「あの女の子、大丈夫かあ?」
「誰? 初めて見た」
「前にも来てただろ。ほら、副寮長の……」

 ホリデーが明けて十日は経っただろうか。ジャミルのオーバーブロット事件は大したお咎めもなく、厳重注意という形に収束した。結局あの配信は単なる虚仮威しで、故郷には詳しい事情が伝わらないままに終わったのだ。主人を危険に晒した以上、副寮長の地位剥奪はおろか、折檻、解雇、最悪の場合勘当まで覚悟していたジャミルにとってはいささか拍子抜けの顛末であったが、さしずめカリムの進言もあったに違いない。手ぬるいとは思いつつも、都合がよかったし、自分の行いに後悔はなかった。とにもかくにも騒動の気配は徐々に鳴りをひそめ、もとの日常が取り戻されてゆく。
 しかし、人の口に戸は立てられない。あれだけのことを起こせば寮生から恨みを買うのも自然なことで、ホリデーが明けるやいなや、学園内には悪い噂が広まりつつあった。それに対するまわりの目は軽蔑、好奇、敬遠、揶揄などさまざまだが、校風か、はたまた闇の鏡の言う魂の形とやらか、無関心という生徒が最も多いように思われた。

「やけになるなんてジャミルくんらしくないね」
「俺の逆鱗だったんだよ。それに邪魔も入って苛々してた。本来ならもっと穏便に済むはずだったのに」
「寮生に負担を強いるのが『穏便』ですって?」
「カリムに危害を加えないから『穏便』だ。寮生の件はそういう計画なんだから仕方ないだろう」
「なるほど、それはジャミルくんらしいかも」

 クロエもまた件の話にはさして関心がないようで、ホリデー前と変わらぬ態度だった。現に、こうして平然とスカラビアの談話室で何ごともないように世間話などに興じている。
 話題そのものは時期に則しているものの、ハリネズミが逃げたとか、つぎのテストの範囲が広くて憂鬱だとか、そういう何気ない話をするような調子。あくまで部外者のていを貫いているとも言えた。

「クロエ、今日は正装じゃないんだな」
「ああ、突然だったから。ごめんなさい、せっかくのお茶会だったのに」
「謝ることじゃないさ。気にする奴はいない。というか、突然呼んだカリムが悪い」
「いいえ、そんな。きっと、カリムくんがこの時期に私を呼ぶのにも理由があったのだと思います」

 クロエは茶会の片付けを進めるカリムを見て、つぎにジャミルに視線を戻した。病み上がりに働かせては主人の名が廃ると、談話室で待つように言ったのだ。ふだん自分が動いていたぶん、ジャミルにとってはどうにも据わりが悪かった。
 しかしこれも彼なりにホリデーの件を受け止めた結果である。同様に、クロエが自分にとって珍しくも落ち着いて話せる相手なのだと考えて、ここに呼んだのだろうと思った。

「まあ、さっきから落ち着かないようですし、私との雑談が本当にあなたにとっていいものだったかは分かりませんけれど」
「主人に後片付けをさせて落ち着いていられる従者がいると思うのか」
「あはは」
「おい、からかってるだろう」
「笑っただけでしょ、気難しいなあ」

 年相応の冗談めいた応酬は、本当に騒ぎのあととは信じがたいほどの凪だ。眉じりの優しく下がった笑い顔、声、そのすべてが、静けさのなかに脈打ってしかと心に響いてくる。ひとしきり本音をさらけ出して、少しは彼女への執着もおさまるかと思われたが、その実そんなことは少しもない。果たして自分は本当にこの女が好きなのだ。そんなしみじみとした納得が満ちると、自然に言葉がまろび出る。

「けど、まあ、カリムにしてはいい判断だ」
「そう、なによりです」
「本当に。君に会いたかった」
「──!」

 ジャミルはどこか諦めたような、清々しいような顔でそう告げた。淡白ながら詩を読むようななめらかさがあって、不思議に神経が慰撫される。そんなジャミルの声はクロエの耳に心地よく、再会の日、純粋なる好意を抱いたことをよく覚えている。それがいま、たまらない慕情や熱のようなものを向けられた気がして、思わず声が詰まった。たしか、自分は前にもこの感じを味わったことがある。
 ホリデー前、スカラビアでの別れ際。ただ羨ましくて、遠くに見ていたジャミルの手が自分の腕に触れた日の感覚に似ている、というより、まったく同じ熱さだと思った。違うのは、きっと彼に自分を偽る気がなくなったことだ。あの日は、その尻尾がほんの少し見えただけなのだろう。
 ここまで考えてクロエは、かつて自分の勘違いと決めつけた彼の想いが紛れもない本物であったことを、あっけらかんと理解した。理解せずにはいられなかった。

