17


様々な買い物をしたら大きな紙袋ふたつ分ほどになってしまった。歩き疲れてへとへとになった私たちは、適当な喫茶店で一度休憩をとることにした。いや、疲れたのは私だけで、弱音を吐く私に二人は合わせてくれたような形だ。
ちょうど小腹も空いていたことだし、と私はケーキとコーヒーのセットを頼むことにした。手嶋さんはスコーンと紅茶、ユキはサンドイッチと紅茶を頼んでいた。この中でコーヒー派は私だけのようだ。

「家具届くんいつって?私は明後日やって」

先に来た飲み物を啜りながら聞く。一人ソファ席に座っている私の隣には三人分の食器や小物が詰まった紙袋が置かれている。結局あれから数店回って、目当てのものや思い返すと家に無かったというものを買い揃えた。来客用のコップやカトラリーは、頻繁に来るであろう二人に良さそうなデザインのものを選んでもらうことにした。同じように二人の家に置かれるそれらは私ともう一人が選ぶ。それらは別に私たち専用のものではないが、私たちが選んだのだという特別感はやはりあるものだ。

「あ、あれ人によって違うの?俺明日って言われたんだけど」
「重さとかで違うみたいなこと言われたぞ、俺。うちんところは明々後日らしい」
「どういうシステムなんやろ。あ、でもみんなちゃうんやったら組み立て手伝えるやん!良かったー、私あれ絶対一人で組み立てられへんて思っとったんよ」
「ああ、あのデッカい机な。確かに」

手帳を取り出して各々の予定を書き込む。朝からの方が良い、さっさと朝に終わらせて昼飯を食べに行こうなどの希望をそれぞれ聞いて、結局三日間とも朝から作業に入る運びとなった。手帳には仕事の予定も書き込まれている。今月と来月はどの会社も人事が大きく動く時期で若干忙しくもあるのだが、こちらとしても私生活が忙しいのでかなり仕事量は絞っている。
しかしながら、少なくとも月末に行われる社交パーティには出席しなければならないのだが、あまり乗り気ではない。ああいった場はお酒を片手に行うもので、若い女性の私は舐められがちだからだ。とはいえ、人事異動で顔ぶれが入れ替わるこの時期はどうしても外せない。

「ほなまず明日手嶋さんちな。駐輪所って空いとる?空いてへんかったら歩きで行くけど」
「ああ、名字さんってバイク運転するんだっけ?共用駐輪所は多分場所あるんじゃないかな」
「今日1日思ってたんだけどさあ」

じゃあバイクで行っても迷惑にならなそうだな、と思いつつぬるくなってきたコーヒーを啜り、紅茶はポットで来るからコーヒーよりもちょっとお得だよな、なんて思いながらフォークを手に取る。すると突然話を変えたユキが怪訝そうな顔で私と手嶋さんを眺めていた。彼は先ほどまでサンドイッチを頬張っていたが、今はポットから紅茶を注いでカップに手を添えている。彼は猫舌だから、熱い飲み物を飲む時はいつもこうやってカップから温度を確かめる。そんなところまで二つ名に忠実じゃなくたっていいのに。

「お前らの呼び方なんとかなんねーの。今日初めて会ったやつみてえ」
「え、何それ?」
「あー、言われてみれば確かに……?」
「このままじゃ俺ばっか手嶋と仲良くなんぞ」
「はー?何やねんそれ。絶対許せへん。ウチらさんこいちやろ」
「さんこいち……」

誰であろうとまず名字にさん付けで呼ぶのは私の癖だ。もちろん仕事の上でもそうしているが、親の教育方針という面が一番大きい。両親は家でも時折私に敬語で話すし、私も時折両親に敬語で話しかける。子供に対して「名前さん」なんて呼んでくる両親はもしかしたら珍しいのかもしれない。
大人になると人の呼び名を変えることは意識しなければなかなか出来なくなる。……いや、まだ大人なんて呼べる年齢ではないのだが。それこそ、まだ年齢が一桁だった頃なんていうのは、気がついたら相手をあだ名で呼んでいた。あの頃の思い切りの良さをもう今では忘れてしまっている。もちろん今ユキ達を呼ぶ時は、「えいや!」という気持ちでもってして呼び名を変えた覚えがある。彼ら自身それを感じ取ったかどうかはわからないが。

