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カーテンの隙間から漏れる光で目をさます。スマートフォンを確認すると、起きるべき時間のちょうど五分前だ。セットしていた目覚ましを先んじて止めて、ベッドからカーテンを開けて大きく伸びをする。春真っ盛り、天気もいい。今日は暑くなりそうだ。



水族館までは結局電車で行くことになった。手嶋くんの家と最寄り駅のちょうど間に私の家があるので、適当な時間に家の前に手嶋くんが来てくれるらしかった。お互い適当にお昼ご飯を食べてからの時間が理想だったので、お昼過ぎには駅に居るくらいのペースで予定が組まれている。
予定を組んでレジャーなんて久しぶりだ。
マンションの出入り口を潜り空を見上げると雲ひとつない快晴で、ケーブルニットのカーディガンを着ていて少し暑い。もう少し時間が過ぎると上着がいらなくなるくらいには暑くなるはずだ。水族館の中はきっと涼しいから上着は必要なのだろうが。
中に着たブラウスは春っぽく七分袖で、上着を着ていたら分からないが肩から袖まで透け感のあるレース素材で少し涼しげになっている。ふんわりした上半身を引き締めるようにボトムは黒のスキニーで、ヒールはあるが歩きやすいローファーパンプスを合わせてかっこよさを出した。手嶋くんはスポーティな服装をしていることが多かったので、それに合わせるような形だ。彼は自転車をやっている割に骨格が華奢なのか、今流行しているようなコーディネートは何を着ても一定以上サマになる。自転車部の人間はタイプは違えど皆スタイルが良いのはスポーツの成せる技か。

「あ、お待たせ。家の中で待っててくれてよかったのに」

自分の服の袖を見たり靴の先を眺めたりしていると、のんびりとした様子で手嶋くんが現れる。カットソーにブルゾン、スキニーと黒でまとめあげ、小さいバッグとスニーカーだけが白い。私も上着と靴以外は黒いため、セットでコーディネートしたように見えなくもない。
手嶋くんの顔を見るとやはりあの夜のことを思い出す。手嶋くんは軽く酔っていたし、私だって多少疲れて思考力が落ちていた。夜を越えるたびに言い訳は募るが、ほとぼりが冷めた後に改めて謝れていないということが自分の中ではしこりになっているらしい。自分のことながら律儀なものだとは思うし友人には誠実でいたいと思う自分の気持ちは少し面倒だが、案外嫌いではない。

「風が気持ちよかったから」
「ああ……うん、確かに。いい天気だなー、今日は」

二人で空を眺める。住宅の屋根で切り取られた空には片手で数えられる程度にしか雲が浮いていない。抜けるような空色と暖かい空気に目を細めて顔を見合わせた。
爽やかな陽気に、私の心中だけが薄く影を落としていた。

「行こっか」

手嶋くんが歩き出したのを追うようにして横へ並んで歩く。ユキが確か自身の身長を175cmくらいだと言っていて、ユキと手嶋くんが並んだ時には手嶋くんがほんの少し低かった気がするから、おそらく170cmと少しだろう。ヒールのある靴を履いた私と並ぶと、私の目線のあたりが手嶋くんの首元あたりになる。軽く彼を見上げて話すと、丁度晴天な空も目に入って少し眩しい。

「せや、調べてんけど沼津駅の近くに有名な喫茶店があるんやって。知ってる?」

私の言葉を聞いた手嶋くんが目線を少しこちらに向けて口を開こうとすると、ちょうど太陽光を彼が遮って顔に影が落ちて、瞳孔が光を取り入れるべく少しだけ開いて表情を削る。多分、反対に私の瞳は小さくなっていることだろう。細めた目にかかるまつげが光を反射して視界をぼやけさせた。

「そこ、俺も調べた時に見たかも。デザートが桶で流れてくるところ?」
「あ!そこそこ!時間あったら行ってみたいねんけど、どうかな」
「うん、俺も行ってみたい」

太いヒールがアスファルトを蹴る音は住宅街では少しだけ響いて聞こえる。それが何となく居心地悪くてつま先から着地してみると、音は小さくなったが早々に足が悲鳴をあげそうだ。早く駅にたどり着きたい。今日のレジャーは楽しみなはずなのに、心配事があるだけで色々なことに敏感になってしまう。せっかく、初めて手嶋くんと二人で遊びに出かけるというのに。

「名字ちゃん、上着暑くない?」

歩くうちに暑くなった手嶋くんがブルゾンを脱いで空を見上げてから私に問いかけた。いつ謝ろうかとタイミングを見計らって、結局言葉を出せずにいた私を慮ってくれたのかもしれない。

「暑いかも」

確かに歩いているうちにうっすら汗ばんできてしまっていたので、手嶋くんにならって私も上着を脱ぐ。バッグは上着が入るほどの大きさをしていないので、腕に引っ掛けるかたちでおさめることにした。

「あ、袖シースルーだ。可愛い」

露出した袖を見て手嶋くんがにっこりと笑う。あんまりにもストレートに褒められたので、思わず私も少し言葉に詰まってしまった。彼は衒いなくこういうことを言えてしまうたちなのだろうと分かっているはずなのだが。きっと今、私が彼に対して臆病だから、つい驚いてしまったのだ。

「ありがと」

変な間に手嶋くんも少し首を傾げていたが、私の返事を聞いて一層目を細めて微笑んだ。太陽を背負っている彼の顔には影が落ちているのにひどく明るい表情でいるものだから、その明るさがより際立って感じた。



