選手に抜擢された身として一連の騒動の影響を少なからず受けたジャミルには、顔には出さないものの、わずかに薄雲のような倦怠感があった。
しかしながら、ぼうっとしている時間はない。なにせ、試験の日が数週間後まで迫っているのだ。今年はなぜだか学園中が張り切っているようで、休み時間になると、みな一様にノートを眺めている。そのせいで平均点や順位の予測が付けがたく、カリムや自分の成績の調整が難しいため、早めに対策をすることが必至であった。
実力より低い点数を取るために本気で努力するだなんて、とんだ徒労だが、その葛藤もホリデーまででよい──この試験が終われば、計画を実行に移すのみなのだから。そんな黒々とした思いを奥底へ追いやるように、勉強の息抜きもかねて、ジャミルはスカラビアの廊下から外へ出た。
「ごきげんよう、ジャミルくん。スカラビア寮ってずいぶん暑いのですね」
「……え、……は?」
この場にいるはずもない女の姿を認めたジャミルの口は、驚きのあまり言葉を形成しそこねた。普段ならばすぐさま平静を装えたところが、大会の疲れ、試験の準備、そんなものが積み重なっていたために。さらにはその訪問者が入学以来、そして最近はことに気にかけていた人物なことも手伝って、どうにも声色を繕いきれなかったのだ。
クロエは合同講義以外の用事でひとり男子校を訪れる際、決まって正装をする。貞淑を謳う女学院の性格上、普段より露出の少ない装いのほうが後ろ指をさされないと判断しているのだろう。スカラビアの常夏の景色に不似合いな長い秋服のスカートを風に泳がせ、ブラウスの袖を肘のあたりまで捲りあげ、噴水のへりに腰掛けていた。
「クロエ、なぜ君がここに……」
「驚いただろ? オレが連れてきたんだ!」
ジャミルがようやく言葉を絞り出すと、噴水の向こう側からカリムが小走りにあらわれる。
「突然ごめんね。最初は遠慮したのだけど、やっぱり届けるなら早いほうがいいと思って」
「届ける? 何のこと──」
最後まで言い切る前にジャミルを黙らせたのはつい先日の心当たりであった。あの日、手に怪我をして保健室を訪れた日、傷口を洗ったときに使ったハンカチを置き忘れた覚えがある。さして高価なものではないから、おそらく教師が拾ったのだろうと思って後回しにしていたのが、よもやここで彼女に繋がるとは予想していなかったので、その日の記憶も相まってらしくない緊張が腹の底に宿るのを感じた。
「先生から預かったんです。たぶんジャミルくんのじゃないかって」
「そうそう、オレにも見覚えあるしなあ」
「ああ、うん、そうだな。確かに俺のだ」
「それならよかった。一応、洗ったのですけれど」
ジャミルの予想はおおむね正しかった。当然、あの日のことなど覚えているはずのない彼女はなんでもないような顔だ。綺麗に折り畳まれた忘れ物を受け取るべく空いていた左手を出せば、そのときちょうど白い包帯がクロエの目に入る。
あのとき、目覚めてすぐの教師との雑談によれば、ジャミルは手の怪我で保健室を訪れたということだったから、おそらくそれが数週経った今でも治っていないのだろう。
「その怪我、ずいぶんな傷なのですね」
「大したことじゃないさ。俺の不注意だ」
「オレもジャミルが包丁で怪我するところは初めて見たな。まあそれも蓋を開けたらラギーの仕業──」
「カリム」
ジャミルはカリムの言葉を制した。こうして大事ないのだから、わざわざ学外の生徒に説明するほどのことでもない。その意図を察してか、済んだ余所事に深入りするものでもないと考えてか、クロエはそれとなく話題を流すような感じでひらひら軽い相槌を打つ。
いつものクロエだった。言葉の節々に滲む一歩引いた感性は、一見ありふれた人当たりのよさにも似ているが、その実なかなか浮世離れしている。公平な距離に安堵すると同時に、どこか物足りなさを感じる機会が増えたのを、ジャミルは今このときすっかり自覚した。自身の心境の変化にはほとほと困ったものだ。
しかし、だからと言ってなにがどうなるわけでもない。こんなことで振り回されている場合ではないし、いつもと同じようにしていれば誰にも悟られはしない。あの日以来幾度となく繰り返した思案をなんでもないように無視して、ハンカチを受け取る。
「こんなところまで来てしまってすみません。それでは」
「なんだよ、せっかくだからもう少し話していこうぜ」
「無茶を言うな、カリム。クロエにも都合がある」
「ちょっとお茶するだけだって! なあ、このあと大丈夫か?」
「え? あ、はい……ではなくて。お邪魔では?」
「気にすんなよ、友達だろ?」