「さんこいちの名にかけて!!改めてよろしく、手嶋くん」
「おー、こちらこそよろしく、名字ちゃん」

コーヒーカップをわざとらしく掲げて手嶋さん……手嶋くんの持つグラスと合わせる。小さく陶器が触れ合う音がして、三人で笑いあった。まだほんの少し湯気を立たせるコーヒーをまた一口啜り、ケーキを一口大に切った。
そういえば私がユキや、アブくん、シキバくんを今のように呼び始めたのはいつだったろうか。



泉田さんは同じクラスということや、二年を取りまとめる立場にあることもあり休み時間によく話をするようになった。何でもない休み時間は各々の友達と話すことももちろんあるのだが、まだ部に馴染みきれていない私を気遣ってか、部内の連絡なども仔細してくれるため話す時間は長い。私自身聞かなければならないことも多く、お昼ご飯を一緒にとることもままあった。それは今日も同じことだ。

「泉田さん、お昼一緒してええかな」
「名字さん。どうぞ。今日は阿部が部活会議でいないから、その席座っていいんじゃないかな」
「ありがとう」

泉田さんの前の席に普段座っているサッカー部の阿部くんの席を借りる。普段一緒にお昼を食べている友人には先に断りを入れている。泉田さんも普段一緒にお昼を食べている友人に一言断りを入れてくれた。『普段』とはいえ、私はまだ転校してきて一ヶ月と少しだが。最近は期末テストも近く、一人で単語帳片手にお昼を食べる人もいる。特にそれらを異端視するような雰囲気もなく、お昼はご飯を食べずにずっと眠っている人も居るくらいだ。友人が今日は一人で食べたい気分だからと一緒にご飯を食べない日だってあるくらい、このクラスはなんだか不思議な雰囲気を纏っている。それは進学校だからなのか、関東の学校だからなのか、私は未だわからずにいる。……多分、そのどれでもなく、ただただ変わった生徒の多い学校だということなのだろうが。

「それで、どうしたの?」
「ああ、えっと、今居はる部員の今までのスコアとかあったら見たいなって思って。やっぱああいうのって主将が持ってはんの?」
「スコアか……。そうだね、多分……福富さんか、コーチか……」

お弁当を広げる。昨夜の晩御飯で余ったタケノコとしいたけの煮物と、アスパラベーコン、卵焼き、ブロッコリー、それから朝に握ったおにぎりが詰められている。おかずは昨夜のうちに父がこしらえて、おにぎりは私が朝起きてから好きな具で家族全員分握る。お茶を沸かしておくのは母の仕事だ。正面に座る泉田さんはコンビニか購買で買ったであろうパンやサラダやおかずが広げられている。到底私では完食できないだろう量だ。しかし、効率がいいとはいえ購買のパンやサラダでは栄養バランスが偏ってしまわないだろうか。確か知り合いの知り合いに関東の管理栄養士と調理師が居たはずだから、食についてのサポートが出来るかもしれない。一度話をしてみることにしよう。

「ああでも、過去の記録ノートがあるか。あそこにも書いてるはずだよ。手書きだけど」
「あれバックナンバーあるん?棚には今年の分しかなさそうやったけど」
「下の棚に鍵がかかっていただろ?あそこを開けると、多分五年分くらいは残ってるはずだよ。鍵は顧問の先生が持ってたはず」
「あ〜!あそこ、確かに何やろて思っててんな。そっかそっか、ほなまた先生とこ行ってみるわ」

そうしてみるといい。と言いながら彼はパンを丁寧にちぎってから口に運ぶ。品があるのはいいが、このペースでこんなに量を食べていたら昼休みがあっという間に過ぎてしまうんじゃないだろうか。今までは相談事に熱心で気が付かなかった。本当なら最初に気が付くべきところだが、私も転校して間もなく、自分が思っているよりも余裕が無いらしい。

