サマーホリデーが明け新年度が始まるなか、入学式の前、スカラビア寮長は談話室に人を集めた。当然、次期寮長の指名である。
それは重要な選択であった。選ばれれば仕事や露出が増え、ある種ナイトレイブンカレッジの顔とも言うべき存在になるからだ。ゆえに、誰もが寮長の言葉に耳を傾けていた。
言ってしまえば、ジャミルは一縷の期待を捨てきれなかったのだ。国から遠く離れた歴史ある学び舎はあらゆる権力に影響されず、生徒に正当な評価を与えてくれる公正の場であると。自分が選ばれるかはさておき、寮長ならば偽りない熟慮の目で判断を下してくれるはずだと。
「スカラビアの次期寮長には、カリム・アルアジームを指名する」
ゆえにその選択はジャミルを驚かせた。もっとも考えたくない可能性を、よりにもよって眼前に突きつけられたような、そういう黒々とした虚しさが心を埋めつくすかに思われた。
たしかにカリムは大らかな男で、身分を気にしない。人望だってすぐに築けるだろう。しかし、まだ二年生になったばかりだ。加えて闇の鏡に正式に選ばれたわけではない。二ヶ月遅れの編入生の話は、学園内にすっかり知られた話だ。
スカラビアには頭の切れる三年生が数多くいるというのに、それらを差し置いて、カリムを学園における熟慮の長に据えるだなんて異例中の異例だ。あの先輩は何を考えているんだ。
そこから起こった一抹の不信と嫌な予感が拭いきれず、とうとう数日後学園長に問い詰めれば、異国の名門校に抱いていた期待は跡形もなく打ち砕かれた。
頭に血が上る感覚というのをまざまざと味わった。結局同じことの繰り返しで、しわ寄せを受けねばならないのは自分なのだ。ただ、一夜を凌ぐシェヘラザードのお伽噺のような仮初の自由、そのなかのほんのひと匙を味わうだけでもよかったというのに。
少しでも期待していたおのれの意識すら呪わしく、怒りを誤魔化すように深く息をついてベッドに横たわると、豪奢なつくりの天井が視界に広がった。カリムの編入が決まって、アジームの家が寮の改修を行ったのだ。そこかしこに意匠が凝らされて美しい。そうして仰向けに天井を眺めるあいだに、ふと、自分がひたすら求めていた自由の面影を思い出した。
クロエ。かのハーツイーズの一人娘で養子。ジャミルの不思議な友人。彼女の眼差しは格別で、つねに自分についてまわる身分も義務も──何もかもを意識の外に放り出してしまう。知らないなりに、あれが自由というものの手触りであろうかと考えたこともある。
上等のシーツに仰向けになってあれこれ考えていると、自然に、こんなときは彼女に会いたいと思った。一時の気休めに過ぎないし、それこそ仮初のものだと分かっている。それでも、ただそこに在るだけで構わない。少しのあいだ、あの眼差しを分け与えてほしいだけ。
かつて茨の魔女は、偉大なる魔法で姫を永遠の眠りにつかせたという。それには到底及ばないものの、睡眠魔法は今でも医療面において大きな需要があり、魔法士養成学校でも最低限の学習と実践が義務付けられていた。
十月も半ば、新年度初の合同講義は学校が飼育する鳥などの動物に丸一日ほど眠る魔法をかけ、教師が経過を観察し時間を計測するというのがおおまかな内容で、加減さえ誤らなければさして難しくないものだった。
「本当にごめん! こんなことになるなんて」
「気にしないでいいんですよ、平気ですから」
しかし何事もそう上手くはいかないものだと、相手の謝罪を宥めながらクロエは思った。
「あ!」と弾かれたような声がしたと思えば、他のグループから逃げ出した動物に足を取られ、魔法石を構えたままバランスを崩すペアの生徒が目に入った。かくして動物に向けたはずの睡眠魔法を、かわりにクロエが被ってしまったというわけである。
予想だにしなかった事態だが、済んだことは致し方ないし、ゆったりと押し寄せる眠気を前にしては文句など浮かびようもなかった。
耐性のない動物を想定した魔法で、さらに込める魔力も少なかったようなのでこうして会話できる程度の意識はあるが、それでも頭蓋の底にかすかな気だるさが揺蕩い続けている。
「そのくらいの魔法なら数時間で目が覚めるだろうから、保健室で休むといい」
それで、教師もこう言うのでそのまま授業を早退したという次第である。廊下を進むうちにもどんどん眠気が強くなって、最後の方は、もはやこんなところで倒れては恥さらしだという意識だけで足を支えていたようなものだ。
とにもかくにも、やっとの思いで保健室に辿り着き、教諭不在の札を気にせずなかに入れば、生徒のひとりもいないようで、足音にさえ慎重になるほどの静けさはむしろちょうどよかった。