誘いを断るとき、まずは慇懃に遠慮を仄めかすのがクロエの常套手段であった。相手の気分を害さないためには段階を踏むほうがよいからだ。スカラビアに留まるのが嫌ということはなかったが、ここでは自分が唯一の女性なのだと考えれば立場上一度は断るべきだと思って、やはり今回も辞退の旨を告げようとした。
しかし、カリムを前にすると遠慮そのものが意味をなさないようで、そのまま勢いに負けてしまったのだ。きっとカリムにとってはみな平等に友達なのだろうが、とにもかくにもクロエは是と返す以外の選択肢を失った。そうして、何もないのだからまあ別にいいか、と、しまいにはその誘いを受けたのであった。
「ひとりでも大丈夫なのに」
「気にするな、客人は送っていくのが礼儀だ」
日が落ちた途端、ずいぶん冷える場所だと思う。時間にしてみれば時計のひとまわりほどのことだが、もともと放課後に訪れただけあって、少し会話を楽しんでいるうちにすっかり空は薄暗くなっていた。鏡の間へ向かう道すがら、部活を終え戻った寮生が怪訝な目を向けてざわつくが、クロエを送るジャミルが一言「カリムの客だ」と告げればたちまち口を閉じて、ちらちら見知らぬ女の姿を伺うだけになった。
「ジャミルくんの客でもありますけどね」
「そう説明したほうが早いんだよ。それより悪いな、じろじろ見られて気分が悪いだろ」
「いいんですよ。私、気にしませんもの」
そう如才なく笑むが、クロエが周囲を察しやすいのは既に知れたことだ。上流に育つ者は往々にして見られる機会が多いとはいえ、気にしないというのは単なる遠慮で、実のところ今更だと思っているだけだろう。
よく考えてみれば当たり前のことで、彼女が機械的に他人の視線を割り切れるはずはないのだ。むしろ、根本的に人一倍敏感でなければこんな観察眼は培われないし、それが癖になどならない。ただ自分の振る舞いを決めるためだと平気な顔をしているように見えて、心のうちにはなにかしらの思いがある。
このところ、無機質だとばかり思っていたクロエに人間味を感じて仕方ない。もともと他人にさして興味のないジャミルにしてみれば異様なことで、けれど不思議に嫌とは思わなかった。
「そういえば、来月は合同講義がないんですね」
「テスト期間だからな」
寮生はあらかた戻ったのか、鏡の近くはしんと静まり返っていて、ふたりの他には誰もいない。
ジャミルにはひとつの考えがあった。誰にも知られず遂行すべきひそやかな反逆の心である。きっと次に会うころには自分は寮長となっているはずで、それまでしばらくはクロエの顔を見ることもない。
そんなことを考えながら彼女の横顔を見ていると、砂に足を取られたのか、「あ」なんて気の抜けた声で、ヒールのついたローファーのリズムが、タタンと崩れた。転ぶほどでもない、小さなよろめきだ。けれどジャミルは、意図せず彼女の腕をやわく引き止めた。あのとき一度触れたせいか、そうすることに躊躇はなかった。
蒸し暑い天気に腕捲りをしていたため、そこは素肌だった。かすかに汗で湿った腕は、あの日、眠り続ける彼女の額の体温とたしかに同じだ。
「風で運ばれた砂が溜まっているところがあるから、足を取られないよう気をつけてくれ」
「あ、うん。ごめんね」
ジャミルはそこですぐに手を離そうと思ったのだが、やはりホリデー明けまでの別れだと思うと躊躇され、少しの間が空いた。そんな彼を、クロエは不思議に見る。
「ジャミルくん?」
「──いや。せっかくだからとさっきの茶葉を渡すようカリムに言われていたんだ。それを思い出した」
そのときのジャミルのようすをなんと言おうか、おそらく、ほとんどいつもと変わらない。けれど明確に前とは違うとクロエは思った。いま気づいたというよりは、霧のように散らばって見逃していた違和感が、ここに来てひとつの形に収束したというべきか。
スキンシップに慣れていると言うわりに彼自身はあまり人に触れないし、女性ならばなおさらだ。実際に触れられたことなど一度もない。それなのに、今まで確かに存在した友人としての隔たりがこのときばかりは壊れてしまったかのようで、不意に「近い」と思った。
じかに腕を引いた手の感触が、どこか世離れしたような彼の存在を現実たらしめる。触れる動作があまりに自然で、こちらに向かう眼差しが名残惜しく火花めいて、これではまるで、彼が自分を──。
「……どうも、ありがとう」
「ああ。また、ホリデー明けに」
一瞬間まばたきをしたあとには、ジャミルは既にいつもの感じであったので、おそらく勘違いをしたのだろうと思った。厚顔無恥の思い上がりがきまり悪くて、クロエはそそくさとカリムからのお土産を受け取る。少し触れた指先にはやはり人間らしい体温があった。
「うん、またね」
そこから広がるなまぬるい心地の正体は、きっと知らなくてよいものに違いない。