19
昼食をとった後、手嶋くんの家に戻ってシートなどの片付けをした。すでに部屋の大部分は片付いていて、あとは本棚に本を仕舞えばダンボールは全て片付くらしく、手嶋くんにはそちらを優先してもらって私とユキは作業した部屋の掃除を軽く行った。
明日は私の部屋だが、私の部屋には仕事の情報が未だ雑然と放置されていて、とにかく帰って掃除しなければならない。じゃあまた明日、と言って早々に手嶋くんの部屋を後にした。
家に帰ると夕方に差し掛かったくらいの時間になっていた。リビングに放置されていた書類やバインダーを仕事部屋のカラーボックスに押し込んで目隠しをする。新たに届くデスクの下にしまう予定のチェストも明日届くため、どうにもあぶれてしまう書類たちはとりあえずダンボールに戻しておくことにする。逆にパソコンの入ったダンボールはとりあえずガムテープだけ外しておき、すぐに取り出せるようにしておいた。準備のいい手嶋くんとは違ってビニールシートなんてものはないから、荷物が届いたダンボールを開いて敷くことにしよう。
一通り明日のための準備を終え、コンビニで調達してきた軽い晩御飯を胃に流し込む。昼に食べたカレーとナンが思いの外重く、この時間まで引きずっている。いい店であるのは確かなのだが、美味しすぎてしっかり平らげてしまったのだ。あんなに大きいナンも気がつけばお腹におさまっていた。
◯
「わ、むっちゃ朝やんけ!」
目覚ましを無意識に止めていたらしい。その割には外から聞こえて来る鳥のさえずりで目を覚ましたのだが。掛け布団を蹴飛ばして時計を見ると9時を少し過ぎたあたりで、荷物は昨日の手嶋くんと同じく10時くらいに到着する予定だ。昨日のうちに二人にはそれを告げていて、おそらくあと40分ほどで二人が来るだろう。
しかし朝食を抜くと絶対に組み立てでヘバってしまう。急いで顔を洗って口をゆすいでから食パンを取り出して、バターを薄く塗ってからハムとチーズをのせる。目玉焼きを焼く時間が勿体無いから、今日はパンに色々と乗せるのだ。パンを待っている間にお湯を沸かす。髪をとかして服を着替えて、朝用のパックをつけて、ちょうど沸いたお湯でインスタントコーヒーを溶かした。とにかく時間重視の動き方だが、それでも時間は刻一刻と迫っている。
焼けたパンをお皿に乗せて、パックを外して美容液をなじませてからパンをかじる。パンはそこそこに美味しい。多分。
急いで歯を磨いていると呼び鈴が鳴った。ロビーからだ。液晶を覗き込むと手嶋くんとユキが覗き込んでいた。歯ブラシをくわえたままモゴモゴと応対して、共同玄関を開く。口をゆすいで鏡を覗き込む。しまった、まだ化粧をしていない。時間もなければやる気もないし、今日はすっぴんでいいか。動きやすいようにコンタクトだけ入れていると、玄関のインターホンが鳴る。
「おーはよ。まだ荷物来てへんねん」
「お前、インターホン鳴った時すぐドア開けるなよ。危ないだろ」
「確かに。ごめん、次からそうするわ。とにかく入って」
「おじゃましまーす」
スリッパを人数分用意して、とにかく入ってもらうことにした。二人は自転車で来てはないみたいだったから、玄関が狭くてもどうにかなりそうで助かった。荷物が来るまでにはまだ少しだけ時間がありそうなので、とりあえず何か出そうかと思いキッチンに立つ。昨日の昼食では手嶋くんもユキも紅茶だったのだが、そういえば私の家には紅茶のティーバッグを置いていない。私が紅茶を飲まないからだが、いくつか置いておくべきだったのかもしれない。
「ごめん、コーヒーしかないんやけど……飲む?」
「あー、いいよいいよ。どうせすぐ荷物来るんだろ?」
「そう?悪いなあ、もてなしもできひんくて」
