閑話

初めての。

眠れない。日付はとっくに変わっていて夜更ししていた弟の部屋も静かになった。それなのに眠れない。かれこれ二時間はこうしているのではないだろうか。なかなか寝付けずに寝返りを打つ。眠ろうとする意思に反して頭は覚醒していて全然眠れそうになかった。

暗闇に慣れた目はしっかりと部屋を映していて、ほんの数時間前までここに莉桜達がいて、雑談したり一緒に宿題を解いて…ここに友達スズ以外の人がいた。そう思うとなんだか不思議な気持ちになった。

そうぼんやりと考えて何度目かの寝返りを打つ。まだまだ頭は冴えていて眠れそうにない。何か温かいものを飲もうと部屋を出た。家族を起こさないようにゆっくりと慎重に歩いたけれど、それでも床の軋む音はして静まり返った家にやけに大きく響いて聞こえくる。

階段を下りる時、下の階から明かりが差し込むことに気付いた。自分以外の誰かが起きているとは思ってなくて、誰が起きているんだろうと階段から下を覗くと明かりは台所から漏れていた。

「…お母さん?」

「あら、ナオちゃんも起きてたの?」

そこにいたのはお母さんで、テーブルに肘をついて物思いに耽っているようだった。声を掛けたらパッと顔を上げて夜更ししたら駄目じゃないと明るく振る舞う姿に無性に遣る瀬ない気持ちになる。

「眠れなくて…コーヒー飲んだからかな?」

夕食後に飲んだコーヒー。眠れない原因は他にあるのにそれのせいにして笑うとお母さんはホットミルクを作ろうかと立ち上がってコップを取り出した。

「蜂蜜は入れる?」

「うん。」

ホットミルクを作る姿を向かいの席に座って見つめた。思い出すのは夕方の出来事。また泣かせてしまったなと自分を嘲笑する。

ずっと心配だったはずだ。あんな事件があってから誰にも相談せず一人で勝手に決めて、反対するお母さんの言葉も聞かず私は椚ヶ丘に進学した。あの時からお母さんは何か言いたげな顔をしていて、それに気付いていたのにずっと気付かない振りをしてきた。悲しませたくないのにそれと逆のことしか出来ない自分にほとほと呆れて嫌になる。

お母さんは今何を思っているのだろうか。気になっても聞けるわけがなく、ただぼーっと後ろ姿を見ていると仄かな甘さを含んだ湯気が鼻腔を掠める。二人分のコップを一つを私に、そしてもう一つを手に持ちお母さんは座った。そして静かに飲み始めるのに対し、私はコップを両手で包み込むように持って乳白色の液面をただただ見つめた。
ねぇとお母さんは私を呼ぶ。

「学校は楽しい?」

眉尻が下がり少し心配したような、それでもどこか期待したような表情だった。今まで何度も聞かれた質問。私はいつも何と答えていたっけ?

……あぁそうだ。

「楽しいよ。嫌なことはやっぱりあるけど……でも、今のクラスは楽しい。」

「別に…普通だよ。」

「楽しいのね。…そっか、楽しいんだ。」

“楽しい”。その言葉を何度も噛み締めるように呟いているその顔は、憑き物が落ちたかのように安心しきった顔だった。

「どうして?」

「だって、ナオちゃんったら学校のお話全然してくれないんだもの。いつもはぐらかしてばっかり。どんなお友達がいてどんなお話をして、どんな風に過ごしているのか、なーんにも教えてくれないんだもの。それなのに…ねぇ?」

クスクスと笑い、邪推するような瞳を向けられる。その様子に嫌な予感を感じつつも黙って見守った。

「それなのに今日突然ボーイフレンドまで連れてきちゃって驚いちゃった。」

「…は?」

「去年はツっ君、今年はついにナオちゃんが…!!お父さんになんて説明しましょ!特にナオちゃんの方はお父さんが知ったら泣いちゃうわね。」

「いや待って全然違うから。」

「違うの?だって今週末カルマ君とデートに行くんでしょ?」

ぽっと顔を赤らめて何を言ってるんだこの人は。訳もわからず混乱しているとほらとケータイを見せられたので見る。するとそこに“今週末奈々緒とケーキバイキングに行くことになりました。”とカルマからのメールが書かれていた。

「いつの間に…」

「ナオちゃんとスズちゃんが席を外してる時に。カルマ君だけじゃないわよ。莉桜ちゃんと優月ちゃんからも夕御飯美味しかったですって、ナオちゃんがお見送りから帰ってくるちょっと前に来たの。」

手が早い三人に呆れるべきなのか、夢見がちで勘違いをしている母に呆れるべきなのか。そもそもカルマと出掛けるのは彼が今までのことで謝りたいと言ったからで、私はタダでケーキが食べられると色気もへったくれもない浅慮でそれをOKしたわけで、そう言えば去年そういう系の話で弟に相談されていたんだった。その時私は彼に…

「ちゃんとおめかししなくちゃね。お化粧はする?どんなお洋服で行くつもりなの?」

「…………適当に選んで行くつもりだけど。」

「ま!駄目よちゃんとお洒落しないと。そうだ、この間買ったお洋服にしなさいよ。うんうんそれがいいわ。髪型はいつもより下で纏めて…」

ああそうだ。自分の良いように解釈するお母さんは一度勘違いしたらいくら訂正しても聞かないのだ。それでいつも怒る弟に私はほとぼりが冷めるまでそっとしておけと言ったのだ。勘違いはなくならないが私達がむきになると絶対そうだと信じて疑わないから、それよりはましだからと。

母親の唯一と言える欠点に若干の目眩が感じつつも自分のことのように語るその姿に素直に嬉しいと思える。

熱に浮かされたお母さんの話は止まる様子を見せず。適度に相槌を打ち聞き流す。そうしているとハッと、まるで夢から覚めたかのように話を止めた。年甲斐もなくはしゃぐ姿を恥じているようだったがそれが私の大好きなお母さんなのだ。

二人で一頻り笑って一緒にコップを片付けた。眠るために下に下りたのに頭は更に冴え渡っている。だが部屋に戻って横になれば自然と瞼は落ちてきて、そして気が付けば朝を迎えていた。