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朝。一人で起きることには未だ慣れず、部屋を見回しながら冷蔵庫を開ける。卵を一つとバター、水を取り出してから閉める。少しの動きですら新鮮だ。白無地のブレッドケースから食パンを取り出して、そういえば近くに食パンが美味しいというパン屋さんがあることを思い出した。ああいうものは一斤で買うから、パンを切るためのナイフが必要になるのかもしれない。
オーブントースターに食パンをセットして、フライパンを熱してすぐに卵を落として水を加えて蓋を閉じる。ポットには水を注いでスイッチを入れた。これは実家にいた頃からしていたルーティンのようなものだが、環境が違うだけで動きも全てが変わる。隣で鮭を焼く父も居ないし、バターを塗ろうかピーナッツバターを塗ろうか迷う母も居ない。私が立てる音だけがキッチンに響き、消える。

あくびをしながらLINEを確認すると、数件のメッセージが届いていた。母からの朝の挨拶と、今日家に行く手嶋くんからのメッセージだ。母からのものには簡単に返して、手嶋くんのメッセージをしっかりと確認する。

『おはよ。軽く掃除はしたけど散らかってるかも。荷物は10時くらいに来るから、それくらいに適当に来て』

なんとも適当な文面だ。送られてきたのが八時過ぎで、今は八時半。その文面にスタンプで返して、コンロの火を止め蒸し焼きにしていた目玉焼きをモーニングプレートへ転がす。このプレートは昨日買ったものだ。白くて、無駄のないスクエア型。すでに沸いているお湯でインスタントコーヒーを溶かし、きつね色になったトーストにマーマレードを塗る。これにプラスしていくつかのビタミン剤で私の朝食は全てだ。本当はこれにサラダをプラスしたいが、昼食の際に野菜を摂ることでいつも自分を誤魔化している。目玉焼きには塩と胡椒。

しかし10時か。仕事のメールチェックの時間などを考えると思いの外身支度に時間はかけられないな、と時計を眺める。特に時間ぴったりに着くつもりも無いけれど、かといって化粧に時間をかけられる程余裕があるでもない。そもそも今日は作業をするだけなのだから、しっかりと化粧をする気は毛頭無いのだが。
食べ終わった食器を少し眺め、ため息をひとつ吐いてから洗う。小さい食卓を拭き、シンクもリセットして朝ごはんフェーズは終了。水切り台に並んだ食器はまだ見慣れない。



バイクを走らせること数分。知らない道で少し緊張したが、平日の半端な時間だからか通勤の車も無く、ナビ代わりにハンドルに取り付けたスマートフォンを見ながらすんなり辿り着けた。清潔感のある明るいアパート。駐輪場にはカゴのついた自転車や、原付が置かれていた。ロードバイクは盗難防止に室内に入れているのだろう、手嶋くんのものらしき自転車は見つからなかった。
バイクを停めて、事前に聞いておいた部屋番号のプレートがついた表札の前に立つ。部屋番号の隣には手書きの文字で『手嶋』と書かれている。インターホンを鳴らそうと思ったその瞬間、音を立ててドアが開いた。

「うわ!ビクったあ!」
「わ、ごめん!バイクの音聞こえたから、来たのかなって思って」

出てきたのは部屋の主だ。長めの髪を後ろで一つに縛って、袖を肘まで捲っている。すでに作業は始まっていたのだろうか。先ほど見た時計では、10時を少し過ぎた時間だったのだが。

「あら、私出遅れた?」
「いや、さっきちょうど荷物きたところでさ。早めに来た黒田とダンボール開けてたとこ。カッターとハサミ一本ずつしか無いから、名字ちゃんが来る前に開けるかつって」
「あ、そうなんや」

