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さすがに並んでいただけあって、水族館の中も人がひしめきあっていた。身動きがとれないほど多いわけではないが、それでも皆水槽に張り付くのだから、人の隙間を縫ってしか魚を見ることができなさそうだ。水族館は魚を見ることと、生体を解説したボードを見ること、それから世界観を楽しむことが出来る体験施設だ。魚は隙間からしか見れないまでも、岩肌を模した壁と水に囲まれるだけでも特別感がある。
見られていることを知ってか知らずか水槽の中を漂う魚たちは涼しげだ。フラッシュの設定を切ったスマートフォンのカメラを向けても、特に媚びることなく彼らは泳ぎ続けている。

「名字ちゃん」
「うん?」

私の後ろを歩く手嶋くんに呼び止められ振り返ると、彼はスマートフォンを構えていて、振り返った途端にシャッター音が鳴った。振り返った私の背後にはさっきまで私が撮影していた水槽がある。

「んー、うん。いい感じ」

画面を軽く確認した手嶋くんは満足そうに笑って、画面を私に向けた。気の抜けた顔をした私が背後から水槽に照らされていて、なんだか幻想的な雰囲気の写真に仕上がっている。手嶋くんといる時の私はこんな顔をしているのか。

「手嶋くん写真うまいなあ」
「モデルがいいんだよ」

調子のいいこと言って後でLINEで送るから、とスマートフォンがポケットへ仕舞われる。暗い屋内なのに、太陽の最中にいたはずのあの時よりも彼の表情が良く見える。水中を模した揺らぐライトでちらつく顔は至極楽しそうだ。写真を見なくても、私も同じ表情をしているのだろうということは何となく分かっていた。

「何なん?急に」
「手、繋いでもいい?」
「え?」

一拍。多分、秒数にしたら1秒にも満たないだろう間は、会話にとって、そして思考にとっては十分な間だ。
手を?どうして急に。彼は私に好意を抱いているのか?それじゃあ、今日一緒に出かけたのは、彼からすればより『仲良く』なるための一歩だったのだろうか。この手を私は取るべきなのか?もう友人と呼べるであろう距離感の彼と恋愛することは果たして━━

「ほら、足元暗いから。またバランス崩したら今度こそ転んじゃうだろ」

なんてことないその返しに私はなぜだか肩透かしを食らったような気になっていた。傲慢な話だ。勝手に彼が自分に好意を抱いているのではないだろうかと邪推するだなんて。彼は私を気遣っていただけだというのに。

「あ、ああ。うん。ありがとう、じゃあ」

差し出された彼の手に自分の手を乗せる。すぐに私の手は彼の指で包まれて、二人の体温が合わさっていく。彼の身の振りひとつ、反対に私の身の振りひとつが筋肉、皮膚を伝って彼へ、私へ共有される。なんだか背中がむず痒い。
ハシキンメの大きく虚ろな瞳が私を見透かしているような気がした。

「うわ、この魚目デケエ!後ろまで見えたりするのかな」
「うわほんま……えっ!?これ目の下光ってへん?目怖っ」



結局、水族館を回りきるまで手が離されることはなかった。館内は涼しく、上着を着た時には一度離したけれど羽織り終わったら自然に繋ぎ直されていた。何度か落ち着く繋ぎ方を探すように薄く離れたり握ったりして、ぴったりとその隙間を埋めた。
手を繋ぐなんてことは実際大したことなくて、ただ手を引き、引かれるだけの行為だ。なのに、手の隙間ひとつ、伝わる筋肉の振動ひとつに意味があるような気がしてならない。考えすぎだと今の私を俯瞰したもう一人の私が笑う。今日は彼の心の内を読めたらどれだけ楽だろうとよく考える。
初めて会った日に、私を安心させようと手嶋くんと青八木くんが手を握ってくれたことを思い出す。あの時はただただ暖かくて、私はそれに心を落ち着けたものだった。あれは多分、私自身に余裕がなくて、彼らとの親交も深くなかったから、逆にまっすぐに彼らの善意を受け取れていたのかもしれない。
今は彼との仲は深まり、知人から友人へと変わったのだろうと自分では思っている。彼との親交を切りたくないとも思っている。だからこそ、彼との関わり方に慎重になっているのかもしれない。もっと彼のことを知ればこの気持ちはだんだんと薄れていくのだろうという確信もある。
高校までの友人たちは一緒にいる時間が長い分、そんなことを思う暇もなかったのに。人との関係は繊細で、面倒だ。だから我々は言葉を話し、思考する。