裾を引く睡魔に導かれて横になれば自然と瞼が落ちる。カーテンを閉めたほうがよいと思ったけれど、それを気にするほどの理性もなく、あっという間にクロエの意識は沈んでいった。
ジャミルが保健室の扉をくぐったのは、それから二時間ほど後のことだ。調理室で包丁を使っていると、意識がふらつくような感じがして、気がつけば自分の手をそれなりに深く切りつけていた。さすがに放っておくわけにもいかず、せめて応急処置だけでもすべきだと思ったのだ。
道すがら、通りがけの教師が「保健室に行くなら寝ている子の様子を見ておいてほしい」と声をかけてきた。わけを聞けば授業で睡眠魔法の誤発が起こり休んでいる生徒がいるのだという。
ジャミルの世話上手を鑑みてのことだろうが、ただでさえマジフト大会を前に自分のような怪我人が続出している現状である。主人を措いて赤の他人の面倒を見るのも躊躇され、ちょっと顔だけ見て帰ろうというくらいの感じだった。
それが実際に来てみれば、閉まりきらないカーテンの隙間からもはや見慣れた色の髪が見え隠れして、このところ会いたいと思っていたばかりの相手がいたので、ジャミルはついぎょっとした。
クロエだ。きわめて静かな呼吸で、ジャミルが最低限の手当を終えて傍らで座るための椅子を引いても、なんの反応も示さないほどの深く眠っている。自身の催眠魔法にもわずかに通ずるところがあって、なるほど確かに魔法の仕業だと分かる。
思い返せばこんなふうに表情の抜け落ちたクロエを見るのは初めてだった。いつもの微笑は鳴りをひそめて、瞼の緞帳が幕間とばかりにその瞳を隠している。
ふっと無意識に手が伸びた。顔を合わせて話すことは多くとも触れたことはない。柄にもない心配と不安の現れだった。
──いや、不安ってなんだよ。
その感覚は以前、カリムとクロエが初めて会った日のものと似通っていた。今になって思うが、あのときは彼女にカリムという主を知られてしまって、ただ一人の自分を映すあの瞳が失われてしまうのではないかと、無意識に危惧したのだろう。しかし、そんな予測の真偽も固く瞼を閉ざされては確かめようもない。今はそれがジャミルに漠然とした不安を感じさせていた。
出来るならば、どうせ会うならば、あの頃と変わらない瞳に自分の映るのを見たかったし、名前のひとつでも呼んでほしかった。妙だけれど、それがいっとう安心するのだ。そうだ、願わくばあの眼差しで自分を、自分だけを……。
「──勘弁してくれ……」
ちょっと、この部屋は静かすぎた。加えてジャミルは疲れていた。意図せず考えが巡ってしまい、脈絡なく奇妙な結論に逢着するほどに。熱いものを避けるように反射で思索が行き詰まったとき、思わず深いため息をついた。酸素が抜けるにつれて、反対に切なる初恋の自覚が肺を満たす。
この体たらくはどうしたことだろう、と思った。昔のよしみで彼女が自分にとってどこか特別になっていることは分かっていた。けれどあくまで恋情などではなく、本当にただ純粋な好意であったはずなのだ。それが知らぬ間に大きな熱を伴うようになっていたことに、ジャミルは今になってようやく気がついた。
空を彷徨っていた手でクロエの額に初めて触れれば、そこは存外あたたかかった。鏡のような女、ジャミルの求めた気休めの自由。それは都合のよい偽物で、目の前の彼女は確かに生きている。分け与えてほしいだけだなんてとんだ大嘘だ。そうでなければ他人に視線が向いて不安など感じるものか、見返りなど期待するものか。自分にとってクロエは、とっくにひとりの女であったのだ。
「……おい、起きろよ、クロエ」
軽く肩を揺するが、クロエはあえかに身じろぎをするだけでやはり目を覚ます気配はない。流石に魔法だけあって、この程度では効果がないようだ。そのときちょうど保健室の入り口が開いて、見れば先程の教師であった。
「ああ、バイパー。さっきは突然悪かったね」
「いいえ、俺なら大丈夫ですよ」
「まだ起きる気配はない?」
「なさそうですね。そろそろ解けてもおかしくはないと思いますが」
「そうか。じゃ、あとは私が空き時間に様子見に来るから君は戻っていいよ」
自責なのか安堵なのかよく分からなかった気持ちがそこで一気に現実へ引き戻され、ここから去るべきだと思った。感情に振り回されてはいけないし、その余裕もないからだ。
まだ生まれたばかりの希薄な想いは、その気になればきっと忘れてしまえるだろう。自分には他にやるべきことがあるし、所詮彼女とは卒業までの縁だ。それまで変わらず友人であればよい。ジャミルは立ち上がり、素知らぬ顔で部屋を出た。