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挫折。一言で表せばそういうこと。自己を形成し、満たしていたものが崩れ落ち、熟れた果実を叩き落すみたいに未来の景色が壊れていく。その瞬間、彼は何者でもなくなって、空っぽのまま放り出された気がした。空っぽの何者でもない彼を、誰よりも彼が一番必要としなかった。
◆
――夢を見ている。嫌な夢。焼け付くような炎天下。腕が上がらなくなる。まただ、起きなきゃ。
分厚い蜃気楼の切れ目から這い出るように、荒北は目を覚ました。中学生時代の記憶から、実家の自室に帰ってきた彼は、真夏の熱気を吐き出すように深呼吸する。呼吸こそ乱れてはいないが、心臓は気持ちの悪い鼓動を刻み、着ていたTシャツの色が変わるほど汗をかいていた。荒北はなんの変哲もない天井をぼんやりと見上げ、小さく舌打ちをした。
「くっだらねェ……」
実際の出来事とは小さな違いはあるが、リアリティさは普段の夢とは比べ物にならない。夏の暑さも、マウンドの土の匂いも、彼を飲み込む絶望も、何もかも中学二年生の夏に引き戻される。
肘の故障からピッチャーとしての夢を挫折した日。あれからもう、三年は経過している。野球部がないから選んだ高校で、奇跡のような巡り合わせの末、自転車競技部の部員として日々を送る現在。野球に対する執着から決別した気でいたが、深く根差した芯のようなものが、時々痛む。特に、長期休みを利用し、学生寮から実家に帰省している時は決まって、あの夏を思い出した。
「つか、今何時ヨ」
沈黙が下りてきたような真っ暗な窓の外を、ぽかんと眺める。手探りで携帯を探し、折りたたみ式の携帯電話を開く。彼の携帯電話は乱暴に扱われているせいか、開閉する部分が随分緩くなっており、振るだけでだらしなく開閉するようになっていた。
時刻は、午後十一時三分。家族と夕飯を食べて、風呂に入って……と、夕方からの行動を処理速度の落ちた頭で遡る。恩着せがましい友人からのメールを読んだあたりから、記憶がなかった。メールの受信時刻は午後九時十七分。随分と眠り込んでしまったらしい。
夏休みの宿題、という忌々しい文字が脳裏をよぎったが、その存在を否定するように急な倦怠感に襲われた。しかしもう一度眠る気になれる訳もなく、気だるい体を無理やりに起こした。べッドの枕元に無造作に置いてあるペットボトルの中身を飲み干すと、少し目が冴えた。面白くもない天井を眺めているのも、馬鹿馬鹿しいメールに返信するのも気乗りしない。夢の名残か、腹の底で不気味な魚が悠然と泳いでいるような、寄る辺のない居心地の悪さに身をよじる。早く、箱根学園自転車競技部の自分に戻らないといけない。
荒北は、汗で湿ったTシャツを剥ぎ取るように脱ぎ、畳まれた一枚を適当に選び着替えなおした。逃げるように自室から玄関に向かう途中、リビングで母親と鉢合わせる。麦茶の入ったグラスを手にした母親の、怪訝そうな視線が彼に刺さった。
「こんな時間にどこ行くのよ」
「自転車乗ってくる」
「あまり遠くまでいかないでね」
彼のほとんど答えになっていない返事に、彼女は興味なさそうに答えた。
夜にもなれば少しは涼しくなるだろうという想像に反して、湿気た暑い空気が体を包む。彼は玄関の脇に置いてある自転車の鍵を外し、家の敷地から出ると、鮮やかな水色をした自転車のペダルに力を込めた。イタリアの空と形容される愛車でも、水あめのような風を、カラッと乾いた爽やかな風には変えてはくれない。彼は、空気を押し切るようにして進む感覚を嫌がるように目を細めた。
すっかり静まり返った家々の窓は締め切られ、外の暑い空気を遮断していた。後味の悪い夢さえ見なければ、今頃冷房の効いた快適な部屋で眠っていられたのに。彼はひっそりとした住宅街にいらだちを覚えた。
綺麗に整えられた植え込みを横目に、緩やかな坂が続く道を下る。ペダルを回すわけでもなく慣性に任せるだけで、彼の自転車はどんどんスピードを増した。夜も更けた人通りや、面白みのない道に、彼は肺に雨雲を抱えているような不快感を吐き出していく。悪いものでも食べたような陰鬱が、自転車が前に進むにつれて少しずつ晴れていく気がした。
彼はふと、目的地が無いことに気が付く。地元であるから土地勘はあったが、だからこそ、好き勝手に道を選ぶことができなかった。軽快だったハンドルさばきに迷いが生じ、時間を稼ぐためむやみに蛇行を繰り返す。
海が見たい気もするし、みなとみらいの方に向かおうか。だとしたら道を戻ることになる。しかしそれは、せっかく捨ててきた過去の残骸を、わざわざ回収する行為のような気がして憂鬱だった。
――箱根に帰る?
