33


久しぶりに訪れた箱根学園は卒業当時と一分も変わっていなかった。そりゃそうだ、卒業してからまだ三ヶ月ほどしか経っていないのだから。それなのに強くノスタルジーを感じてしまうのは、それだけ大学生活に馴染んできた証左でもある。
部室の扉を手にかける。引き始めの重さすらも懐かしく感じる。体を使ってどうにかその戸を開けると、ローラーがたくさん並べられるようにと広くとられたフローリング張りの部屋に踏み込める。その中にあるベンチに適当に腰掛けて時間を見る。彼らの授業が終わるまであと30分ほどある。
長い運転でくたびれてしまったのでベンチに横になってみる。全く人に優しくない板の硬さですら今は心地いい。



『着いたから部室にいるね〜』というメッセージが来たのは六時間目も終わりが近づいた頃だった。テストが近いためか、テスト範囲を聞き逃すまいといつも以上に真剣に授業を聞いているクラスメイトに紛れ、スマートフォンを操作する。わかりました、という簡素な返しですら指先が汗ばみそうな緊張感がある。
名字さんとメッセージのやりとりをするのは何も初めてではない。けれど、日常的に会わなくなってからこうやってメッセージを送り合うのは初めてだ。たった数ヶ月、それだけなのに名字さんが遠くなったような気がしていたのにアプリで送られて来る文字からは名字さんの声が聞こえて来そうなくらい、あの人は変わっていなかった。
いつも何かきっかけを探していたけれど、その距離に足を取られて何度もメッセージを打っては消した。ようやく正当な理由が出来たから送ることが出来たけれど、こちらへ呼んだのはオレのわがままだからやっぱり指は震えたし、送ってから返信が来るまでの数時間は永遠のように思えた。だからこそ、あの人の変わらない気の抜けた文体や、フットワークの軽さは救いだった。まだ好きでいても良いのだと、そう思えた。

テストに向けた対策と一学期の総復習を終わらせた教授がテストを控えたオレたちに気の抜けたエールのようなものを送って教室を後にした。焦れる気持ちを抑えて教科書や参考書をカバンに押し込み、のんびりと現れる担任に内心舌打ちをした。

「きりーつ、れー」

クラス委員長の号令に合わせて適当に礼をして、頭をあげると同時にカバンをひっつかむ。今日が掃除当番じゃなくて良かった。普段から教室でダラダラとするタイプではない(部活もあるからだけど、オレ自身あんまりクラスメイトとずっと話すことが得意ではない。)けれど、それでもいつもより急いた様子のオレに、何人かが不思議そうな顔を向けていた。いいだろ、たまには急いだって。

廊下を小走りで駆け抜けて、上履きを半ば投げるようにして靴箱へ突っ込む。何をそんな急ぐことがあるだろうか。彼女はとっくに着いていて、オレの授業がいつ終わるのかも知っている。ゆっくり歩いて行ったってあの人は咎めないし、気分を害したりもしないだろう。そうじゃない。オレはとにかく、一刻も早く、名字さんに会いたいだけだった。
卒業式にほんの一瞬ハグした時に指の間を通り抜けた髪の感触や、制服に包まれた体の柔らかさを未だに覚えている。初めて名字さんを知った時のあの胸にじんわり広がる感覚だって、忘れず大切に心のうちに仕舞っている。人を愛するということは、こんなにもエネルギッシュで、暖かくて、泣きそうになるのかと初めて思ったのはいつだったろう。でも、名字さんと接するうちに得た気持ちなのは確かだった。
名字さんはオレのことを可愛い弟くらいにしか思っていないのだろうということはずっと分かっているし、それでいいと思ってすらいる。ただ、名字さんのことを好きだと思う自分の気持ちは大切にしたかった。名字さんからもらったものは全て大切にしたかった。

グラウンドを抜けて部活棟が見えて来てようやく足を緩めて息を整える。ネクタイを緩めて、手で適当に掴んでいたブレザーを羽織る。息を切らして来たなんて分かったら名字さんは驚いてしまうだろうから。いや、驚いた顔を見るのもいいかもしれないな。

