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乱雑にしかしながら秩序立った何かがあるように器具が置かれている理科室。埃っぽさと様々な薬品が入り混じる独特の匂いの中で、荒北とみょうじは一つの長い机を囲んでいた。4時限目の授業は理科室で細胞の観察実験をするらしい。普段は退屈な授業に頬杖を付きながら資料集を読むわけでもなくめくっている生徒たちも、教室が変わり普段とは違うことをするとなると、どことなく楽しそうだった。目の前に置いてある実験器具を弄り回しながら、教師の話を右から左に流していることに関しては普段と変わらない様子ではあったのだが。
また、普段は隣の席だが斜め前に荒北がいることに対し、あからさまに楽しそうなのがみょうじである。彼女も理由こそ違うが、彼に夢中で教師の説明なんて見るからに聞いていなかった。そして彼は彼女の視線を避けるように、彼にしては珍しく話に集中しようとしていたわけなので、動機はどうであれ授業態度は至極真面目であった。普段雑には扱っているため端のほうがよれてはいるが、何も書き込みのされていない綺麗な教科書に教師の言葉をメモするくらいには真面目に話を聞いていた。
「それでは口腔上皮細胞の観察を始めてください。」
そう教師が言うと、そわそわしていた生徒たちが一斉の声が理科室に溢れる。口内細胞の観察ということだからまずは誰の細胞を、というところで盛り上がる訳だ。大体こういう役回りは男子に回ってくるものなので、各班の男子たちは嫌々口の中の粘膜をごりごりと綿棒で採取した。荒北とみょうじのいる班も例外なくもう一人の男子か荒北の口内細胞を採取するという話になっていた。もちろんこの手役回りを快く受け入れるような性格ではない荒北は、潔くじゃんけんという方法で決着を付けることにして、そして一発目で負けることとなった。プレパラートにこそげとった粘膜を言われるがままにこすりつけたにも関わらず、班の女子からきゃぁ、だとかうわぁだとか言われるのだからたまったものではない。じゃあお前らがやれヨ!という主張は当然のごとくしたのだが、受け入れられる訳もなく果たして荒北の口腔上皮細胞入りのプレパラートが出来上がったのであった。
その一部始終を見ていたみょうじはというと、自明のことだが頬を真っ赤に染め、溢れ出る感情を抑えるように口元を抑えながら打ち震えていた。目の前には恋焦がれる荒北の細胞があるのだ。しかも口の。これが興奮せずにいられるであろうか、ということは彼女くらいしか理解しえないことのなのだが、そろそろ彼女の思考に慣れてきた彼はそんな彼女を見ても少しだけ血の気が引く程度だった。
「あ、あ、荒北くんの細胞…!!!か、貸して!!」
「嫌だヨ!?」
「で、でもこっちには酢酸オルセインがあるんだから!こ、こここれが無いと細胞染められないねぇ!?」
「染められないねぇ!?じゃねェヨ!俺がやるから貸せヨ。」
みょうじは細胞の観察に欠かせない酢酸オルセインの入った茶瓶をひっしと握りながら、今までにないほど挑発的な視線を荒北に向ける。確かに口腔上皮細胞の観察には酢酸オルセインで細胞を赤く染めないことには観察はしづらくはあるが、人質のような扱いをしている彼女をみて彼の顔の筋肉は自然に緩んだ。気持ち悪い怖い奴から、いつのまにか面白い奴に昇格していることをみょうじのみならず荒北自身も気づいていないようだ。けれど班のメンバーからすれば、狭いテーブル間で暴れられては困ってしまう。さらに、このやり取りのせいで他の班から随分と遅れをとってしまっていた。それにどっちが細胞を染めあげようがみょうじと荒北以外の班員にとっては、ロンドンが今何時なのか知る以上にどうでもいいことだろう。そしてここはなんとか事を収めようと、頑として酢酸オルセインを譲る気のないみょうじに今回は軍配が上がったのであった。
彼女は荒北の細胞がこの粘膜の中にあるという事実を意識しないように、(意識してしまっては歯止めが効かなくなることは分っていたので)恐る恐る酢酸オルセインを数滴プレパラートに垂らした。透明の粘液にじわりと広がる彩度の高い赤色。それと同時に彼女の顔色も一気に赤くなるのを確かに彼は見た。
「ふ、ふぁ、ふぁ!あ、あああ荒北くぅんの、細胞が、あ、あ赤く染まってイクよぉ!染まっちゃうよぉ!!」
「なんで細胞見えてないにそんなに如実に語れるのォ!?」
「さ、ささ酢酸で、荒北くんの、細胞が、固定されちゃうよ!たたたタンパク質が、変性されて、酵素の活性が失われちゃってるよぉ!!」
「よく勉強してるねェ!?」
興奮状態でプレパラートを掲げる彼女に丁寧な突っ込みをしている荒北をぼんやりと見ながら、班員は彼に対し入学当初抱いていた恐れというものが薄くなっていくのを感じていた。意外といい人なのかもしれないと思いながら、ペンを机に転がしノートを閉じてしまっているところを見ると、もはや実験の進み具合などどうでもよくなっているようだ。もう時間内に観察なんてできないのではないかと諦め始めたその時、後ろにいた班の男子がみょうじの背中にに思い他の勢いよくぶつかった。思わずバランスを崩したみょうじは転倒こそしなかったものの、掲げていたプレパラートが手から滑り落ち綺麗に、床に、垂直に落とされる。勿論、ガラスでできたそれは安っぽい音を立てながら割れ、挙げ句の果てに他の生徒に見事に踏み潰される。割と静かで地味な出来事であったが、世界に亀裂が入った現場を見ていたかのように彼女の瞳からは大粒の涙がぼろりとこぼれ落ちる。まさかの展開に慌てふためく班員と、そして荒北。
「あ、あら、荒北くんの、さ、細胞が…わ、私はなんて事を…」
「ほ、ほら、大丈夫だヨ!?俺の細胞なんて、いくらでもあるし、ナ!?泣くなヨ!?」
「で、でも…」
「また、取ればいいだけの話だろ!?いくらでもやるって!!」
「ほ、ほんと!?荒北くんの細胞、また、くれるの!?」
潤ませた瞳を細めながら、この上なく嬉しそうに状況が状況でなければ惚れてしまいそうな笑顔の彼女を見て、彼の脳みそでは処理できない思考回路に目眩を覚えた。
乙女、順次開拓中
彼の最小単位まで愛してる
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