荒北はブレーキをかけ、足をつく。このまま住宅街を抜けて国道に乗って東海道を目指せば、相模湾沿いの道を気持ちよく走ることができるだろう。ジャージを着ていないのでいささか座りは悪いが、百キロもないはずだ。三時間しないくらいで箱根に到着できる。
しかし、ルートや時間を簡単に計算してみた途中で、バカバカしい計画を真剣に考えている自分が大概嫌になり、ハンドルに額をつけ、ため息をついた。体中に残っている澱んだ苦水を絞り出すような長いため息だった。家に帰ってベッドで大人しく寝ることはまだ考えられなかった。
結局荒北は、下ってきた緩やかな坂道を戻り、海を目指すことにした。続く上り坂に、ペダルに送り込む力を少しだけ強める。住宅街を抜けると二車線の大通りに出た。道路の向こう側には公園の入り口が見える。
大体十一時半を過ぎたあたりだろう。こんな時間になっても行き交いする車が通り過ぎるのを待ち、道路を渡る。車止めポールが並ぶ入り口の奥には、木々の間から見晴らしの良い展望台が見えた。整然とした住宅街の光が、葉の間からきらりと光る。海を目指していたが急ぐわけでもない。飲料水の一つも持たずに出てきてしまったので、煌々と光る自販機にも用事ができた彼は、一度公園に立ち寄ることにした。
自転車を押しながら公園に入っていく。レンガの道に沿うように、同じ背丈に整えられたプラタナスの木が並んでいる。並木道の先には半円状の広い階段があり、階段の向こうには住宅街と小さく海が望める展望台があるはずだ。この公園から見える夜景は、近所では少し有名だった。しかし、意外にも高台に続く道を向かう人や、帰る人はいなかった。
彼が並木道を抜けた階段に差し掛かったところで、下から三段目に座る人影を見つけた。その影は彼の気配を感じ、振り向く。鎖骨くらいまで伸びた黒い髪が、街灯の明かりで青白く光っている。ピントを合わせるためか、細められた目がこちらをじっと見つめた。
「あ……」
「あれ……靖友、くん?」
元同級生のみょうじなまえ。高校に入学して以来、顔を合わせたことは一度もなかった。懐かしい人物との再会に目を少しだけ見開く荒北だったが、それよりも正直、彼女にはこのタイミングで会いたくなかった。人違いだと引き返してもよかったが、それができるほど彼は薄情でもなかったし、後々逃げるように帰った理由を聞かれるのも嫌だった。
「……おう、久しぶりじゃナァイ?」
「本当、久しぶりだね!」
彼女がやけに上機嫌だったことが気になったが、せっかく忘れかかっていた中学校の記憶が雷雨の前の積乱雲のように、むくむくと彼の中で広がっているのを感じ、ハンドルを掴む手に力が入った。嬉しそうに手招きしているみょうじは、小学校中学校を共にした彼の幼なじみだ。学校では積極的に話したり、遊んだりすることはなかったが、家が近いため帰り道出くわすことが多々あった。
友人と呼べるほど親しくはない。世間話を少しする程度の仲。しかし、この土地で過ごした彼のことはよく知っている。彼が野球部だったことも、野球部で活躍していたことも、肘を壊して野球をやめたことも、そして荒れた学生生活を送り、野球から逃げるように遠くの高校にいったことも。少しは晴れた感情がもう一度顔をもたげる。この場所ではお前は誰でもない、お前の居場所はない、まざまざとそう感じさせた。
しかし手招きをされている手前、断る理由も思いつかず、自転車を適当な場所に立てかけ彼女の方に向かう。広い階段の真ん中に座っていた彼女は、ずいっと左に避けるように座り直したので、彼女の右側に座った。
「なにしてんの?」
彼女の膝に広げてあるチョコレートやスナック菓子を指さしながら彼は訪ねた。彼女は考えるような素振りを見せるが、よい言い回しが見つからなかったのだろう。膝の上に広げた駄菓子たちをじっと見た。
「夜遊び、かな」
曖昧に笑いながら答えるみょうじに、荒北は首を傾げた。夜遊びとは公園の階段で駄菓子を食べることなのだろうか。彼は次の言葉を待つが、彼女は機嫌が良さそうにニコニコ笑っているだけだった。続きはないのか、と言葉が出そうになったが、前々から変わったやつだという認識があったので、わざわざ質問しなおすのはやめた。彼女のなかこれが夜遊びなのだろう、別にそれでいい。問題はない。
「靖友くんは何してるの?」
「あー……、チャリのってた」
大体予想していた質問だったが、彼は少し考えてから立てかけてある自転車を振り返る。ほとんど答えになってないことは彼自身も分かっていたが、それ以外の回答も思いつかなった。しかし、彼女は彼の意に反して、彼の不明瞭な回答に深く触れるわけでもなく、というより興味なさそうな態度で、「私もー」というと、公園の入り口付近においてある赤いママチャリを指さした。
「そういえば、髪、切ったんだね」
ぼんやりと海を見ながらチョコレートを口に運んでいた彼女の唐突な質問に、彼の体がわずかに跳ねる。見た目で存在を誇示していない今では、彼女の目には何の特徴もない自分が写っていることに居心地の悪さを感じた。