「……泉田さん」
「なんだい、名字さん」
「もしかしてやねんけど、いや、違ったらごめんな。あの、もしかして……私の前で気使って食べてはる?」
「え」

咀嚼をしつつ口に添えていた手がこわばる。その”図星です”という顔、彼は思いの外顔に出るタイプなのかもしれない。もう片方の手が持っていたお昼ご飯用の水筒が傾いて少しだけお茶が溢れる。先ほどまでその水筒からは湯気がたっていたような。

「あっ……つ!」
「わー!大丈夫!?」

数滴泉田さんの腕に落ちた。なんとか持ちこたえた泉田さんはそれ以上お茶をこぼすことなく水筒を机に戻し、濡れた腕をさする。すでに温度が下がっているらしいお茶はすぐ肌に馴染んで消えたが、水滴が落ちたところだけはほんの少し赤く染まっていた。

「あー、ごめんごめんウチが変なこと言うたからや……ちょい待ってて。ハンカチ冷やしてくるわ」
「いや、大丈夫。ボクもびっくりして大げさに反応しちゃっただけだから……。えーと……なんというか……」
「あはは!……あ、ごめんウチが悪いのに笑ってもうた」
「いいよ、もー……存分に笑って……」
「そお?ほなお言葉に甘えて。あははは!ははは!!あー、おかしい!テンパり過ぎやって!だっはっは!はーあ!」
「遠慮がないな、キミは……」

慌てて自分のハンカチで腕を拭う泉田さんはいつも授業を受けている時とも、自転車に乗っている時とも、新開先輩に目を輝かせている時とも違う顔をしていたから、なんだか急におかしくなってしまったのだ。何となく彼は自転車一筋で、自分やチームに自信があるあまり高潔になりすぎている節があると思っていたが、それでも彼は普通の男子高校生なのだ。

「やー、あは。ふふ……、ええねんでウチの前でそんな気ぃ使って飯食わんでも。追っつかへんやろ、そんなんしたはったら」
「……キミ、もっと丁寧な言葉遣いをする人じゃなかったのかい」

泉田くんがじとり、と音が聞こえてきそうなほど恨めしそうな瞳でこちらをみる。視線はこちらでも、手元ではハンカチを綺麗に折りたたんでいるあたり、神経質っぽい性格が伺い知れる。

「え!?なんでそんな……ちゃうちゃう、そんな人やあらへんよ。この出で立ちでその性格は完璧すぎやろ。あれ?そう思われてたん、私」
「……いや、いいんだ。多分ボクが勝手にそう思っていただけだから……名字がガサツだってこと、多分見た目から想像出来ていなかったんだ。ボクの勘違い」
「え。もしかして私今ディスられとる?なあ、ディスってる?」
「ディスってないどす」
「……泉田くんのこと私は一生許しません」
「キレどころがわからないなあ」



いよいよ日が長くなり、日の出が早くなっていた。朝練に付き合ってくれないかという友人達に応えて、いつもより一時間半ほど早く起きて身支度をする。中学の頃以来の早起きに驚いた母が、眠さで要領悪く朝の支度をしている私を見かねて朝ごはんをサンドイッチにして持たせてくれた。見送りに出てくれた母にいってきますを告げて、透き通る初夏の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

校門をくぐり、部活舍の前へと続く道で泉田くんと葦木場くんに出会う。彼らはとっくに朝の支度を済ませて、ストレッチを開始していた。

「おはよお。朝からしゃっきりしたはるなあ」
「名字は眠そうだね。やっぱり悪かったかな、朝練に付き合わせるの」
「いやいや、ええねんたまには……。選手ばっかり早起きとか、不公平やんか。ふあ……ぁふ」
「おっきいあくびだなあ」

あくびの影響でぼやける視界を手で拭って鮮明にする。そういえばこの場に未だ一人足りていない。予定していた集合時間まであと30分ほどあるからいいが、既に二人が居るのにも関わらず姿が見えないというのは違和感がある。大きく辺りを見回す私に得心いったのか、葦木場くんが「あー、ユキちゃん?」とよく伸びる声を出す。彼の声はなんだか夢の世界へ誘ってくれそうだ。

