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正直、手嶋くんにどんな顔をして会えばいいのか分からない。平凡という言葉に、自分の深く柔らかいところをチクチクと刺激されたのは事実だが、だからといってあんな自虐のような物言いは要らぬ心配をかけるだけで、するべきではなかった。いくら手嶋くんが無かったことにしようとしてもあの出来事は無かったことにはならない。彼の善意に答えられない私を意地っ張りと人は言うだろうか。
あの日、二人で笑ってからそのまま別々に帰宅した。手嶋くんはほとんど酔いは醒めているとはいえ飲酒しているため自転車で帰ることも出来ずに歩いて帰ると言うから、私のバイクの後ろに乗せようと思ったが、バイクにはきちんとしたベルトは無い。酔いが少しでも残る人間を後ろに乗せるのは私としても危険だと判断して、結局その場でさようならをしたのだ。

何かをやり遂げる時、やり遂げた人間が若ければ若いほど付加価値がある。その付加価値は年齢を重ねれば重ねるほど薄くなり、いずれ剥がれ落ちるメッキのようなものだ。事実、私が大学に上がると同時に学生起業家などと同じラインに立つことになる。今は短いその横に伸びたスタートラインもいずれただの社会人となり、今よりもグンと伸びることだろう。私は有象無象になるのだろうか?
アイデンティティを年齢や、それに準ずる属性に依ることは全くもって不健全だ。そのアイデンティティは喪失が約束されているし、その度にどうしようもない焦燥感に苛まれることになる。誰もそれを止められない。いずれ、それ以外のもので自己を確立しなければ。誰しもそれらを求め、掴もうと生きている。

憂鬱な気持ちで漫然と授業を受けていると、いつの間にか今日の授業が終了していた。いつもなら軽い足取りで向かう部室も、今日は気分が乗らない。重い足を引きずってどうにかたどり着くものの、閉ざされた扉がひどく堅牢なものに見えた。

「何やってんだよ」

背後から声をかけてきたのはユキだった。振り返るとその隣には手嶋くんもいて、扉がいくら重かろうとその前で出会ってしまえば意味がないではないかと嘆息した。かといって彼らにそんな重い心持ちを露呈するわけにもいかず、つとめて明るく、いつものような笑顔を向ける。

「ごめん、ぼーっとしてた。おはよう二人とも」

特にこの間、それまでの会話を無かったことにしてくれた手嶋くんの気遣いを無駄にするようなことはしたくない。手嶋くんもそれが分かっているのか、はたまた本当に気にしていないのか、いつものような人好きのする笑みを浮かべていた。

「おはよう名字ちゃん。開けてやるよ、レディーファーストだ」
「こりゃドーモ」

重く見えていた扉は手嶋くんの手で軽々開けられる。もちろん開ける前にノックをしていて、中には誰もいなさそうだ。

「あっ」

離れに存在する更衣室とは別に用意されている部室内のロッカーを見ると大きなカバンが丁寧にロッカーの上に上げられていて、金城先輩に心の中で感謝を告げているとユキが急に素っ頓狂な声をあげた。ユキらしくない声に私も手嶋くんも目を丸くしていると、ユキは自分のロッカーを力なく閉じた。

「大会のエントリーの紙、俺家に置きっぱだ……。わり、一旦取りに帰るから先輩に言っといて」
「おー……」

ユキはそう言い残して瞬く間に部室から消えてしまった。大会エントリーシートはチームで一枚提出するものだが、データ提出の大会を除いて参加意思の確認も含めてそれぞれが自署する部内ルールが設定されていた。おそらく先日、先輩に頭を下げ倒した私が居なくなってから部室に顔を出したユキは先輩からエントリーシートを受け取り、そのまま家に持ち帰ったのだろう。

「……提出、月末ちゃうかった?そんな急がんでよくない?」
「早めに運営に提出したいんだってさ」

知らぬ間に主将か誰かのお達しがあったらしい。それでは流石のユキも取り乱すという訳だ。
荷物を置いて更衣室で着替えてから再び部室へ戻ると先輩たちもまばらに集い始めていた。先に着替え終わっていた手嶋くんがユキのことを話しておいたのか、彼がいないことに関して誰にも聞かれることは無かった。

「名字ちゃん、あの」
「あ、名字。ちょっと」

私が部室に戻ってきたと気がついた中迫先輩と手嶋くんが私を呼ぶ。どちらに反応すればいいのかと二人の顔を交互に見ると、手嶋くんが中迫先輩の方に譲るようなジェスチャーをした。
中迫先輩の話は今日の部活に関する連絡事項で、さわりを聞くにどうやら長くなりそうだ。話の最中でちらりと手嶋くんを見れば、ばっちりと目が合って、すぐにわざとらしく肩をすくめてみせた。大した用件ではなかったのだろうか。

「スァセン黒田遅れました入りァす!!」

行きも帰りも飛ばしたのだろうか。汗だくのユキが雪崩れ込むように部室へ入ってきたのを皮切りに、部活はスタートした。



見学希望者を交えた部活はいつもよりも早く切り上げられた。今日の私はどちらかといえば選手のケアよりもこれからの部活運営について主将と打ち合わせをしたり、見学者に説明をしてみたり、大会へ出場申請をしたりと事務方だったように思う。そのためか若干消化不良で、つい「やりたいことがまだ残っているから」と嘘をついて誰もいない部室でぼんやりと外を眺めて感傷に浸っていた。
机の上には誰のか分からないペンケースが雑に放置されている。ペンケースの中身なんて、見られて恥ずかしいものは入っていないだろうと半透明の箱を開けると、多機能ボールペンとマーカーが数本、消しゴムがひとつと替え芯、それから真っ黒のUSBメモリが雑然と入っていた。この中身だけでは誰のものか一切分からない。大抵の大学生は得てして同じようなペンケースで、同じような中身だからだ。
さて、いくら大学とはいえ部屋の施錠時間も決まっているのでいつまでもこうしてはいられない。窓を少し開けて見える外はとっぷりと日が暮れている。もう夕飯時を少し過ぎたあたりで、お腹も減ってきたので帰ろうかと席を立とうとしたその時、ドアが開く音が飛び込んできた。

