21


クローゼットでずっと沈黙していた安いリクルートスーツに袖を通す。いつも使っているスーツだとなんとなく浮きそうな気がしたからだ。ネクタイだけは式典用に柄の入った少し可愛げのあるデザインで、タイピンはシンプルなものでバランスを取る。髪を一つにまとめるために鏡を覗き込むと、少しだけ緊張している様子の自分が映った。今日は入学式だ。

「君ら似合わんなあ!スーツ!」

初日は三人お手手繋いで学校に入ろうと約束した我々は、少し早い時間に住宅街の片隅で集合していた。二人とも、鏡で見た私みたいな顔をして真新しいスーツを身に纏っていた。なんとなく、肩も強張っているように見える。慣れない尖った革靴に歩き方もおぼつかない。

「うるせえよ。見慣れねえだけだろうが」
「そうだそうだ。なんでか名字ちゃんはサマになってっけど。納得いかねえ〜」
「年季がちゃうねん、年季が」

桜が満開になっている。入学式が執り行われる上富士市民ホールへの道に植えられた桜が美しく咲き誇り、風に煽られて花弁が舞っている。中に入ってしまえば文理で席が別れるかもしれないから、今のうちに終わった後のことを話しておかなければ。

「終わったら昼やろ?どうする?校舎見に行く?先輩ら、今日学校来てはんのかな」
「荒北さんから返信来ねえんだよ。ほんっとあの人LINE見ねえのな」
「金城さんもだ。忙しいのかな、年度明けって」

そうかもね、と言っているうちに桜並木を抜けて大きく開いたホールの前に立つ。広い階段の下には洋南大学入学式と書かれた立て看板が紙で作られた花で飾り立てられていた。式典まではまだ時間が少しだけあるからか、その看板の横に立って写真を撮る人が列を成していた。その看板を指さして私たちも撮影会をするかと伺うと、ユキは即座に首を振り、手嶋くんは少し考えて「俺もいいや」と言った。かくいう私も特に撮るつもりもなかったので、人が隣に並んでいる立て看板を何とは無しに撮影するに留めることにした。

階段を登って誘導されるがままホールに入ると、そこで文理が分けられた。といっても扉をくぐってしまえば同じホールで、受付が学部ごとに分けられているからゲートを文理で分けているだけらしい。席順を聞けば、とにかく前から順に詰めて座ればそれでいいとのことだったので、結局我々は固まって座ることにした。
受付でもらったパンフレットには、今日のプログラムと国歌、校歌が書かれている。ページをめくると今日の施設である市民ホールの見取り図と、大学の大まかな見取り図が書かれていた。大学の見取り図は本当に簡単な図で、広い敷地にいくつかある棟がどこにあるのかだけが分かる。下の方に小さくA棟はどの学部の棟なのかが書かれてある。どこかで見た覚えがあった気がしてこの一年くらいの記憶をひっくり返すと、そういえば学校に立てられていた案内看板も似た様な作りになっていたことを思い出す。あれを最初に見たのは確か、インターハイが終わってすぐのオープンキャンパスだ。



ジリジリと肌を焼き付ける日差しを手で避ける。オープンキャンパス用に運行されているスクールバスから降りた途端にでも、紫外線は容赦をしない。

「あつ……」

思わずそう呟いて、スマホで時刻を確認する。伝えておいた時間よりほんの少しだけ遅れている。少し見渡すと、洋南大学と書かれた看板のすぐ横に姿勢悪く立っている人物が居た。彼は胡乱な様子で手元の端末を眺めていて、焼け付く日差しのせいで軽く汗ばんでいる様子だった。

「荒北先輩。すみません、お待たせして」
「ンとだヨ。2分遅刻だぞ名字!」
「なんか道がちょっと混んでたみたいで」

彼に近づいて声をかけると、視線だけがスマートフォンから私へ移り、スマートフォンをポケットに仕舞った途端に指をさして怒られた。確かに数分遅れていたのでその言葉は甘んじて受け入れることにする。ひとつ早いバスに乗っていれば良かったのだ。まあ、そうしたらしたで「何で乗るバスの到着時間伝えネェんだよ時間の無駄だろ!」と言われていたような気もするが。

「ったく、とにかくタテモン中入ろうぜ。暑すぎ。話になんねー」
「今日最高気温35度らしいですよ」
「ンだそれェ!おっかしいだろ、真夏かヨ!!」
「そうですねえ」

校門をくぐるとたくさんの建物に取り囲まれる。合間をすいすい抜けていく荒北先輩は慣れた様子だ。たくさんの建物をすり抜けてたどり着いたのは学食で、まだ時間が時間なだけに人はまばらで、備え付けのテレビの音が響いている。

「先にこれ、赤本」
「あ!ありがとうございます、ほんま助かります」

食堂に着くなり小さめの黒いリュックをまさぐっていた荒北先輩が机に座ると同時に使い込まれた本を出す。適当に置かれた勢いで思いの外大きな音が鳴って、人の少ない食堂に響いたが気にとめる人は居ないようだった。

「工学部受けんの、名字」
「いや、経済学部なんスけどね。出題傾向とかのメタ読みは出来るかなって。それに理系の勉強もしておきたいんで」
「フーン……熱心だネ」

呆れた様子の荒北先輩は赤本をパラパラめくる私を見てつまらなさそうに頬杖をつく。荒北先輩は基本的につまらなさそうな顔をしていて最初はそれがかなりプレッシャーだったのだが、部活をやっている内にその態度がデフォルトなんだと知った。