「雪成ならまだロッカールームじゃないかな。彼、血圧低いから寝起きが最悪なんだ」
「低血圧!意外なような、言われてみればそんな感じがするような……。まだおネムん時やったら何言うても怒らへんやろか」
「何を企んでいるんだ……」
「や、実はな」

前から思っていたことを二人に話す。転校してから三ヶ月弱。インターハイも目前に迫った今、選手とはコミュニケーションを取る機会が格段に増えた。その中で私は、黒田さんに対してだけなんとなく距離を測りかねていたのだ。
彼は気安いし、こちらがお願いしたことは大抵こなせるタイプだ。だからこそ、情報の伝達がスムーズで言葉を交わすことが実は少ない。お願いや頼みごとはしやすいが、もしかしたら世間話でいうと彼とはあまり話していないのではないだろうか。もちろん部活中は私語をなるべく少なくしてトレーニングに集中してもらおうという意思もあるのだが。
泉田くんや葦木場くんはクラスで話すことが多いことや、以前の部活ノートを見返すタイミングなどでなんてことない話をしたりするのだが、そういったきっかけが黒田さんにはない。同じ学年で同じ部活と言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、私は彼ともう少し仲のいい友人になってみたいと考えている。もちろん、泉田くんや葦木場くんとも。

「ああ、まずは形からってこと」
「いいね、歩み寄りだよね!」
「歩み寄りっていうと私と黒田さんの仲悪いみたいやな……まあええか」

引き戸が開く音が聞こえてそちらをみれば、未だ少し眠そうな様子の黒田さんがサイクリングジャージで出てくる。それは学校指定のものではなく、おそらく自前のものだ。思えば隣の二人も見慣れた白と青のジャージではなく、個人のジャージを着ている。朝の練習でどれだけ汗をかくつもりなのだろうか。
私が来ていることに気がついた黒田さんは軽く手を上げて眠たそうな挨拶をこちらに投げかける。

「はよー、名字。塔一郎も葦木場も待たせて悪いな。やっと目ェ覚めてきたわ」
「ユキは本当に昔から朝が弱いな」
「ユキちゃんおはよう」
「おはようユキくん」
「おー」

仲良くなるにはまず形から。つまるところ呼び方から無理やり変えてしまおうという作戦だった。もちろん彼が嫌がるようならすぐに止めるつもりだが、二人曰く「ユキ(ちゃん)はそんなことでツンケンするような人じゃない」とのことだ。彼の信頼は厚いらしい。
私の言葉を聞いた黒田さんは当然のように私の言葉を流した。いつもであればすぐに反応をくれるのだろうと思うのだが、やはりまだ少しだけ眠気が残っているらしい。長い瞬きの後に違和感に気がついて私の顔をじっくりと観察するように眺める。「今こいつなんて言った」と近い記憶を掘り返しているような顔。

「……名字?」
「何ですのん、ユキくん。はよ朝練しようや」

何でもない顔をして向き合っているが、隣にいる葦木場くんがやけに満面の笑みをたたえている。黒田さんはそれに気付いてもう一度私の名前を呼んだが、私はそれにつっけんどんに返した。何度も名前を呼ばれたってその会話とも言えない対話に中身がないからだ。彼の頭にはまだモヤがかかっているらしい。違和感を抱きつつ軽くストレッチをして自転車を持って来た黒田さんは、同じく自分の自転車をそれぞれ用意した泉田くんと葦木場くんの横に並び、私の号令と共に校門から滑り出た。私はストップウォッチを片手に澄み渡る空を眺めて、今日は暑くなりそうだと考えていた。おそらく短いコースを一往復する頃には彼の頭も澄み渡っていることだろう。

「……名前!」
「あ」

メニュー通り、短いコースを五往復してきた彼らは息絶え絶えだ。箱根山が近くに聳え、コース内の起伏も激しいから当然だろう。常温で用意しておいたドリンクを渡して、ホルダーにささったボトルを受け取る。タイムを告げようとストップウォッチを取り出したところで一息ついたユキくんがこちらに向かって大股で歩み寄ってくる。歩み寄りたいとは言ったが、まさか物理的に歩み寄られるとは。

