25
手を招いた私を見て手嶋くんは素直に何かを注文して私の隣に座る。私はその間に名刺の類を全て片付けて、シナモンロールを1口頬張った。名刺の整理も終わりが見えていたから、残りくらいは明日の私もやる気になるだろう。
「偶然やね。……ん?手嶋くん、お酒飲んだ?」
彼のトレーにはアイスカフェオレが乗っていた。適当な挨拶とともに足元へ鞄を置いた手嶋くんに開口一番そう声をかけた。我ながらどうかと思うが、少し気になったのだ。移り香よりも濃いアルコールの香りが。
「いやー、先輩のウーロンハイと俺のウーロン茶取り違えちゃって。一杯だけ」
「やから手嶋くんにこにこしてんねや。酔っとるやろ」
「そーかも」
やけに呂律の甘い受け答えに、私も思わず苦く笑う。未成年飲酒はれっきとした犯罪で、一緒に飲んでいた先輩含めきちんと怒られるべきではあるのだが、事故であるというのならば友人としてはどうしても笑って流してしまう。ユキと一緒じゃない辺り、先輩たちもまずいと思って彼だけ先に帰したのだろう。だとするなら誰か付き添いを一人あてがってやれよと思わなくもないが、軽く酔っているだけだからさして問題は無いと判断されたのだろう。確かに、彼は今呂律は甘いもののしっかり歩いていたし、意識もはっきりしていそうだ。
「名字ちゃん、その服似合ってるなー。いいとこのお嬢様って感じ」
カフェオレに刺さったストローを甘く噛みながら少しずつその嵩を減らしながら彼ははっきりと私の顔を見て言う。少しずつ分かってきたのだが、彼は人を褒めるということに関して何かしらの抵抗みたいなものが少ないらしい。なるべく人と軋轢を生まないように言葉を選ぶし、人を褒めて物事を円滑に進めるような、そういった生き方をしている。シキバくんも衒いなく人を褒めちぎるが、あんまりにも直球なそれとは少しだけ違った人間らしい側面であり、彼の良いところのひとつだ。
「ありがと。あんまこういう服着てるとこ友達に見せへんからちょっと恥ずいわ」
「そうなんだ。じゃあ今日の俺はラッキーってわけだ。酒飲んで良かったかも」
「こらこら」
いつもと違ってとろんとした瞳で言われたものだから、少しばかり居心地が悪い。多分彼はいつものように言っているつもりなのだろうし普通に褒めているだけなのだろうけれど、そういった様子が逆に、見てはいけないものを見てしまっているような気分にさせられる。私は何かを誤魔化すように温くなったコーヒーを啜る。手嶋くんはやはり緩い笑顔のまま、コップに積まれた氷を溶かすようにしてストローで弧を描いていた。
「飲み会どうやった?」
とにかく話題を変えようと彼の話へ切り替える。今日参加した一年は大会選抜にも参加した一年だ。おそらく、次の大会の話なんかも出たのだろう。
「ああ、うーん。早々に四年の先輩が出来上がっちゃって。ほら、卒論のサマリーがどうとかで徹夜みたいな話してただろ?そのせいでアルコールが早く回ってんじゃないかな……。なんかもう、本当に漫画で見たような宴状態でさ」
大会について何か聞けるだろうと思っていたので、それとはまるで違う話をしながら遠い目をする手嶋くんに同情した。カフェオレでかなり酔いからさめてきたらしい手嶋くんはため息をつきながら記憶を辿っている。騒がしい空気が好きな手嶋くんらしくないような気もするが、それだけの惨状が広がっていたのだろうか。もしかしたら私は参加しないことで助かっていたのかもしれない。
「まあ、四年の相手は三年の人たちがしてくれたから俺らは案外ゆっくりしてたんだけどさ。金城さん達も居たし」
「そっか、そうやんな。荒北先輩にいじめられへんかった?」
「やー、とんでもない。黒田の面白い話たくさん聞かせて貰ったよ」
めちゃくちゃ荒北さんを敵視してたこととか。と言って手嶋くんはまたカフェオレを口にする。ずいぶんと嵩が減って、氷が露出してきている。アルコールの摂取で喉が渇いていたのだろう。