入った玄関には自転車用のポールが用意されており、見慣れない自転車がかかっている。つまりユキは徒歩で来たという事だ。今掛かっているこれは手嶋くんの愛車だろう。小さな傷がいくつも入り、よく手入れされた車体は艶やかで煌めいている。
後ろ手で鍵を閉めた手嶋くんが、そのスリッパ使ってくれたらいいからと床のスリッパを指さして私の横をすり抜け部屋へ入る。開けられたドアの向こうではユキがカッターで部品のビニールを開けている。部屋は今日のためか整頓され、シートが敷かれていた。

「はよ。名前説明書読んでくんね」

ユキが床に散らばっていた冊子をまとめて手嶋くんに渡す。手嶋さんを経由して私に渡った説明書には、組み立ての手順が細やかに描かれている。ローテーブルの説明書を軽く読み、次にスライド本棚の説明書を読む。ローテーブルはさほど難しくなさそうだが、本棚の組み立ては構造が複雑な上、サイズも小さくはないので少し骨が折れそうだ。

「これ絶対疲れるし、先昼飯何するか決めたほうがええやつやわ。後で決めるなった時絶対どれでもええから何か食おうってなる」
「あ、ならいくつか行ってみたいところがあって、ピックアップしてるんだ。カレーかラーメンかパスタ、どれがいい?」
「カレー」
「ラーメン!」

意見の相違に取扱説明書からつい目をあげる。私はラーメン、ユキはカレーだ。私とユキは少しの間お互いを見つめ合い、同時に拳を掲げる。何かの決め事で相違があった時、この手法は頻繁にとられる。おそらく私たちの間だけではなく、全国的に。

『じゃーんけーん!!』



スパイスの香りが漂う店内は割と繁盛しているらしい。ネパール系の店員が客のそばで何か談笑している。メニューにうつっている写真はどれもフラッシュが焚かれた素人写真で、逆にそれが味となっているような気がしてくるから不思議だ。メニューに時折誤字があり、にじんだサインペンで訂正されているのも良い。

「私チキンカレーにしよ。普通のナンとラッシーのセットのやつ」
「俺なすとじゃがいものカレー。チーズナンセットで」
「俺ほうれん草カレーにしようかな。チーズナンのやつ」

インディアンな雰囲気の音楽がほんのり流れている。厨房からはネパール語と思しき言語が聞こえてきて、すぐ後に笑い声がドッと湧く。
通路側に座っていたユキが店員さんを呼んで、店員さんが少し独特な発音で注文を聞いてくれた。気がつかなかったがどうやら辛さも選べたらしく、私と手嶋くんは中辛、ユキは辛口を選ぶ。辛口を選んだユキは店員さんに少しだけ脅されていた。「マジすか?」と及び腰になるユキを見て隣り合った私と手嶋さんは「ビビってんじゃねえよ」と笑った。

「いやでも昼までに終わってよかったな。かなり手際良かったんじゃねえの」
「ほんまそれな〜。やっぱ人数おるとちゃうよね」
「あれ一人でやるのは絶対無理だったわ〜。ありがとな」

少し話していると先にラッシーが運ばれてくる。ラッシーはすっきりとした甘さで、カレーとよく合いそうだ。今のうちにたくさん飲んでしまうのはもったいなく思えて、お冷で喉を潤す。長いコップが少し汗をかいた頃に、フランクな店員さんが慣れた手つきでカレーを持ってきてくれた。

「チキンカリーのお客サマ〜」
「あ、はい。ありがとうござ……え!?ははは!ナンでっか!」
「ナンおかわりもあるからネ〜。ほうれん草カリーのお客サマ〜」
「俺です、どうも」
「辛いナスジャガイモカリーのお客サマはアナタね〜。から〜いから気をつけて、ラッシーのおかわりは一杯100円ネ」
「へえ、安いんですね。ありがとうございます」

置かれた銀のトレイの半分をナンが占めている。なんならトレイから大幅にはみ出ていて、存在感を放っている。カレーは器に入ってトレーに乗っている。付け合わせのヨーグルトにはスパイスときゅうりなどの野菜が混ざっている。

「おいしそ〜。じゃあ、いただきます」
『いただきまーす』




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