「ユキくん今日はちょっと調子ええやん。今日の部活も期待出来るなあ」
「あー、なら良かった。……って、そうじゃねえ」
「何なん、ユキくん」
「それだよそれ。ユキくんってやつ。昨日まで”黒田サン”だったじゃねえか」

こちらをわざわざ指さして言うユキくんの顔は別に怒っているというわけではなさそうだ。どちらかというと驚いているというか、疑問を持っているというか、なんとも微妙な顔をしている。泉田くんと葦木場くんはそれを遠目で眺めながら汗を拭いたり、ドリンクを飲んだりしている。観戦気分なのだろうか。

「そんなん言うたら、自分ついさっきまで私のこと名字て呼んでたやん」
「それはそれ、これはこれだ。急にどうしたんだアイツって塔一郎と葦木場に聞いても本人に聞けつって何も言わねーし」
「あ、言わはらへんかったんや。てっきり言われるもんや思っとった」

ありがとうの意を込めて少し遠い二人に手を振ると、呆れたような笑みが泉田くんから返ってくる。葦木場くんは何がなんだかわからない様子で大きく手を振り返していた。

「いやな、なんか二年の中でユキくんだけ黒田さんて呼んでたやんか。なんかそれが勿体無い気ぃして。で、ユキくん」
「色々すっ飛ばしてねえ?」
「人間関係はある程度図太くいったもんが勝つとこあるから」
「あー……」

納得したように気の抜けた声を出したユキくんは深く息を吐いてから「そうかもな」と笑った。
まばらに登校しはじめた生徒たちがサイクリングジャージを着ている彼らを物珍しそうに眺めては校舎に消える。腕時計を見るともう半刻程で始業時間だ。シャワーを浴びるであろう彼らを急かして、空のボトルを洗うべく部活棟へ足を向けた。



みんなが使い終わったボトルを洗う。最近になってシンク周りを少しグレードアップしてもらい、温水が出るようになった。その方が汚れも落ちるし、何よりも私の手指の治安が守られるから、少しわがままかとも思ったが顧問と泉田くんに交渉したところ、そういうことはもっと早く言ってくれと叱られた。「選手に金をかけたがるくせに、変なところで遠慮するんじゃない。名字も部員なのだから」と言ってくれた泉田くんとは思わず握手を交わしてしまった。それほど嬉しかったのだ。
そんなわけで私の手指に優しくなった蛇口は、今では雪の降り出しそうな曇天の日にはオアシスのようだ。屋内ではあるが、動いてしまえば選手たちに暖房は不要で、エアコンの出番は無い。本日の練習を終えた部員たちはすでに皆ロッカールームに引っ込んでしまったのだが。
自転車は12月から1月にかけてはオフシーズンで、大会の開催も殆ど無い。路面凍結や積雪等の環境変化は自転車競技において時に命に関わる事故に繋がるからだ。部内では路面状態を確認し定期的に強化模擬試合を行うが、概ねがコース練習かローラー練習、もしくは各々の戦績に合わせた体作りに重点が置かれる。だからといってボトルの総数が大幅に減るわけでもないため、毎日たくさんのボトルを洗うことにはなる。洗剤を染み込ませたスポンジで中まで洗って、シンクに泡のついたボトルが数本溜まったらすすいで一度吸水タオルの上に口を下にして立てる。タオルに乗らなくなったら乾いた布巾でボトルを拭いて所定の箱に戻しておく。全てのボトル本体が洗い終われば蓋を全てスポンジで洗い、また乾かして拭く。箱に並んだボトルに軽くのせて終わりだ。重くて危ないローラーの乾拭きは他の部員に当番制で任せているので、これが私の夕暮れのルーティンとなっている。
たくさんのボトルが入った箱を持ち上げ所定の位置に置くと、泉田くんがロッカールームから戻ってきたようで、背後から引き戸の開く音と私を呼ぶ声が同時に聞こえてきた。