「……それって」
「悪い。こんな形で伝えるつもりはなかったんだが、君が近くにいるとどうにも気が緩む」

 そう言うジャミルは、珍しくきまり悪そうな顔だ。この人も、恋をするのか。すぐれた才能と家柄を持ちながら、よりにもよって昔会っただけの自分に。迷わず否定すべきだと思っても、クロエには不思議と次の言が浮かばなかった。
 アジームのような家に付き従って生活をしているならば、美しくて、聡明で、心優しくて…そんな女をおのずと見慣れているはずだ。もっと相応しい相手がいるに決まっている。それなのに、どうして真剣な顔をするのか。どうして自分なのか。
 ──わからない。その一言は、クロエにとって降伏の白旗であった。もはや平生の観察眼が働くほどの距離がなくて、ジャミルという男がわからなくなった。互いに踏み込むことのない友人という立場は完全に崩れ去って、公平さが失われて、今や全然、遠い存在などではない。こんなふうに他人の顔色が読めなくなったのはいつぶりだろうか。

「待たせたな、ジャミル、クロエ!」

 柄にもなくクロエの思考が立ちゆかなくなったとき、ちょうどカリムの賑やかな声が談話室に響いた。片付けが終わったのだろう、小気味よい足音が近づいてくる。

「クロエ」
「え、あ、……なに」
「君の用意ができたときに、もう一度ちゃんと言わせてほしい。だから、覚えておいてくれ」

 ジャミルがふだんと似ても似つかぬやわらかな目色でこちらを射抜くので、魔法を使われてもいないのに、クロエは思わず「はい」と返事をしていた。それを聞き届けてから、主人のほうへ顔を向ける。

「カリム。問題を起こしちゃいないだろうな」
「ジャミルは心配性だなあ、ちょっと慣れなかっただけで何も壊してないぜ?」

 カリムが笑うと場がほぐれて、気が紛れた。当然不和などないのだが、さながら迷子のような気分でいたクロエにとっては都合がよかった。快活な声がざわついた気分を落ち着かせ、止まった思考をゆっくり後押しする。

「わざわざオレの誘いに応じてくれたのに、宴のひとつも出来なくてごめんな」
「いいんですよ。むしろ十分すぎるくらいです」
「いやあ、でも、オレもジャミルも心配かけちまったし…そういや、ふたりは何話してたんだ?」
「えっと、それは──」
「お前に言うほどのことじゃない」
「なんだよ、つれねえなあ」

 クロエは伊達に他人の顔色を気にしているわけではない。結局自分は卑しい生まれの女なのだ。ゆえに、すべてとは言わないが、ひとを理解することは得意だった。しかし、

「ジャミル、クロエと話すときはすっげえ楽しそうにしてるから気になったのに」
「え。そうなの?」
「うん、オレにはそう見えるぜ」

 そういえば、さきほど本人も気が緩むと言っていたような。気が動転して頭から抜けていた──。
 などと、今のジャミルを前にすると、ひとつわからなくなっただけでこの有様である。自分が相手を見ることはあっても、相手から見透かさんばかりの目を向けられたことや近寄られたことは初めてで、かつてない動揺に胸を打たれている。ずっと作り上げてきた体裁すら忘れそうになるほどに。

「まだ明るいけど、クロエはこれからどうするんだ?」
「長居しても悪いですし、帰ります」
「そっか。今度はちゃんと宴を開いて呼ぶからさ。また来てくれよな!」
「送っていこうか」
「いえ! 大丈夫、ひとりで戻れますから。ジャミルくんはゆっくりお休みになって」

 まだ外も明るければ、道だって覚えている。万一危険があれば魔法を使えばいい。とにかくひとりで考える時間がほしいというのを察してか、ジャミルはすぐ引き下がって、建物の入口で別れを告げた。

■ ■ ■


 鏡を抜けると、もはや見慣れたカレッジの風景が広がった。ホリデーの問題で話題になったスカラビア寮から外部の生徒、それも女が出てきたせいか、カレッジの出口に向かうまでなにか噂のような声が聞こえていた。しかしそんな好奇の目すらも、今は思考の埒外に置くほかない。表情を崩さないで歩くのが精一杯だった。
 あるまじきことだ。あのとき、すぐに一歩下がって、いつもの思考を取り戻さなければならなかった。それなのに、どういうわけかその歩み寄りを受け入れるかのように首を縦に振ってしまった。意識はあるし、魔法を使われた感覚もない。
 考えながらメインストリートを進んでいると、頬を切らんばかりの雪催ゆきもよいの風が吹いて、揺れた自分の髪から熱砂の香りがした。そうして、ふっと恋しいと思った。
 なんと、陳腐なことだろうか。いつの間にやら近すぎて気づかなかった。離れてわかる大切さ。いつもは見向きもしないようなありふれた文句を、一概に切り捨てられなかった。
 美しい人だ。見かけばかりではない。クロエはジャミルの真っ直ぐな感性と、自分本位とも言うべき確固たる自尊心、それらの持つ精錬の美が好きだったし、憧れていた。それがあさましいことに、いつの間にやら奥底で期待が渦を巻き始めたのだ。
 ──もし、嘘偽りない自分を受け入れてもらえるならば、きっと一番はあの人がいい。というより、あの人以外に考えつかないというのが正しかろう。
 なるほど、自分の初恋の的はたしかにジャミルに違いなかった。こんな感情に包まれていては、ただではいられないはずだ。あのジャミルがついぞ隠しおおせなかったのも無理はない。
 「君の用意ができたときに、もう一度ちゃんと言わせてほしい」と、砂漠の夜の風によく似た声が、耳の奥で繰り返し蘇る。不思議なことに、それ以外の音や視線はあまり感じなかった。

かたわらに眠るもの