方であったし、唯一のマネージャーということで注目はされよう。けれど、だからと言ってそれで自分の行動が肯定化できるかどうかと言ったら疑問を感じてしまう。気持ち悪がられるのが関の山だとさえ思い始めてきていた。そもそも、自分は面倒見の良いような性格ではないと、踵を返そうとしたとき廊下と教室を繋ぐ窓からみょうじがひょっこり顔を出した。

「あれ?どうしたの巻島くん?田所くんなら2組だよ?」
「…いや、知ってるっショ。」

声や表情にこそ表れていなかったが、心臓がそれこそ物理的に跳ね上がったのではないかと彼は思った。ロードバイクの雑誌を胸に抱えながらきょとんと首を傾げる彼女に、紙袋を持つ手に力が入る。ここまで来たら何も逃げることは無い、ただ親切な部員を演じればいい。彼はそう自分に言い聞かせた。

「これ…みょうじに貸そうと思って。」
「なぁにこれ?」
「ツール・ド・フランスのDVD。見たいかと思って。」
「え!?いいの!?」
「オレは何度も見たし別にいいっショ。」
「ありがとう。巻島くん!嬉しい!」

この上なく嬉しそうに笑う彼女を見て彼はほっと一息ついた。受け取りながら何度もありがとうと繰り返す彼女に、大げさっショなんて笑いながら彼女の柔らかそうな髪に触りたいと思う自分がいて、右手を強く握りながら彼はただの親切な部員になりきれない自分に苦笑した。











すでに苗の準備は出来ています
彼も愛を育む準備は万端



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