「お疲れ。ちょうど終わったところ?」
「うん。……あ、日誌書いてへん!忘れとった。それ書いたら終わり」
「そっか」
「ごめんな待たせてもーて」

日暮れが早くなってから、通学者用駐輪場まで誰かが送ってくれるようになった。誰か、というのは大抵仲良くしている同学年三人のいずれか(みんな揃ってくることも多い)で、時折真波や銅橋が送ってくれることもある。先輩たちが顔を見せた時には先輩が送ってくれる時もある。どういった基準の人選なのか毎日疑問だが、ロッカールームでじゃんけんでもしているのだろうか。だとしたら、勝った人間が来ているのか、負けた人間が来ているのかでかなり心象が異なるが、もし後者だったら一週間は落ち込んでしまいそうだ。聞くのはよしておくことにする。
一番最初に見送りの申し出をされた時はほんの少しの距離なのにどうしてだろうと疑問に思い聞くと、どうやら冬になると時々冬支度を始める野生動物がこの学校まで降りてくることがあるとのことらしい。万が一危険な動物と鉢合った際に一人ではパニックになった時危ないだろうからと。そうすると、私を送った後の君たちも危ないのではなかろうかと一瞬考えたが、行きの道が安全だとわかれば帰りも大抵安全なのだろうか。かといって私も野生動物とのエンカウントを一人で対処出来る自信が無かったので、彼らを信じて冬の間はお言葉に甘えることにした。

濡れた手をタオルで拭って、戸棚から部活日誌と大きく書かれたノートを取り出す。三ヶ月程でいっぱいになるノートだが、年明け一番最初の部活でちょうど新しくすることになったため、まだ綺麗な状態だ。これが何日も時間を重ねるにつれてノートの端が折れ、爪の跡がつき、ページは波打つ。私はボロボロになったノートを見るのが好きだ。日々の積み重ねが可視化されたような気がするからだろうか。
数ページほど捲って、今日の日付や天気、大まかな活動内容や部内の様子などを書き加える。今日は特筆することも無かったので、近々行う予定の模擬レースへの準備について書いておこうか。そういえば、大会がオフシーズンで部員たちもやりたいことが増えてくるだろうから、数日に分けて面談があってもいいのかもしれない。こういうことをすると、割と何かが出てくるものだ。例えば、「今まではオールラウンダーだったが、クライマーとしてやってみたい」「最近誰それに冷たくあたられている気がする」「ケータリングの味に不満がある」「最近気になる子が出来た」など大から小まで。聞いてみても改善できないこともあるが、できることは改善していきたいと思っている。相談自体はいつしてくれてもいいのだが、きっかけ作りは案外大事だ。

「なあ泉田くん、大相談会しよっか」
「……大相談会?無印良品みたいなことを言うね」
「ん……?………………あ!インテリア大相談会!?今のはちょっと分かりにくいわ!」
「まあそれはいいとして。大相談会って何?今するの?」

少し離れた場所で座って本を読んでいる泉田くんが、ついているスピンを開いているページへ移動させて閉じる。彼は興味のない話題の時は本から目を外さず応対してくるけれど、そうでない時はきちんとこちらの話に集中しようとしてくれる。ちらりと見えた表紙には「家族八景」と書かれていた。私が以前「嫌な本だよ」と勧めたタイトルだ。言ってくれれば貸したのだが、いつの間にか読んでいてくれたらしい。
急に相談なんて言い出したからか、泉田くんは少し緊張感を持ってこちらを伺っている。こちらとしては全くそんな意図はなかったのだが。

「今してもええけど、そやなくて部員みんなの。ほら、年度変わる前にうちらが窓口になってさ。まあ、話す相手は誰でもええし、大した話もせんでええねんけど、キッカケ無いと話されへん事とかあるかもしれんし……」
「ああ、そういう。確かに、一度そういう場を設けるといいのかな。名字も窓口にしたら選手には言いにくい話とかも出来るだろうし。……変に萎縮させないといいんだけど」

泉田くんが手に持っていた文庫本を机に置く。私も概ね書き終わり、相談会について書くかどうかと迷っていたペンを一度ノックして仕舞う。お互い同じ方向を向いていた膝を向かい合わせて座り直した。