「あ、今日……来てくれはってありがとうございます。まだ大学生って夏休みですよね」
「あー、いーのいーの。つかそんなんいちいち気にしてんじゃネーヨ。どうせ近所なんだし、部活で来るんだし」
「あ、部室!部室、見たいんです」
「いーけど、今日は休みだヨ。多分誰もいねーんじゃねーかなァ」
「設備見たいだけなんで、それでいいです」

そ。と言った荒北さんはリュックのジッパーを閉じて立ち上がる。それを見て私も慌てて立ち上がって後を追った。校内はかなり広いけれど、私は一発で部室の場所を覚えられるだろうか。

「あの、荒北先輩。地図とか無いんですか?学校の」
「ア?あー……確か、入学ン時に配られる学生便覧には書いてあっけどォ……。ああ、確か看板があったな」

ペースを変えず建物が作る日陰を縫って移動すると、その途中で大きな看板が立っていた。掲げられた鉄の板にはシンプルな図が書かれていて、たくさんの多角形にはそれぞれアルファベットが割り振ってあり、図の横にそれと対応した文字が並べられている。共通教育棟、教育学部エリア、法学部エリア、理学部エリア……箱根学園も相当広い学校だったが、大学は桁違いだ。とはいえこの洋南大学は上富士キャンパスで概ね完結していて、沼津にあるもう一つのキャンパスは院生や教授たちが使う研究棟が主になっている。いろんなところにキャンパスを点在させる大学は合併させると多分ここよりずっと大きいのだろう。

「今俺らが居るのがここで、サークル棟はここ。一年がよく使うのは自分のとこらへん……経済学部ならこの辺と、パンキョー棟。パンキョー棟には教務があっから、なんかあったらここ行きゃなんとかなる」
「広いですね。経済学部のエリアからサークル棟がちょっと遠い……」
「見てりゃ分かンだろうけどどいつもこいつも移動は基本的にチャリだ。持ってるやつは車とか、バイクとか」

荒北先輩が看板を指差しながら説明する。確かに今は構内に人が少ないからそれそのもの自体は少ないが、どの建物の近くにも駐輪場がある。ちらほら停まっているのはカゴのついたママチャリばかりで、クロスバイクなどが停まっている様子はない。やはり高価な自転車は盗難の可能性があるのだろうか。

「荒北先輩は、いつものビアンキを?」
「そういう日もあっけどォ、基本チャリはさっさと鍵かかる部室に置いて移動は歩きだな。ホレ、工学部はいい位置にあんだろ」
「いや!ほんまや。はー、ずっこいですねえ!」

荒北先輩がさした部分をなぞった指を離すと、指に塵が付着して黒くなってしまっていた。それを適当に払って、次に来た時迷わないようにと看板を撮影した。



スマートフォンを操作して昨年夏の写真まで遡る。強い日差しを反射して所々が見えなくなっているけれど、冊子に書かれている構内図とほとんど同じだ。経済学部、学生課、理学部。少し握ってしまったからかシワの寄った紙を指でなぞる。
気がついたら式典が始まっていて、全く知らない校歌が流れるのをぼんやりと聞く。在校生が居るわけでもないので誰一人として親しみのない歌を聞かされる理由って一体何なのだろうか。大学は全校集会なんてものは無いらしいから、この曲を次聞くのは恐らく卒業式なのだろう。

「そびえる富士ってさ、山梨の大学の校歌にも入ってんのかな」
「確かに」

校歌が終わって座らされたものの、学長が喋っているマイクがひどく調子が悪いらしい。果たして話の合間にノイズが走っているのか、ノイズの間に話がされているのか分かったものではない。聞き苦しい話をどうにか聞き流して、周りの人の邪魔にならないようにヒソヒソと話す。

「これいつまで続くんだっけ。これで終わり?」
「うん」

つまらなさそうに目を閉じていたユキはいつの間にかひっそりと寝息を立てはじめていた。よくもまあ、耳障りなノイズを聞いてなお一瞬で寝息を立てられるものだ。学長の話が終盤の雰囲気を醸し出した頃に肩を揺さぶればすぐにその目を開けて「寝てねえよ」と言った。あからさまな嘘だ。

司会を務めていた教員の閉会宣言を皮切りに室内が騒々しくなる。とにかく人の流れに乗って市民ホールを出ると、太陽の光が目を焼いた。きっちりと締めていたネクタイを緩めてジャケットを脱ぐ。春の正午は暖かく、ジャケットは脱いだくらいがちょうどいい。三人で聞いたか聞いてないか曖昧な学長の話を反芻しつつ、大きな階段を降りると、降りた先ではたくさんの人が各々話したり、写真を撮ったりと忙しそうだ。さらに下ると開けた駐車場があって、そこへ向かう人も多いのだろう。

「手嶋」
「名字、黒田ァ」

人々の喧騒に紛れて、名前を呼ばれた気がした。一瞬気のせいかと思ったが、その声に振り返った黒田と手嶋が素っ頓狂な声を上げたのを聞いて気のせいではないと知る。

「金城さん!!」
「荒北さん!」「荒北先輩」

片方の声には心当たりがあったのだ。その心当たりはドンピシャだったようで、私たちよりも一年先に同じ大学に入学した先輩がそこに立っていた。




/

back / top
ALICE+