布団のかかっていないこたつの周りにクッションを並べて座るよう促す。何も出さないというのもなんなので、この間選びあったコップに浄水ポットから水を注ぐ。それぞれの目の前にそれを置いて、二人に向き合うようにして私もクッションの上に座る。
来るときに二人がばったり出会ったこと、来る道中にハチワレの猫が散歩していたことなどを聞いているとロビーからの呼び鈴が再び聞こえてきた。
「来たか」
「玄関からこっちまでは俺ら運ぶから、名字ちゃんはカッター出しといて」
「わかった、助かるわ〜」
◯
組み立てが必要なのはL字テーブルと小さい棚だけで、それも三人掛かりだと思いの外早く終わってしまい、昼食の時間にはまだ少し早い。ついでにパソコンの配線作業にも付き合ってもらい、ソファの移動も力を借りたが今は11時を軽く過ぎたところだ。
「いい部屋だな。日当たりが良い」
「ほんま?ありがと。日光浴びひんと疲れてまいそうやろ、日当たりは結構重視してん」
「日光なんて部活で飽きるほど浴びるだろうに」
ユキと私はソファに座り、手嶋さんはその間で床に座っている。誰一人として視線が合わないが、新しい部屋を見回す分には視線を合わせて話す必要はない。人の部屋をあんまりじろじろと見回すのはどうかと思うが。新しく注いだ水も半分くらいそれぞれ飲んでしまっている。生憎テレビは置いてないし、ゲームもまだセッティングが終わっていない。時間を潰そうにも現在の時刻は微妙で、家主の私だけだろうが、なんとなくこの空気に慣れないものを感じていた。
「あ、今日のお昼どうする?」
「昨日カレーだったから今日はラーメンだろ。あの店、こっちからの方が若干近くなかったか」
「そうだなー。腹減った?そろそろ行くか」
「ヤー」
半分残った水を飲み切って、リセットされたシンクへ放り込む。埃っぽくなった部屋の換気をしていた窓も閉じる。ベランダからは少し風が吹いていて、春の予感を乗せた空気が体を抜けていく。最近は気温も過ごしやすく、世界が新生活に胸を踊らせているように思えた。
「そういやお前、今日化粧してねーのな。珍しくね?」
「なんや、悪いんか?」
「すーぐつっかかんなよ、狂犬か。珍しいなつってるだけだよ」
「あー、いや、朝飯食うんで精一杯の時間に起きたねん」
「おいおい、大丈夫かよ新生活はよ」
玄関口に置きっぱなしにしていた鍵を取り、二人を先に共同廊下に出してから施錠をしてドアがきちんと閉まったのを確かめる。廊下は静かで、私たちの声がよく反響する。手に持った鍵をパンツのバックポケットに仕舞って二人に向き合う。手嶋くんがエレベーターを呼んでくれていたらしい。
「なんか今日……全体的に親みたいだな、黒田」
「だはは!もー、オカンうるっさいねん!」
「反抗期か!つかなんだよ親って!」
エレベーターに乗り込んで、三人でゆっくりと目的の店へと足を進める。ロビーの自動ドアが開くと強く風が全身を抜けて髪を乱す。屋内では思わなかったが、暖かくなってきたとはいえ未だ少しだけ肌寒い。今日は薄く曇っているから尚更だ。こんな日は自転車に乗ればきっと気持ちいいのだろう。柔らかな風が背を押して、どこへでも行ける気がして、じんわりと汗が滲んで。私は競技自転車はやったことはないけれど、多分そんな感じだろう。
「いーい風だなあ。サイクリング日和だ」
「そやねえ」
おや?と思った。同じことを思うのか、ロードレーサーも。こういう時、レース日和だと思うものと勝手に思い込んでいた。私の周りがレースに狂っているような人間ばかりだったからだろうか、少し新鮮だ。
「飯食ったら乗るか、自転車。三人で」
「えー、私ママチャリしか無いから一人だけゼエハアになってまうやんか。嫌や」