「ほなリハやろうや、今。私の話聞いてくれる?」
「え、ああ、うん。いいけど……名字、何かに悩んでいるのかい?」
「ずっと気になっとったんやけど、誰もツッコまへんから聞けへんかったことがあって」

今この室内には私と泉田くんだけで、特に誰が聞き耳を立てているでもないのだが、雰囲気が出るだろうかと声のトーンを落とす。つられたように泉田くんも顔を強張らせて、私の次の言葉を待っている。

「泉田くんの口癖ってどっから来てるん」
「口癖?」

肩透かしを食らったように眉を寄せた泉田くんが私の言葉を復唱する。しかし私はずっと気になっていたのだ。彼が本気になった時に口をついて出る「アブ」に込められた意味が。何か意味が無ければ「あ」と「ぶ」が同時に口をついて出ることなんて無いんじゃないだろうかと転校してすぐに疑問に思ったものの、新入生共々誰も疑問に思っていないみたいだったのでスルーし続けてしまっていた。

「あれはabs……abdominal muscles……腹筋のことだよ。今じゃもう殆ど無意識だけど」
「腹筋てアブスて言うんや。そら知らんかった。せやったら、アンディとかフランクとかと似た感じかあ」
「自転車乗りにとって腹筋は体幹を支える大事な筋肉だからね。スプリントする時もかなり腹筋は重要だよ」

確かにスプリントでは空気抵抗を減らすために前傾姿勢を求められるから、足はもちろん上半身も重要だ。自転車は足だけで走っているわけでは無いことを改めて思い知る。自分のお腹に力を入れて手を当てると、薄い皮膚越しに柔らかな脂肪とその奥にある貧弱な腹筋に触れる。私は選手ではないからトレーニングしている訳では無いが、もう少し筋肉をつけてもいいのかもしれない。部活動中備品を借りて選手の横でトレーニングしたら気が散るだろうか。

「筋肉は名前と場所を知ることでトレーニングでも意識しやすくなるから、覚えておくといいよ。腹筋と一言で言っても、腹直筋と腹斜筋とかでは鍛え方が違ったりとかあるからね」
「アンディとかフランクは別個で名前あんのに、アブくんはアブくんなんやなあ」
「アブは名前じゃないけどね」

そこの判断はどのように行われているんだろう。大胸筋は大きな筋肉だから、親しみやすいのだろうか。今の私には到底理解できない感覚だが、もしかすると世のマッスラー(マッスルな人のことだ)はみんな筋肉に名前をつけているものなのかもしれない。しかしそうなると腹直筋も腹斜筋もまとめて、しかも名前としてではなく口癖として呼ばれる腹筋のアブくんは不平を漏らしていないだろうか。……この思考は果たして正しいのか?

「アブくんだけ名前で呼ばれへんの可哀想やし、泉田くんのことをアブくんて呼ぼかな」
「……何言ってるの?大丈夫?疲れてる?」
「な、アブくん!」
「ああ……うん、まあ……好きなように呼んでくれたらいいけどさあ……名前、そこは顔じゃない。腹直筋だよ」
「腹直筋のアブくんも喜んどる」
「今日は早く寝なよ、名前……」



我々にとって最後のインターハイ。新たなメンバーを加えて再編成したメンバーは完璧だ。昨年の秋に謹慎の解けた葦木場くんと、エースアシストとして新しくスタートを切ることになったユキ、そして主将となったアブくん。それから、何度も入部と退部を繰り返し粘り強さと実力を証明した銅橋、二年目のインターハイで打倒小野田を掲げる真波、新開先輩の弟としてではなく、一個人として実力を見せつけた悠人。新生総北がどのような形で挑んでくるか今はまだわからないが、恐らく昨年会場で見た新三年の二人の、少なくともどちらか一人は出てくるだろう。彼らは殆ど未知の存在だ。あるとするならば、個人レースの記録と峰ヶ山クライムレースでの記録か。部員が偵察に行ったり、時に私もそれに付き合ったりもしたが、今現在どのように成長しているかはわからない。予選は毎年地方ごとに行われ、関東地区の箱根学園と総北高校は同日だ。私はその予選のサポートに出るため直接彼らを見ることはできない。

