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時刻は午後八時になるところだ。コンビニで藤沢たちにあった後、過去を振り落とすように福富に言われたメニューをがむしゃらにこなし、読みたくもない課題図書を流し読みしていたらどんどん時間が過ぎていった。
夏休みというのは普通の時間の流れよりも早いらしい。いつ、誰かどこで何をやっているかも把握できないほどに適当に本を眺めていただけなのに、気がつけば夕飯の匂いがしてきて、母親に呼ばれた。食卓には、父と妹二人が席に着いていた。
「靖友、お前が付いて行ってやったらいいじゃないか?」
「「やだよ!」」
「ハァ? なんの話だヨ」
「ヤス兄とお祭りなんて絶対いきたくない」
「俺だっておめぇらと行きたくネェヨ! って、だからなんの話」
彼が席に着くと、妹二人と両親がもめているようだった。母親はタオルで手をぬぐいながら席に着くと、「あれ」と言いながらテレビの方を向いた。
毎年この時期に開催される夏祭りの特集番組だ。明後日がその開催日で、妹たちはこの祭りに行く約束を友達としたらしい。祭りという免罪符を借りて、その日の門限の延長を要求しているところだった。
「ハッくっだらねぇ。俺は行かネェヨ」
「別にヤス兄についてきてほしくなんかないし」
「てゆかヤス兄高校生にもなって一緒に行く彼女とかいないの?」
「うっせ」
妹たちの地元の祭りに行くなどといった、まるで興味のない話題にうんざりしながら、彼は唐揚げにかぶりつく。
「靖友、いただきますは?」
「……まーす」
祭りに関する門限については、両親が折れる形となって決着がついた。彼自身が、門限など厳しく言われた記憶がなかったので、妹たちもそうなのだとばかり思っていた。昨日の夜、門限を敗れることを、殊更に喜んでいたみょうじの顔が思い浮かぶ。気が付けば、彼女と約束をしていた時間だ。
「ごちそーさまァ」
荒北は慌てて、食べ終わった自分の食器をキッチンにもっていく。彼は、キッチンの戸棚から煮干しの入った袋を引っ張りだした。煮干を一掴みジップロックに移すと、彼はそれをポケットにしまい込む。
彼はそのまま自室に戻り、煮干しの入った袋をネイビーのボディバッグに、机の上に置いてある携帯電話をポケットへ滑り込ませる。すぐに玄関に向かうが、彼の手についた煮干の香りを嗅ぎ取ったコリー犬のアキが鼻を鳴らしながら近寄ってきた。彼は、彼女の頭をひと撫ですると、玄関のスリッパを拾う。目の前でちらちらと揺れるスリッパにくぎ付けのアキは、廊下の向こうに投げられたそれをさも楽しそうに追いかける。
噛むと怒られるスリッパに食いついた愛犬を横目に、彼はリビングにいる母親と妹たちに出かける旨を伝える。
「アキチャンがスリッパ噛んでるヨ」
リビングから慌てて飛び出す母親。愛犬の苦々しい視線を感じつつ、彼は家を出た。
午後八時にもなればすっかり日は沈んでいる。しかし、昼間の暑さはまだそこに腰を据えていた。彼女の家までのそう遠くない距離をポケットに手を突っ込み悠々と歩く。彼はポケットの中の携帯の形を確かめるように握ったり撫でたりしながら、絵文字の少ない彼女のメール文を思い出していた。
彼は十分ほど歩き、彼女の家にたどり着いた。リビングと思われる部屋にしか電気がついておらず、レースのカーテン越しに影が一つだけ見えるところから、彼女の言うとおり両親が出払っているようだ。チャイムを押すと中の黒い影が動き、インターフォンからノイズ音混じりの声が響く。
『はーい』
「俺」
『俺なんて人知りません』
『ブツッ』
ぶつりと通信が切れた音のあとしばしの静寂。あまりの潔さに口元を歪めながら、彼は続けざまにチャイムのボタンを押した。