私はスポーツをしない。血湧き肉躍るあの舞台に上がらない。その裏に立って、組織を操作する。どんな手を使ってでもその舞台を良いものにして、「どうだ」と胸を張る。舞台の観客は私を見ないし、映画のクレジットなんて興味も無いかもしれない。けれど。
スポーツは自分の体が資本だ。男と女では第二次性徴期を迎えてから体つきは大きく変化して、どうしても超えられないものが生まれる。数字として出るそれらは隠すことだって出来やしない。見た目だってそうだ。肩幅は狭く、筋肉は付きづらく、脂肪はつきやすくなり、内臓が強制的に出産に適応していく。いつの間にか体育は男女で分けられ、水泳の見学者が増える。自分の体が日に日に変わっていくのが怖かった。
初めて男の人に体に触れられたのは電車の中だった。ガラガラの電車の中で、2人席の隣に座った見知らぬ人がスカートから伸びた私の足に触れた。当時はこんなこと他人事だと思っていたから、本当にびっくりした。咄嗟に手を払いのけて席を離れたものの声が出なくて、後になってああすればよかった、こうすればよかったと枕を濡らした。いつかまたそいつと同乗したら殺してやろうと思った時もあった。それもこれも、私が女だからなのかと自分を責めた。
私はスポーツをしない。裏で糸を引いて、最善へと導く。情報を誰よりも蓄え、精査し、人と人を繋げ組織へと進化させる。その中でも時折女としての過剰な振る舞いを求められるが、それを無視したってガムシャラに手段を選ばず動けばやってやれないことはない。……少なくとも、スポーツに比べれば。
身の程を弁えないガムシャラは無駄なリスクを背負う。いつか夜道で刺されるかもしれない。それに勿論、やれない時だってある。方々に頭を下げても、その頭自体を安く見られることなんてザラだ。女じゃ話にならない、男を出せと言われたことだって両手でも数えきれないくらいある。けれど、どうしようもなくは無い。都合の悪い牌は捨てればいい。安い役ならドラで底上げすればいい。思う牌が来ないのだったら待ち牌を変えればいい。時にはイカサマをしてでも、気付かれないまま結果的に勝てばいい。そうやって私は「やって」きた。
つまり、色々な意味でスポーツは好きだが得意ではないのだ。
「いいじゃんママチャリ。レースじゃないんだ、ペースは合わせるよ」
「あーかんあかん。飯食った後君らの後ろでチャリ乗ったらラーメン全部出るし」
「そりゃ困るな」
マップを表示させたスマートフォンを片手に知らない道を歩く。目標のラーメン屋は口コミもそこそこ評判がいいらしく、星が多めに色付いていた。少しだけマップの縮尺を変えれば海が見える。多分、歩けば数十分から一時間くらいだろうか。
「それよか自分ら免許取りーや。私車のん取るで」
「え、春休み中に?」
「そやー。春から教習所入って、まあ夏までに終わればええやろくらいのペースで」
「マジかよ、近所のやつが一人車持ってると移動楽になるなー」
「いや、やから君らも取れ言うてんねん!三人おったら遠出出来んで、ローテ組めるからなあ。レンタカー借りて比叡山ヒルクライムとかぁ、ビワイチとかー」
三人も運転ができたら、本当にどこへでも行けるだろう。夜中じゅうか、数日に分けてか運転し続ければ、ここから九州にだって行けてしまう。それも自転車を積んで、だ。つまり、遠くのレースに出ることも出来る。北海道の広い大地でペダルを回すことだって、まあ……相当頑張らなければならないが、一応出来る。
「…………アリだな」
「ああ、良いな。取るかー、免許」
「友達誘ったら安なんねん教習代。一緒に申し込み行こうや」
「あ、お前それが目的か?」
「うふふ……」
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