地下鉄の出口を抜けるとそこは高層ビルが並ぶオフィス街。都会の威圧感を浴びながら通りを進み、未だ慣れることの無い小綺麗なエレベーターに乗り込む。入社して数年、支店勤務になると本社に来る機会などそう多くない。年が明けたばかりで澄んでいるはずの空気も、息をしているだけで疲れそうだ。
書類と憂鬱な気持ちを詰め込んだ鞄を手に、弊社のフロアに足を踏み入れ「おはようございまーす」と社員証をかざしフリーアドレスのデスクに向かう。滅多に来ない空間はとにかく肩身が狭い。なるべく目立たないようにと息を潜めて移動する途中、唯一の聞き慣れた声に呼び止められた。
「あれ?こっちいるの珍しいな」
「わっ、ホンゴウさん、おはようございます。実は今度の本社主体の案件に少し関わることになってその件で。後はついでにこの前対応した件の報告、を……」
そこまで言ってハッとする。そう、この前。この前対応した件とは、休日出勤したクリスマスイブのあれ。仕事自体は何も問題なく終えたのだけれど、その後この男と一緒にクリスマスマーケットに行き、デートに誘われるという事件があったのだ。
あの日意識はさせられたものの、それ以上は求めてこなかったホンゴウさんに安心したのも束の間。断らなかった翌日のデートで人タラシ具合を存分に発揮され、帰り際に「お前のことが好きなんだ。今すぐとは言わねェけど、いつか返事くれないか」なんて爆弾を仕掛けられ逃げ道を塞がれたのだった。このまま何もなければ今まで通り、ちょっと仲の良い先輩後輩だと関係をはぐらかせないかと企んでいた私のことなんてお見通しかのようで。
ふいに思い返してしまって固まる私に「どうした?」なんて聞いているこの人は確信犯だろう。絶対内心楽しんでる。
あれから一週間ちょっと経ったが、ほぼ年末年始休を挟んだだけで、正直年明け早々顔を合わせることになるなんて思ってもいなかった。故に心の落ち着かなさが尋常じゃない。上手な誤魔化し方ができないと踏んだ私は「この後会議なんで!」と言葉を吐き捨てその場を立ち去った。流石に感じ悪かっただろうか、と少し進んだ先で振り返ってみれば、まだこちらを見ていたホンゴウさんが口パクで「頑張れ」なんて言いながら手を振っている。軽くお辞儀をして何とかその場をやり過ごすことはできたけれど、本当にあの人タラシどうにかしてくれないか。
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「今日の夜、なんか予定あんのか?」
会議を終え、いそいそとパソコンを片付けていると隣に座っていた上司に声をかけられた。クリスマスイブの夜も似たようなことを……なんて直ぐにあの人のことを思い出してしまうのは許してほしい。意識が一瞬トリップして黙り込んでいた私に「おい、どうなんだよ」と声が降ってくる。
「あ、いえ……」
「新年会参加してけよ。今のメンバーも殆ど来るから丁度いいだろ」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えて参加させてもらいます」
本当は何が丁度良くて何がありがとうなのか分からなかったが、支店勤務の私が本社所属の上司の誘いを断れるわけもなく今日の夜の予定が強制決定してしまった。「後で幹事から場所とかの連絡行くから」との言葉にニコリと笑い返すことしかできない私の無力さたるや。本社の人で仲の良い人なんて殆どいないし、この案件だって大半が一度か二度、顔を合わせたことがある程度の人ばかりであまり気乗りしない。せっかく普段来ないところだから、年始のセールでも見て買い物して帰ろうかと思っていたのに予定はパァだ。ハッキリとした返事をしなかった自分が悪いのは百も承知だけれど。バレないように溜息をひとつ零し、先程勝ち取ったフリーアドレスの一番隅の席へと戻った。
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飲み会なんてなくなってしまえ。そんなことを思っていても終業時間はやってくるし、こんな時に限って残業は全くない。年明け最初の金曜、もう少しバタバタすると思ったけれど誤算だったようだ。朝と同じように書類と憂鬱な気持ちを鞄に詰めて、さっき届いた『新年会のお知らせ』メールに目を通す。
ここでウジウジしてたって参加することに変わりはないんだよなぁ、と諦め半分で「お疲れ様でしたー」とフロアを後にする。朝来た道を逆戻りし、相変わらず小綺麗なエレベーターに向かうとそこにはコートとマフラーを身につけ鞄を持っているホンゴウさんが。