『もーなにぃー』
「俺」
『もー……今行くねー』
呆れたような笑いを含んだような声のあと、家の電気が消え、みょうじが玄関から顔をのぞかせた。なに子どもみたいなことやってるの、と不平を垂れながら鍵をかける彼女を見て、昨晩から抱えている疑問について思いを巡らせる。しかし、そこにいるのは少しだけ髪型が変わっているだけで、見慣れた幼馴染がいるだけだった。夏らしい軽装に、小さいリュックサックを背負い、変わった遊びに目を輝かせるご近所さんだった。
「私は調べました」
「なァにを」
「猫の生態について」
「ハハッ! マジでぇ?」
「マジです」
この上なく真剣そうな顔つきで、まるで面接でもしているかのように彼女が答えるものだから、荒北は笑いをこらえることができなかった。
「で、何がわかったんだヨ?」
「半径1キロ圏内をとにかく探す」
「ハァ?」
「とにかく探す」
「要するに猫の縄張りがどんなもんか勉強になっただけってことナ」
「……そうとも言います」
「じゃあ、わざわざ言わなくても良かったんじゃナァイ?」
荒北は、まるで家出した猫の行方が心配な飼い主のように落ち込んだ彼女をからかうように鼻で笑った。すると彼女はむっと口を噤み、右肘にこつりと威力の無い拳をぶつけた。
まずは、猫を見た場所に行くことしにした二人は、歩いて数分の場所にあるコンビニを目指す。その間、彼女は熱心に猫の特徴だとか、得てして役にたたない情報だとかをしゃべり続けていた。しかし彼が知りたいことは猫の居場所でもなく、生態でもなく、昨日感じた安堵感の正体だ。
あの時お互い今何をしているか、といった話題はひとつもしなかった。自転車競技部という枠の中にいる自分ではなく、なんの包装も加工もされていない生身の自分でいることに、なん抵抗も感じなかった。空っぽの自分が怖くて、箱根学園にいるときの自分に戻ろうと自転車を走らせていたにも関わらず。
――センスがあったのにもったいない
コンビニで、藤沢にかけられた言葉を思いだす。体中の細胞が震えるように暑くて、氷の塊を飲み込んだように寒かった。必要以上に過剰反応してしまっていることに彼は気づいていたが、この感情にどう決着をつければいいのか分からなかった。
「なにぼんやりしてるの? ちゃんと探してる?」
「……っ、探してるヨ」
いまだに彼女は荒北よりも猫に興味があるようで、彼はその間十分に生身の自分を意識することになった。しかし概ねそれが不快感だと言ったら嘘だった。生身でいることは居心地が悪い、しかし彼女と話しているとその居心地の悪さは妙な安心感に変わっていった。結局のところ理由なんて一向にわかりそうもなくて、これだから地元は嫌いなんだとひとまとめに切り捨てたい反面、彼女に全くの無関心にはなれなかった。
反面、しかし、けれども、でも、自分のまどろっこしい思考回路に流石に嫌気がさした。目の前で真剣に猫を探している彼女をみていたら、くだらないことで悩んでいる気がした。軽そうな体を惜しげも無く動かしながら、おそらく適当につけたであろう猫の名前を呼ぶ彼女に従う方が今は正解なのだろう。部屋の隅に滞った空気の塊のような形の無い疑問の答えを探すよりも、探す対象がはっきりしている猫探しに興じることの方がよっぽど魅力的だった。そもそも、眠かったとはいえ彼の言い出したことなのだ。それに彼は猫が好きだった。好かれるかどうかは別として、小さくてやわらかい自由の象徴たる猫に心ときめくものを感じていた。
「そんで? この塀の上にいた訳?」
「そうなの。ここをね、歩いてて目があったの」
彼女はブロック塀の側面をツウっとなぞった。昔からこの土地に根差しているような二メートル近くある背の高いブロック塀。彼女は見下されているかのように、猫と対面したのだといった。