電車の中ではなんてことない話ばかりした。高校の部活での合宿で起きたしょうもない話や、今年行われる合宿への緊張、大会への心持ち、エトセトラ。
休日の半端な午前中の電車は空いていて、区間によっては殆ど貸切状態だった。がらんとした電車の中で二人肩が触れるくらいの距離で話し合うなんていうのは見方によっては滑稽なのかもしれないが、私はそんな空間が案外嫌いではないらしい。短いわけでもない道中が途轍もなくすぐ過ぎてしまったからだ。手嶋くんの話のテンポは心地が良く、ずっと前から友達だったかとよく思う。心地よいテンポに乗せられ、あの夜の謝罪を忘れてしまっていたと気がついたのは駅に着いてからだった。

「着いた〜!!」

改札を抜けて再び太陽のもとへ出ると、やはり一時間座りっぱなしは堪えたのか二人とも自然に体を伸ばしていた。駅前は思っていたよりも整備されていて、反対側の出口の先には商業施設も多くあるらしく、そこそこ栄えているようだった。

大きな道に沿って歩いて行けば沼津港に着くらしい。マップを見るまでもなさそうなルートなため、二人ともスマートフォンをカバンにしまってちゃんと周りを見渡しながら道を歩くことができそうだ。

「あ、名字ちゃん。後ろ見て」

あたりをキョロキョロ見回しながら歩いていると、手嶋くんが声を弾ませ私の肩を軽く叩く。それに反応して振り向けば、低めの建物や電柱に切り取られながら富士山が堂々と鎮座していた。

「富士山や!!」

越してきてからというもの、麓にいるからか逆に見えづらかった富士山も電車で50分ほどのこの地ではテレビで見るような姿をしていた。

「山からこんだけ離れてもでっかいな〜。どこまでなら見れるんだろ」
「京都からは見えへんかったなあ、富士山」
「京都まで行かずとも、神奈川からも見えなかっただろ」

駅前の案内看板と軽く見ながら二人で笑う。先にリサーチした通り、大きな道路をまっすぐ行けば目的地周辺に着きそうだ。



「あれ、並んでる」
「水族館って並ぶモンやっけ?」

春の陽気に体をほぐされながら目的地である深海水族館に到着すると、予想外の行列が出来上がっていた。立地的にもさほど大きい水族館ではないと分かってはいたのだが、行列ができるということは、入場制限をしているのだろうか。

「50分待ちです」

行列の整理をしていたスタッフの人に会釈して待ち時間を聞くと、向こうも慣れているのかすぐに待ち時間を教えてくれる。

「ごじゅっ……どうする?」
「並ぼうや、せっかくやし」

いい時間が取れた、と内心ほくそ笑む。ぼんやり待っている時間は話題がたくさん必要だから、その最中でこの間の謝罪が出来ると踏んだからだ。行列の横を過ぎて一番後ろにつくと、二人同時に一息ついた。

「結構歩いたやんな」

時計を見れば、もう40分近く歩いたことになる。距離で言えば3kmほどになるだろうか。普段から自転車で長い距離を走ったり、それを計測したりしているものだから距離感覚が徒歩にあっていないような気もする。来る道でも沼津港に近付くにつれて歩いている人はまばらになり、車道を見ればタクシーがよく走っていた。

「だよなー、タクシー使えばよかったかも。足つらい?」

ヒールのある私の足元をちらりと見て、気遣わしげに顔を覗き込まれる。私が壁にもたれかかっていることも心配する要因になっているのかもしれない。ただ怠惰なだけなのだが。

「んーん、大丈夫。歩きやすいやつやねん」

壁から背を離してソールを見せる。見せたところで何も伝わらないのは分かっているが、何となく体が動いたのだ。しかし急に片足を上げたからか、歩きやすい靴といえども多少疲れているのか、バランスを崩してしまった。先ほどまでもたれ掛かっていた壁にぶつかるだけか、と特に受け身を取ることなく重力に身を任せていると、手を取られた。もちろん、目の前にいる手嶋くんにだ。

「大丈夫じゃなくねえ?」

取られた手が手嶋くんに引き寄せられて、倒れる前の体勢に戻る。上げていた片足はしっかり地について、今度ふらつくことはなさそうだ。

「大丈夫やもん」

取られた手は私がしっかり立ったことを確認してから自然に離され、私は乱れた髪を手ぐしで直す。人に手を引かれたのはいつぶりだったろうか。多分、引っ越す前に光ちゃん……石垣先輩と人のひしめく四条烏丸に遊びに行った時以来だ。

「あのさあ」

取られた手をじっと見て口を開く。彼の瞳をしっかりと見据えると、彼は小首を傾げて私の次の言葉を待った。

「この間……えっと、新歓あった時。急に逃げたりしてほんまにごめん」

ここでしっかり頭をさげると、きっと周りから変な人たちだと思われてしまうから、控えめに頭を下げた。私の視界には彼の靴が見える。少し傷がいっているが、大切に扱われているのだろうと推測出来る。その足が動くこともないまま、彼は沈黙を守っている。彼がどんな反応しているのか少し怖くて、下げた頭を上げられずにいる。

「いいよ」

彼が発した一言でようやく頭をあげる。彼の顔はこれ以上無いくらいいつも通りで、私の心の澱がゆっくりと流れ出ていくようだ。驚きもしない彼の様子を考えると、もしかしたら私があの夜のことを気にしていると何となく分かっていたのかもしれない。

「……てのも変なんだけど。俺、あの時名字ちゃんのこと前よりも分かった気がして嬉しかったから」
「ええ?」

バツの悪そうにはにかんだ彼はそう言う。私がそれに何か返す前に列が動いて、慌てて前にいた人の背を追った。



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