「お、もう帰りか?」
「帰りたい気持ちは山々なんですけど新年会に捕まってしまいまして……」
「そりゃァ災難だな。おれも参加するから一緒に行くか?」
「あ、ホンゴウさんも参加されるんですね」
そういうことならお願いします、と共に向かうことにする。実を言うとメールに記された場所がイマイチぴんと来なかったから助かった。それにただひたすらに気まずい飲み会に見知った人がいる、相手はあの爆弾置き去り男とはいえ、その安心感で鞄に詰め込んだ憂鬱さが少し軽くなった気がした。
電車に乗って数駅。連れられるまま辿り着いたのは、駅から徒歩十五分ちょっとの小綺麗な宴会場。ホンゴウさんとは少し離れた席に案内され、程なくして配られたビールで乾杯の儀式が行われた。
得意ではないビールを流し込み今朝の会議にいた同年代の同じく嫌々参加しているであろう人たちと時間をやり過ごす。「あの先輩には注意しろ」「あの上司は比較的頼れる」緊張感は未だ抜けず気持ちよく酔えることはないが、思いもよらぬ若手情報交換会に参加できた点、この新年会に参加した意味はあったのかもしれない。安心材料だった人は近くにいないけれど、とホンゴウさんの方を一瞥すると彼は先輩後輩色んな人に囲まれてお酒を煽っていた。本当にあの人は老若男女問わず好かれる人タラシだ。ウェイターの人のバッシングが間に合わないくらい相当飲んでいるのだろう。彼のいるテーブルにはかなりの空きグラスが溜まっていた。
▽
「ちょっと早いですが二次会もあるので一旦締めようと思いまーす!」
今日の幹事だという人の陽気な声でこの会の終わりが告げられた。確かにこの店の最寄駅から自宅まで、いつもの勤務地より終電が早いとは言えまだ時間に余裕はある。それでも二次会に参加するのも面倒だしこの寒い中駅まで歩くのも面倒だ。どうしようかグルグル思考を巡らせていると、少し向こうで全然酔った素振りもなく「タクシー呼んでほしい人、他にいないっスか?」という面倒見のいい、人タラシお兄さんの声が耳に入った。
「ホンゴウさん、私もタクシーお願いします」
「あー、お前、もう帰るのか?この後もう少し時間ねェか」
「え、あ、まぁ。あと一時間くらいなら……」
「じゃァ少し付き合ってくれよ、いつも行く店があるからそこでもうちょっと飲みてェんだ」
テキパキとスマートフォンを駆使して次々とタクシーを配車しながらこちらに話しかけてくる。他にも誘う候補は沢山いるのに何で私、そう思ったがさっきまでホンゴウさんの周りにいた人たちはいつの間にか捌けていた。多分、彼が序盤に手配したタクシーに乗ったか二次会へと向かったのだろう。時間があると言ってしまった手前、断る理由など無く頷くことしかできなかった私はやはり無力だ。とはいえ内心もう少しお酒を飲みたかったから丁度いい、だなんて思ったことは内緒。ただこの時は完全に忘れていたが、こうやって自然に誘って自分のペースに持ち込むのがこの男なのだ。
手配された最後のタクシーに乗り込み、彼の行きつけだというお店に二人で向かう。紹介された所はさっきのお店とは打って変わってこぢんまりとした小料理屋のような飲み屋さんだった。いらっしゃい、と迎えてくれる店長さんと気軽に挨拶を交わし「んだよ、女連れとは珍しいじゃねぇか」「うるせーな、たまにはいいだろうが」なんて会話をしているあたり相当通っていることがわかる。「好きなとこ座って」と適当な案内をされ、迷いなく進むホンゴウさんに着いていき一番奥のカウンター席に座った。
「改めてお疲れさん」
「お疲れ様でした」
茶割りとレモンサワーのグラスがぶつかり、カチリと音が鳴る。ここにたどり着くまで意識しないようにしていたが、会うのがあのクリスマス以来ということは勿論二人で飲むのはあのクリスマスイブ以来ということで。否が応でも意識してしまうのは私だけなのだろうか。「腹一杯だろうけどなんか食べたいモンあったら食っていいぞ。ここの店何食っても美味いから」そう何故か得意気に話す彼はあの二日間の出来事がなかったかのように自然だ。
軽くつまめそうなものを数点頼み、他愛もない話が続く。年末年始は姪っ子の面倒を見るのが大変だったとか、年明け早々面倒な仕事をまわされたとか。新年会と比べて気を張る必要も無い空間でお酒が進んでいく。
「んで、さっきは何をそんなに楽しそうに話してたんだよ」
行く前は乗り気じゃなさそうだったじゃねェか、なんて言う彼は本当に私のことをよく見ているというか、そういう気の掛け方が人タラシと言われるんじゃないだろうか。
