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日もすっかり沈み、昼間の活気づいた雰囲気とはまるで違う暗い部室はひんやりと冷たい印象だった。梅雨の真っ只中、雨がしとしとと降り続く日は5月の麗らかな日和とは違い少し肌寒い。今日は雨は降っていなかったが、雨雲が部室の中に居座っているような肌寒さだった。そんな見るからに人がいない空間に、巻島は電気も付けずにあるポスターの前にぽつねんと立っていた。手には黒のサインペンを持って、部室に誰かが潜んでいることを疑っているようにぐるりと見渡すと、ポスター下角を留めている画鋲を控えめに2つほど外す。乱暴に引き抜けば警報が鳴り響くと思っているかのようだ。そして、ポスターを倫理的に間違った行為をするようにゆっくりとめくれば、ポスターに隠れていた壁にびっしりと「正」の字が並んでいた。彼はその「正」の字を満足気に眺める。
このポスター裏の「正」の字が何なのかと言うと、ストイックに練習を重ねる金城にどうすれば継続して練習することができるのかアドバイスを受けた結果である。当然、金城が部室の壁に練習した分だけ「正」の字を書けなんていう助言をした訳ではない。彼は日々の練習を日誌にまとめることを巻島にオススメした。何か形として残していけば達成感に繋がるということだ。しかしノートなどの何かを書かれることを前提とした、「正」の字をいくら敷き詰めようと誰からも咎められることのないものに、大人しく日々の練習を書き連ねればよかったものの彼の選んだ媒体は部室の壁だった。どうして最初に壁を選んでしまったのか常人であれば理解できないことを、飄々とやってのけてしまう所が巻島が巻島たる所以だろう。彼としては、日々の達成感とともに誰かにバレはしまいかというようなスリルを味わえて一石二鳥だと考えているらしい。練習をした結果がこのように形に残り達成感を味わえる、さらにまたこのスリルを味わいたいから練習にも精がでるといった正のスパイラルを作り出しているといった具合だ。彼はいいとして部室の壁としてはたまったものじゃない。 そうして巻島はポスターの裏に隠しつつこっそりと自主練習の記録を残していたのだ。
今日もそうして自主練習の記録を壁に残そうと、巻島はサインペンのキャップをはずすと几帳面に線な線を引こうとする。その時、突然開かれる部室の扉とチカチカと何度か瞬きながら室内を照らす蛍光灯。予想もしていなかった訪問者に彼は、道路に飛び出してしまった猫のように扉の方を見て固まった。訪問者であるみょうじもまさか真っ暗な部室に誰かいるとは思っていなかったらしく、中に入ることなくその場に立ちすくんだ。巻島の顔を時間をかけ確認すると、自然と壁の文字に視線が移される。そうして、もう一度巻島に戻ってくる視線。ものの数秒ほどであったが、彼にはその動作がやけにゆっくりと見え、それこそたっぷり10秒は妙な間が空いた気がした。彼の背中に冷や汗が流れる。
「えっと…、何してるの?」
そう言って指をさす先は勿論壁に書かれた「正」の字で、その文字を自分が書き込んでいることに関して言い逃れのできない状況だった。これが法律上違反行為であったら現行犯逮捕である。
「あー…みょうじはなんで戻って来たんショ?」
流石に質問に質問で返す程度でその場をしのげるとは思っていなかったが、話を長引かせることは出来るだろうと、何事もなかったようにポスターを元の位置に戻しながら彼はそう聞いた。
「私は忘れ物しちゃって。…で、巻島くんは?」
彼の話を長引かせる作戦は1秒ほどで策が尽きた。
「その…自主連の記録を…」
彼は困ったように頬をかきながらことの一部始終を彼女に話した。最初はポカンとした表情で話を聞いていたみょうじであったが、次第にクスクスと笑い始める。彼としては彼女が入って来た時先輩かと思い気が気ではなかった訳だから、可笑しそうに笑う彼女に人の気苦労も知らないでと不服そうな顔をして見せた。彼女はそんな彼の気持ちを汲み取ったのか尚笑いながらも、ごめんねと言いながらポスターをペラリとめくる。彼女は彼の見えない角度で愛しそうに目を細めずらりと並んだ「正」の字を見つめると、1つ指先でなぞった。
「随分練習したんだね。」
そんな指先と静かに囁かれた言葉に、彼は自分が頭を撫でられているような気がして顔が赤くなるのを感じる。
「あんま知られたくなかったけど。」
「…先輩に見つかったら怒られちゃうしね。」
「絶対言うなよ?」
「うん、もちろん。二人の秘密ね?」
「秘密っショ。」
お互いの顔を見て微笑み合うと、巻島とみょうじは画鋲をそれぞれ一つずつ所定の場所に刺し込んだ。
土壌はひっそりと整いました
二人だけの秘密は最高の土台
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