私も一年の頃の黒田の話は荒北先輩や東堂さんからよく聞かされたものだ。その度にユキは恥ずかしそうに話を遮ろうとする。特に入部早々荒北先輩に掴みかかったことなんていうのは本人からしてみると反省どころの話ではないらしく、その話が出るたびに何か言い放ってその場から離れたり、彼らしくもなく大声でかき消そうとしたりしていた。多分、その飲み会の場でもユキはしばらく居心地が悪かったことだろう。
もし光ちゃんが私の知らない間に福富先輩や新開先輩に私の黒歴史を喋っていたら……と想像し、身震いして一旦思考を止めた。考えてもいい気持ちにならないのは明白だからだ。
「名字ちゃんは?……て言っても、喋れないことの方が多いか。お仕事だもんなあ」
「そんなことないで。……あ!そういえばあの人と名刺交換したわ。今泉父」
手嶋くんは元総北だということをうっかり失念していたが、彼は今泉俊輔とは同じ部活のチームメイトだったのだ。チームのキャプテンとして率いていたから、エースのことはよく知っているだろう。思った通り、私の言葉に彼は目を丸くした。
「今泉って、今泉?マジか。確かにアイツの家すげえ金持ちだったような……」
「そのイマイズミクンのことめっちゃ聞かせてもろたわ。最近はなんか急に性格が丸くなってきてるとか、学年上がって一層自転車頑張ってるとか。まあ正直、そんな話されても私イマイズミクンのことよお知らんねんけどな」
シナモンロールを切り崩す。手嶋くんは「はあ」とか「へえ」とか間の抜けた声をあげて相槌としていたが、やはり大切な後輩だったのだろう。何か懐かしむような、優しい目をしていた。残りわずかになったシナモンロールは力なく倒れ、早く食ってくれと言わんばかりだ。しかしそれは何だか名残惜しくて、持っている小さいフォークを一旦置くことにした。
「今泉、三年として頑張ってんだろうな。ほら、アイツってすごい奴だから、俺みたいなやつの気持ちなんか考えたこともねーって感じで時々結構無神経なんだけど……小野田とか鳴子がうまくフォローしあったりして。新しい一年どんなやつが入ったんだろ。上手くやれてっかなー」
窓ガラス越しに彼はどこを見るでもなく言葉を紡ぐ。この時間になると段々と外を歩く人もまばらになっていき、お店の灯りも少なくなっていく。駅前だから真っ暗になることは無いが、それでもいつもよりも静寂に包まれたその場所は、日常から切り離されて思えた。
思えば、インターハイのあの日は非日常だった。知らない土地で、目に刺さるような日差しを浴びて、逐一聞かされる情報を手に汗握って待ったあの三日間。一年に一度の大きなあの大会は今となっては過去のものだが、あの日味わった敗北の苦さを忘れることはきっと無い。
「手嶋くんも凄いんちゃうん」
その苦さがまだ新鮮な故に、勝利をもぎ取って尚自分を卑下する手嶋くんが不思議で堪らなかった。確かに手嶋くんの走りは普通かもしれないが、それでもチームを優勝に導いたキャプテンだ。彼の走りはどこか、人を奮い立たせることの出来る熱量が確実にあった。私もそれは一年生レースの時に身を以て感じたのだ。しかし、彼だけは彼の凄さを知らない。彼の凄さは走りではなく、その「熱量」にあるというのに、彼だけはその恩恵に与ることは叶わない。まるで背中の張り紙のように、その存在に気がつかない。
そうでなくとも、優勝したのだから自分の力量を見誤ったっていいはずなのに。彼が策略家である所以だろう冷静な一面は時に残酷なのかもしれない。
「俺は平凡だよ。名字ちゃんもわかると思うけど……。インハイは、心強いチームメンバーが支えてくれて獲れた優勝だった。キャプテンが何言ってんだって感じだけど。チームメンバーだけじゃなくて、一緒に走った奴らもさ。あ、勿論俺も死ぬ気で走ったけど!」
手持ち無沙汰にストローをこねくり回しながら矢継ぎ早に言う。多分、この何ヶ月で言われ慣れているのだろう。手嶋くんの手の中で好き勝手に弄られたストローは折れ跡だらけになっていた。