展示を抜けてショップのコーナーに出ると自然と手が離されて色々な商品を手に取る。水族館らしいデフォルメされた生き物のぬいぐるみやキーホルダー、お土産の定番であるクッキー。

「ユキにお土産買ってったろ」

シーラカンスの形をしたクッキーの詰め合わせを手にとって、今日は不参加な男の顔を思い出す。きっと彼は今日のことを話しても興味なさげに切り上げようとするのだろう。

「じゃあ俺は青八木に何か買っていってやろうかな」

手嶋くんは手嶋くんで、メンダコのぬいぐるみを押したり引いたりして悩んでいるようだ。当然だが、私には私の、彼には彼の交友がある。ユキも青八木さんもお互いのネットワーク上で被ってはいるが、それでもやはり深さが段違いだ。友情に順位をつけるようなことは無粋の極みだからか誰もしようとしないが、差はあるのは確かだと誰もが知っている。

「そういえば青八木さん、元気?」
「あー、なんか超忙しいつってた」

隣り合ってシーラカンスのぬいぐるみを握ったり離したりする。ぬいぐるみの魅力はこのつい触ってしまう部分にあると思う。触っても冷たくないし、暖かくもない。ふわふわで、もちもちだ。

「青八木さんってちょーいそがしいとか言うんや」
「いや、言ってはないかも」

隣に置いてあるシーラカンスのメモ帳を手に取ると、先ほどまで繋いでいた自分の左手が目に入る。触ったら暖かくて、肉付きが少なく触ってもふわふわももちもちもしない、無骨な手だった。手のひらにはマメがたくさん出来ていて、かさついた印象を持った。

「あいつほら、無口だろ?なんだけど、いつものパターンとか、空気感とかで何となく分かるんだよな。で、俺が翻訳するから俺の語彙になるってわけ」
「ああ、そうなんや。ええな〜」

ぼんやりと、メモ帳の隣にあったボールペンを数回ノックする。インクの色は深い青らしい。出たり入ったりするペン先を眺め、試し書きで書かれたへたくそで愛嬌のあるサメを指でなぞる。

「……ええな〜?」

数テンポ遅れて手嶋くんが怪訝そうとも、嬉しそうともとれる微妙な表情で私の言葉を反芻する。私もぼんやりとしていて自分の言ったことをよく覚えていなかったから、手嶋くんが聞き返してきたその言葉に少し驚いた。『いいなあ?』

「ごめん、今適当に返した」
「そう?……ま、いっか」

持っていたボールペンがするりと手の間を抜けて、音を立てて床へと落ちた。慌てて拾って壊れていないかあちこち見て、きちんと芯もインクも出ることを確認して安堵の息をついた。



いくつかのグッズが入ったショッパーを提げて水族館を出る。この水族館は周囲に飲食店が立ち並ぶ港八十三番地があり、大変賑わっている様子だ。皆がそれぞれ美味しい海鮮物やバーガーに舌鼓を打っていてどこか浮かれた雰囲気が漂っている。
楽しそうに食事をする人々の合間を縫って私たちは来た道を戻り、目的である喫茶店を目指すことにした。

「あち〜」

真上から少し西へ傾いた頃。ちょうど1日のうちで気温がピークへ達する時でもある。私たちへ降り注ぐ光は容赦がなく、夏の予感を感じさせる。全日本大学対抗選手権自転車競技大会……通称インカレは秋口に行われる大会だから、夏の間は練習漬けになりそうだ。大学生の夏休みは長いから、その分充実した練習メニューが要求される。

「あ、そうや」

夏、目の前がチカチカして手に汗握る夏が来る。

「今年のインハイ、見に行くやろ?」

私たちが出身校がお互いライバルだから、一緒に行動することは殆ど無いだろう。今泉シュンスケさんに顔を合わせてみたいから、その時くらいだろうか。恐らくそれも大会が全て終わってからになる。

「もちろん」

昨年総北を優勝へ導いたキャプテンは不敵に笑っていた。一年生にどんな人が入ったのか私たちは詳しく知らないけれど、少なくともあの二年・三年がついていれば不安は無い。私たちは状況は違えど、きっと下級生への信頼は同じくらいに持っている。

「今年の総北もきっと強いぜ」
「箱学も負けへんよ」





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