「せっかくお前が参加してるから一緒に飲みたかったのによ……」
「……え?」
「あー、いや……そうだ、これから本社来ること増えンのか?」
「いえ、今回は初回だから本社で顔合わせしただけで基本はリモートですよ」
そっかァ、そうだよなァと呟くホンゴウさんの瞳は心なしか甘さを含んでいる見えた。もしかしたら自然に見えているだけでこの人も意識しているのだろうか。それともただ酔いが回ってトロンとしているのだろうか。
「……なァ、そういえばお前終電は?」
「あっ……!」
時計を見ると店に着いてから一時間近く経とうとしていた。折角気持ちよくなってきたところだったけれど、完全に酔いが冷めていく。
「どうしよう、あと五分で電車いっちゃいます……!」
地図アプリで最寄りの駅まで調べると、ここから徒歩約十分。走れば間に合うだろうか。でもタクシーで来たから正確な道なんてわからない。どうしよう、絶望的だ。ここから自宅までのタクシー代なんて馬鹿みたいな金額なのは考えなくてもわかる。こうなったら諦めて近くの満喫でも探そうと地図アプリの検索欄を〈漫画喫茶〉に変える。くるくると読み込み中の画面と睨めっこしていると不意に隣の男が口を開いた。
「……ウチ来ねェか」
「ウチって……ホンゴウさんの家、ですか……?」
「おう、おれの家こっから結構近いンだよ。最悪歩いて帰れる距離だし」
「いや、悪いですよ!時間に気が付けなかったのは私なので……」
「お前ん家、こっからじゃ遠いだろ。何もしねェから」
この店に来てまだ彼は一杯目だが相当酔いが回っているのだろうか。さっきのは見間違いではなく、彼の目はやはりトロンとして据わっているし、なんなら顔全体が紅潮している。このままこの人と一緒にいちゃダメだと本能が働き頭の中で警報が鳴る。
「ホンゴウさんもしかして酔っ払ってますね?ほら、早く帰ったほうが良いですよ!私は満喫で」
「早く帰りてェけど、お前とは離れたくないンだよ」
あの爆弾、実はもう解除されてるのかも!なんて会社での関係が崩れないよう、態とらしく明るい口調で「満喫でも探すから大丈夫です!」と断ろうとしたのに。全ては彼が被せてきた言葉によって掻き消された。更には立ち上がろうと机についた手は、私の手首より一回り以上大きな手にガシリと掴まれてしまった。
……意識しているのだろうか、じゃない。元々仕掛けてきたのはこの人だ。そう、あくまで爆弾置き去り男。こんな状況意識しているに決まっているじゃないか。完全に彼のペースに乗せられた。寧ろ私が意識するよう仕向けてきているのだ。満喫に泊まるかホンゴウさんの家へお邪魔するか。そんな二択になるよう終電にギリギリ間に合わない時間になってから声をかけたに違いない。
……いや、この人は後者になるように仕組んだんだ。さっき調べた地図アプリの検索結果によると、この近辺で一番近い漫喫は数駅先。あぁ、本当にタチが悪い。
「なァ……ダメか……?」
……そんな顔して手首を掴んだ手の力を更に込めないでほしい。今日も今日とて満更でもない私が顔を出すじゃないか。
「なにもしないって約束ですからね……」
ダメかと聞かれたらダメではない。結局ホンゴウさんの思い通りになる自分に本日何回目かの無力さを感じる。それでもやっぱり私の言葉ひとつで目に見えて嬉しそうにする男に弱くて逃げる術などなくて。
掴まれた手首が開放されたかと思えば、するりと手に指を絡められた。え、と思った次の瞬間、私の頬に柔らかい感触。
「……嫌だったか?」
この男、頬っぺに、頬っぺにキスしてきた。それも絶対に私が嫌がらないと分かってやったはずだ。証拠として心配そうに聞いている割には顔がニヤニヤしている。カァっと顔全体が熱くなり一気に酔いが回ってきた気がする。
「何もしないって約束したのに!!」
「それは家に着いてからの話だろ」
ああ言えばこう言うとはこの事なんじゃないか。……相手が酔っ払いなら私だって酔っ払いだ。終電もなくなる時間、お客さんはもう殆どいないし店長は丁度トイレに行ってる。誰も見ていない。全てはお酒のせいにして、さっきされたのと同じようにホンゴウさんの頬へ唇を落とした。
「へへへ、仕返しです。次やったら許さないですから」
絡められていた指を握り直し、ギュッとこちらから力を込めると、ホンゴウさんのただでさえ赤かった顔はより赤くなり、ついには机に突っ伏した。
「ちょ、おま、それは反則だろうが……」
覚悟しとけよ。これで我慢しろとかどんな拷問だよ。とかブツブツ呟いてるが全部聞こえないふりをするとしよう。この後家に行ったら私は無事なのだろうか。爆弾はもう爆発寸前だ。