「んじゃぁここにいればまた通るんじゃナァイ?」
「でもここで待ちたい?」
「嫌だけど」
「ね、嫌だよね」
お互いの顔を見合わせながら笑うと、荒北はあてもなく歩き始めた。みょうじもそれに続く。
「半径1キロ圏内の猫が行きそうなところ……」
「涼しい所とかじゃないかな?」
「ファミレス」
「図書館」
「コンビニ」
「ねぇ、真剣に考えて」
「だぁって、なんだよ涼しい所って……あ、公園」
「……それだ!」
二人の住む住宅街にはいくつか公園があった。どれもそう遠くはない距離で、ちょうど一キロ圏内に三つほど。そのうち一つは木が生い茂り、夏は涼しく猫が立ち寄るには最適だった。
お互い何も言わなかったが目指す場所はその公園で間違いない。目的地が決まった二人の足取りは、先ほどとは打って変わって軽やかだ。公園に向かう途中、お目当てとは違う黒い猫が横を走り去っていったが、彼も二人の目的地へ向かっているような気がして、顔を見合わせる。
黒猫を追って走り出してしまいそうになる気持ちを抑えつつ、少し足早に公園を目指す。生い茂った木々が空を押し返すように突き出し、目的地が目前まで来ていることを実感する。
そして公園にたどり着いた二人は、息を殺して園内を覗き込んだ。ブランコにジャングルジム、小さなトンネルなどポピュラーな遊具が並ぶ公園を見渡すが、求めていた猫はいない。人工池の水が流れる音だけが涼しげに響いていた。
高まっていた気持ちが紙風船のように萎んでいくのを感じながら、二人は公園に足を踏み入れる。ほとんど消えかかった期待をもちつつ、植え込みの下やトンネルを覗き込むが、なんの障害もなくお互いの顔を確認し合っただけだった。
「いないね」
「ここだと思ったんだけどナ」
「高いところに登れば見えるかも」
彼女はへらへら笑いながら、楽しそうにジャングルジムへ上る。
「いたァ?」
「いるわけないね!」
「だろうネ」
呆れたように目を細めた彼だったが、ふと思い出したかのように、カバンの中から家から持ってきた煮干を取り出す。そして無造作にいくつか煮干を掴むと、ジャングルジムの前にちょっとした山を作るようにそれらを置いた。何をしているのだろうかと身を乗り出して見ていた彼女は、小山になった煮干しを見て吹き出した。
「あはははなにそれー!?」
「罠」
彼も彼女のあとを追いかけるようにジャングルジムに登り、気の抜けた声でそう言った。笑いたいのを我慢しているのか、閉じた口をむず痒そうに動かし、奇妙な表情をする。久々に登ったジャングルジムは思ったよりも小さく感じた。未だに目に涙を貯めながら笑っている彼女のいる一番上の段まで登りきると、彼は隣に腰を下ろす。
「それで? 探してる猫が来たら?」
「飛び降りて捕まえる」
「すごいじゃん」
「がんばれヨ」
「え、私がやるんだ」
荒北は、思わずくしゃっと笑った。そこにいるのは生身で空っぽの荒北とみょうじだけだ。知っているのはお互いの流れ出てしまった過去だけで、それ以外は全くの無知だった。それでも、とんでもなくくだらないことで、悔しいくらい笑った。空から降りてきたような濃厚な夜の空気が、お互いの間を馴染ませて全くの一つとする。
久しぶりに登ったジャングルジムの上で荒北とみょうじはしばらく笑いあった。そして二人とも映画のラストのように同じタイミングで徐々に笑い声が小さくなっていき、笑い声は夜空に飲み込まれる。彼は横に座る彼女の存在を感じていた。それは以前に何回も感じた肌触りだと彼は思う。暖かくて、柔らかくて、安心するお気にいりの毛布に似た感覚。その安心感の由来を、荒北はもうこの時には気がついていた。
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