「手嶋くん、凄いな。私、自分のこと平凡って言えへんよ。怖いもん」
「え?」
最後のシナモンロールを食べて、少なくなったコーヒーを流し込む。遠くを見せていた窓ガラスは光の加減で私たちを反射していて、思わず私は目をそらした。空になった小さな皿が私の退店を促している。
ペーパータオルで指先を軽く拭いて、横目で手嶋くんを見る。彼は戸惑った表情を浮かべていた。手元のカフェオレはまだ少し残っているようだ。
「自分はなんも出来ひんアカンやつやって落ち込むのも、自分は凄いんかもしれんって自信持つのも簡単やと思うねん。その先に自己憐憫なり、過剰な自信なり、何か自分を救う言い訳があるやろ。アカンやつやから何も出来ひんとか、凄いやつやからどいつもこいつも嫉妬しとんのやとか、論理を反転して自分を助けられる。でも平凡やって認めても何も無いやんか。恵まれてへんわけでもないけど、特別恵まれてるわけでもないって……なんちゅーか、拠り所が無いやん」
中身のないカップを持ち上げる。少しだけ残ったコーヒーがカップの底に円を描いている。そこに何かがあるわけでもないが、なんとなくぼんやりその円を眺めてしまっていた。中身が無くなって少し冷えた陶器が指先の熱を少しだけ奪う。
「でも名字ちゃんはほら、仕事して、色々……スゲーことやってんじゃん。それこそ、非凡だろ」
「今はな。でも年を重ねれば重ねるほど、私は埋もってく。所詮時分の花ってことで、まことの花って言えるほど私の仕事は非凡なもんでもない。私なぁ、普通になるんがむちゃくちゃ怖いねん」
手嶋くんはそれを聞いて閉口したらしい。店内の名も知らぬBGMが穏やかに流れ、この空間の冷たさをより際立たせていた。
「やから手嶋くんは凄いで。ほんまに凄い!私、手嶋くんがどんだけ自分を凄ないって言っても凄いって言い続けると思う!ごちそうさまでした!」
有無を言わさず次々と言って、私はトレーとカバンを持って席を立つ。返却口は確か、レジの真横にあったはずだ。手嶋くんの飲み物はまだあるはずだから、きっと彼は追って来れないだろうと思ってのことだ。居づらいからってその場を離れようとするなんて、やられた側としてはたまったものじゃないのは百も承知で、明日から少しの間手嶋くんとは話しづらくなってしまうかもしれないと暗い気持ちが足に絡みつく。
「ほなまた月曜な!」
「あ、ちょっ……!!」
素早く踵を返して、走らないまでも早足に歩く。背中で椅子か何かが大きく動く音が聞こえて、その足をより早めた。いつもより少し乱暴になりながらも、シンクで洗い物をしていた従業員に感謝を伝えて店の扉をくぐる。足を緩めず駅のロータリーを抜ける。やはり彼は追って来なかったか、と一息ついて、肩に掛けたカバンを掛け直しつつバイクを預けている駐車場へといつものペースで向かうことにした。
「名字ちゃん!」
駐車場の心もとない街灯の下、名前のわからない虫がその光の下で羽を休めていた。声が先で、手が後だったから、私はその手を振り解かずに済んだ。急いで彼の前から去ろうとした手前合わせる顔が無く振り返らずにいる私に、手嶋くんは何も言わずにいた。呼び止めるために掴まれた手も、私が逃げないだろうと分かったのかすぐに離される。
「俺酔ってるから!今!」
「だはっ……ええ?何やの?くふ…はは」
散々溜めて、言うに事欠いてそれかと思わず吹き出す。肩を震わせている私に、手嶋くんは拗ねたような声をあげたが、笑いが止まることは無い。多分、酔ってるから今の会話は明日には忘れているという建前を彼は作ってくれたのだろう。彼の優しさで、思わず出た笑いも丸みを帯びる。私はきっとそこまで単純ではないけれど、今日のところはそれで納得しようと思えた。
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