「うわっ!?……って、名字ちゃん!」

誰もいないと踏んで特に何も思わず開けた扉の先に人がいれば人はそれなりに驚く。ドアから姿を現した手嶋くんも例外ではなく、大げさに体を反らせて驚いていた。

「どうしたん手嶋くん。忘れもん?」
「あ、ああ……うん。USB入れたペンケースが見当たらなくて。見なかった?」

そう言いながら一直線に自分のロッカーに手を伸ばした手嶋くんはすごく身軽な格好をしていて、一旦家に帰ってから忘れ物に気がついて戻ってきたのだろうと予想出来た。
手嶋くんと二人きりになるのは少しだけ気まずい。部活中忘れていた一昨日の夜が、月の光が入り込む部室のせいでより鮮明に想起させる。

「どんなペンケース?」

おそらく先ほど開けて遊んだペンケースが手嶋くんのものだろうとわかっていながら、何故か会話を長引かせてしまった。あの日の記憶を今日の記憶で覆い隠そうとしていたのかもしれない。逆に長引かせれば長引かせるほど居心地は悪くなっていくだろうに。

「これくらいの、白くて半透明な……あ!それそれ」

大きさを手で示した手嶋くんがこちらを振り返り、示した両手の親指と人差指の間から私を見る。正確に言えば、私の傍に置いてあるペンケースを捉えたようだった。画家が構図を決める時のようなそのポーズにおかしくなって笑った私に、手嶋くんも同じようにひっそりと笑いながらペンケースを回収する。先ほど私が両手で開けたペンケースは手嶋くんの手の中では少し小さく見えた。

「私が隠しちゃってた。ごめんネ」

安っぽいパイプデスクに上半身を転がす私を手嶋くんがペンケース越しに見下ろす。部室の蛍光灯を一部つけていなかったため、室内は薄暗い。そのせいで月の光の主張が激しかったのだ。
その光で顔を照らされた手嶋くんは私の言葉に目を細めて穏やかに笑う。その顔はいつか食堂で見せたような笑みとよく似ていた。

「いいよ。ていうか名字ちゃん、こんな時間まで何してたんだよ。外もう真っ暗だぜ」
「なんかまだ帰る気にならへんくって」

テーブルに髪が広がる。部活中はひとつにまとめていたから、少しだけ跡が残ってうねっていた。ひと束掬って毛先を眺める。自分なりにケアをしているはずなのだが、少しだけ傷んで、毛先が二股に分かれていた。

「一人暮らしって結構寂しいもんなあ」

納得したように頷かれて私はその意味を少し考える。確かに、帰っても電気が付いていない家に一人虚しく「ただいま」という生活は時折空虚に感じる。まだ越してから少ししか経っていないのもあってその違和感はより強く感じているのかもしれない。
名前も知りたての複数人に向かって色々と説明するのは、案外誰もいない家にただいまを言うのと似ている。特に互いのことをあまり知らない状態だと目立った反応は無いし、発言が返ってくることも少ない。私が感じていた物足りなさは、もう少し誰かと関わりたかったという心理だったのだろうか。家に帰ってしまうと、家事と仕事をこなして寝るだけになると分かっているから。
手嶋くんはそれを即座に察したのか?それとも当てずっぽう?彼の顔からその真理は見つけられない。

「流石にそろそろ帰ろと思っててん。けど手嶋くん来てくれたし、スッキリ帰れるわ」

芯を食わない私の返しに手嶋くんは少し首を傾げて、椅子から立ち上がってドアをくぐろうとする私を目で追った。その後直ぐに続いて扉を潜る。
丁度施錠担当だろう管理人がじゃらついたキーホルダーを手に隣の部室を施錠していた。私達は管理人に軽い挨拶をして部活棟を出る。研究棟は別のキャンパスにあるからか延長申請をした教室は少ないらしく、帰り道は思っていたよりも暗い。街灯があるから歩けない程ではないが、1人で歩くには心細かっただろう。
暗い校舎を物珍しそうに眺めながら隣を歩く彼の顔を盗み見る。今日私が部室に残って、加えて彼がペンケースを忘れる。1人だと心細い帰り道を2人で歩く事になる。なんだか出来すぎていて、何か大きな力によって動かされているのではないかとすら思う。

「名字ちゃんもう飯食った?」

不意に手嶋くんが振り向くものだから、私は思わず目を逸らして今まで別のところを見ていた風を装った。流石に、勝手に人の顔をジロジロ見ていましたと知られたら失礼な気がしたのだ。幸い手嶋くんは特に違和感を持つことは無かったようで、内心焦る私の顔を何でもなさそうに眺めている。

「まだやで。手嶋くんは?」
「俺もまだ!な、ピザ食いに行かね?最近この辺にグラッチェあるの知ったんだよね」
「マジ?ウチそれ知らん!ええやん、天才!」





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