ようやく衣替えが来て、湿気でまとわりつく袖も短くなる。私が転校してからちょうど一年だ。なんとなく窮屈そうにブレザーを羽織っていた葦木場くんも幾ばくか楽そうにしている気がする。
ご飯を食べ終わった後の少ない休み時間は皆適当に過ごす。ゲームをしたり、携帯をいじったり、友人と話したり、本を読んだりと様々だ。私はアブくんと連れ立って隣のクラスへと足を運び、アブくんはユキ、私は葦木場くんを呼びつけた。慣れた様子で教室のドアをくぐり抜けた葦木場くんはユキを呼ぶアブくんにも軽く挨拶をしてから話を進める。

「あしっばくん」
「お疲れ、名前ちゃん。何かあった?」
「いや、大したことちゃうねんけど……悠人どないかなって。私は一緒に走ってるわけちゃうし、特に悠人と銅橋はちゃんと様子聞いとこて思って」
「ああ、なるほど。ていっても、そうだなあ……悠人も最近落ち着いてきてるんじゃないかな。調子も良さそうだし」

葦木場くんは実は鋭い観察眼を持っている。いつもはぼんやりしているし、時に話が噛み合わないけれど。アブくんが主将としての広い視野を持っているとするなら、葦木場くんは組織全体の均衡を保つための視野を持っている。それは昨年の自分を今になって客観視できるようになっているからだろうか。私は葦木場くんのしたことをあんまり詳しく知っているわけではないけれど。

「ほなええか。銅橋は真波に聞いた方がええんやろか」
「多分ね。最近銅橋と真波が話してるのよく見るし、仲良いんじゃないかな?」
「仲良えんか……?や、ええわ。じゃあまた真波にも声かけてみよかな。あしっばくんも何かあったら教えてくれへん?」
「わかった」
「……名前」

私たちの会話の横で同じように話していたアブくんが一旦話を止めてこちらの会話に入る。彼らは彼らで、コース下見の日程や細々とした調整の話をしていたはずなのだが。

「前から言おうと思ってたんだけど……キミ、葦木場の名前をきちんと呼んだのはいつが最後?」
「え?いつもなにも、今やけど」

そう告げると、アブくんどころかユキまでもが呆れた目を向ける。私と葦木場くんは彼らの言っている意味が分からず、顔を見合わせて首をかしげることしか出来なかった。私はともかく、言われている張本人である葦木場くんですら首を傾げているのを見て、二人の表情はいよいよ同情の色すら帯びる。失礼な奴らだな、と思うが、私が葦木場くんに限らず人を呼ぶ時に特に何かを意識していないから、もしかしたら彼らの言う通り「きちんと呼」べていないのかもしれない。

「お前、さっきから葦木場のこと”あしっば”つってんぞ」
「マジ?ごめん葦キ場くん」
「それはそれで不自然だな……」
「どうせえっちゅーねん……せや、あしっばくん。今までどんなあだ名で呼ばれてきた?……あ、呼ばれて嫌やったのはナシやで」

大きな身長で私たちのつむじを眺めていた葦木場くんは、私の問いに少し悩んだように腕を組んだ。高校に入ってから彼はずっと「葦木場」だから、おそらく中学生くらいの記憶を手繰っているのだろう。もしかすると、小学生の頃にまでさかのぼっているかもしれない。

「シキバ」
「ん?」
「シキバ……って呼ばれてたんだ。中学生まで」

葦木場くんは組んでいた腕を解いて、いつもよりも少しだけ落ち着いた声でおずおずと言う。廊下の喧騒にかき消されて一言目は分からなかったが、聞き返すととても大切なものを紡ぐように一言一言を私へ届けてくれた。照れ臭そうにはにかんだ葦木場くんがどういう気持ちでそれを言ったのかは分からないが、とにかく私としては名前が呼びやすくなるのは大歓迎だ。関係も、今より深まったような気持ちになれることだろう。

「へえーぇ。シキバ……シキバくん……うん、ええやん」
「えへへ」
「何笑ってんだ葦木場」
「なんでもないよ〜」




/

back / top
ALICE+