「ん、まぁ……チャリ乗るから」
彼女に倣って海の方を眺めながら、まるで誰もいない空間に言葉を返すように口ごもると、視線を感じた。概ね、彼の言いたいことがわからなかったのだろう。
「前の方が空気抵抗とかなさそう」
「ハァ?」
「だって、風を切りそうじゃない?」
彼女はリーゼントを表すように、前頭部に流線形を両手で描いた。さらに、両手で三角形を作り、前方に向けて空間を切った。
距離を感じさせない会話。両親すらさける当時のことをさらっと流して語る彼女に、なぜか嫌な感じがしなかった。これが幼馴染というやつかと、納得しつつも、馬鹿にされていることは間違いない。引き下がるわけにもいかず、
「あのさぁ……」少し苦言を呈そうと彼女の方を見やった瞬間、彼女は少し考えるように目をふせる。綺麗な二重と上向きのまつげ、涼しげな横顔に、不意に心臓が強くはねた。
「おかえり、靖友くん」
荒北の方を振り返ると、彼女はふわりと笑った。熱い血液が耳の毛細血管までも満たすような感覚。彼女が何に対してそのような言葉を発したのか、彼には分らなかったが、なぜか酷く安心した。荒んでいた頃、いわば役立たずの自分しか知らないみょうじ。そんな彼女が言った、「おかえり」は、彼への肯定に聞こえた。
「んだよ……それ」
「こういうときは、ただいま、だよ」
「ハッ、うっせぇ」
彼の反応を楽しむようにニヤニヤしている彼女に、次は無償にむしゃくしゃした彼は、彼女の持っていたコンビニの袋をひったくる。
「他になんか食うもんないわけ?」
「あ〜!」
返してと手を伸ばすみょうじを避け、体を階段いっぱいぎりぎりに倒しながら袋の中を探る。荒北はすっぱいグミや、チョコレートの空箱が入ったコンビニ袋の中に、真空パウチされた魚の燻製を見つける。パッケージには白くてふわふわした生意気そうな猫が印刷されていた。
「猫、飼ってるんだっけ」
「飼ってないよ」
「じゃあ、ナニコレ……お前が食うの?」
「ちがうよ! これは、その……夜遊びの一環で……」
みょうじは、両親が親戚の用事で数日家を空けることになったこと。彼女は夏期講習に参加していたので、そのまま家に残ったこと。普段門限の厳しい家庭だから、今日ばかりはこっそり家を抜け出したのだと主張した。
「おまえんちの両親厳しいもんね」
いつだったか、泣きながらピアノのレッスンに無理矢理連れていかれる彼女を思い出した。その時、彼女に助けを求められるような視線を送られたが、薄情にも無視した記憶も合わせて呼び起こされた。しかし当時の自分が、彼女を助け出すことは難しかっただろう。
「そう、だから今日は夜遊びしてやろうかと思って」
「それが猫の餌につながんの?」
「途中で猫を見つけて、餌をあげようと思った」
「浮かれてんネェ」
彼女は彼をじとっと睨んだ。彼女からしたら、両親の監視下にないことは、浮かれてしかるべきイベントだった。今まで聞き分けの良い子として両親と接してきたのは、万が一彼らからの干渉が及ばなくなったとき、心配されないためでもある。まさに今夜、彼女の努力が報われる瞬間でもあった。
「でもせっかく買ったんだから、おやつ、あげたいな」
パウチされた魚の燻製をぐにぐにと触りながら、彼女はつぶやいた。
時刻は午前一時。荒北は公園でみょうじと雑談したあと、静まり返った自宅へ大人しく帰ってきた。
彼女を送り届けるの頃には、不思議とささくれ立った気持ちがすっかり落ち着いていた。今となっては、あれほど居心地の悪かった自室のベッドで、まどろむことができている。
窓を締め切り、冷房をつけた室内は心地よく、彼の眠気を誘う。何を見るわけでもなく、部屋の隅に追いやられた簡易な旅行バッグに視線を据える。磨硝子のような向こう側の見えない思考回路は、今夜の出来事を繰り返し再生していた。
彼が気にかけていたのは、最も避けて通りたかった旧友との再開に、不思議な安堵を覚えたことだ。中学二年生の蜃気楼に飲み込まれるわけでもなく、感情がかき乱されるわけでもなく。当時の悪夢から逃げ出したかったにも関わらず、寮暮らしから実家に帰ってきた自分に向けられたのであろう「おかえり」という月並みな言葉に、全てを許されたと感じた。
その理由を記憶の中に探すが、鮮明に思い出せるのは彼女の横顔だけ。ほとんど寝かかっている今、唐突に訪れた安堵感の原因を導き出すのは難しいらしい。結論を出すことが困難になりつつある虚ろな意識の中で、彼は枕元の携帯電話に重くなった手に伸ばした。
液晶画面の光が目に痛い。ほとんど理性が潜水してしまっている中、脈絡なく浮かび上がる泡のような彼女との会話を拾い集めて文章をつくれば、内容も確認せずにメールを送信した。彼は、メール送信中というモーションを見ているうちに、携帯電話と共に意識を手放した。
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