「名字さ……ん」

音を立てて戸を開く。鍵は銅橋さんに無理を言ってオレに1日だけ預けてもらっていて、名字さんが早く着いてしまった時のために昼休みを使って開けておいた。数時間で何か悪い輩が入ることもないだろうと思ってのことだが、そこにあるのがデータや値の張る備品ならいざ知らず、うたた寝している好きな女性だったら話は別だ。強盗とまで言わずとも、そこらのクラスメイトにだって見て欲しくなんてない。
ゆっくりと部室棟の入り口を確認する。今日は上級生ミーティングで、集合はこの部活棟だ。いつもの流れだと、真波さんがどこかへフラッと居なくなりそうなのを真波さんの幼馴染の先輩と銅橋さんがどうにか捕まえてから来るから開始は少なく見積もっても五分後になるだろう。それを見越して他の先輩や同輩も少し遅れて来るようになっている。真波さんは最上級生として後輩の見本になる気が無いといつも周りから口うるさく言われているが、今日に限ってはその態度に礼を言おう。

「名字さん、名字さん」

ベンチに横になって寝息を立てる名字さんの前に屈む。髪が少し乱れているのを直すように撫でると、言葉にもならない不満そうな声が上げられる。これで名字さんが目を覚ましたらどんな顔をするだろう。少しはオレを意識したりするのだろうか。……しないのだろうな。この人は黒田さんや泉田さん、葦木場さんに対してなんかは特に、今のオレくらいの距離を簡単に許してしまう人だから。

「ん、ぅ…………えあっ!?」

一定の距離を保って、肩を揺すって起こし続けると不意に素っ頓狂な声をあげて起き上がった。口元を拭って周りをゆるく見回してから、ようやくオレを見つけたらしい。恥ずかしそうにはにかんで「ごめえん」と言った。

「横になるだけのつもりやったんやけど」
「それ言った人が横になるだけで済んだ試し無いですよ」

二人で笑いあった瞬間、直前まで感じていた緊張はいつの間にか消え去っていた。



横になった途端からの記憶がまっさらになっている。いつの間にか目の前には悠人がいて、私の肩を揺さぶっていたらしい。飛び起きた私を追った目はいつもみたいに生意気そうだ。いつの間にか寝ていたのだと気がついて一言謝ると、彼は呆れたように笑った。

「真波たちはまだ?」
「ああ、はい。いっつも五分十分遅れて来るんですよ。いつの間にかそれが普通になっちゃって」
「真波……」

未だ現れないアンテナの彼を思い浮かべて脱力する。多分、銅橋や北町が彼のあのアンテナを引っ張ってなんとか操縦しているのだろう。彼らの心労が思いやられる。

「話は集まってからの方がええねやんな?」
「ああ、はい。そうですね。多分銅橋さんが居た方が」

そこで出て来る名前が真波じゃないあたり、うまい具合に役割分担ができているらしい。我々も彼らを信頼して卒業した身だから、うまくやってくれていないと困るのだけど。

「悠人は困ってること、ない?」
「え?」

鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている悠人に、部活のことでも、私生活のことでもと付け加える。私に人生相談なんて思ってもみなかったという反応は若干心外だが、たった一年長く生きただけの人間に人生という大きな単位の悩みを打ち明けたところで何が変わるんだと思っていそうだな、彼は。

「あー、私じゃあんま役に立たへんかもしれんけど……ほら!話すだけでスッキリすることってあるやんか」
「あ、いやいや。すません、なんか名字さん急に大人っぽくなっ……あ!えっと、」

かわいそうなくらいしどろもどろになっている悠人をとりあえず放っておく。彼はこういう時、自分で体制を立てるまで待ってやった方が良いというのは去年一年間彼と関わって知ったことだ。ふと入り口を見れば、入るに入れないといった雰囲気を醸し出している銅橋が窓からこちらを覗き込んでいた。悠人も私に相談事は無さそうだったので、彼らに手招きをして入室を促す。

「っす……」
「名前さんこんにちは〜」

居処が無さそうに銅橋が頭を下げながら、真波はそんな銅橋に半ば引きずられるように部室へ入る。今日はミーティングだけだと聞いているから、真波は乗り気ではないのだろう。そんな彼らに続くように昨年はインターハイに出場出来なかったメンバーたちも頭を下げながら部室に入ってくる。上級生ミーティングとは言っても三年だけでもそこそこの人数になるから、数人に絞ってあるようだ。

「こんにちは。で、ええと……私には何の用があるんやっけ。悠人」
「あ、はい。えっと、部費の運用のことなんですけど━━



一通りの話を聞いて、手助けになるようにざっくりとしたマニュアルを手書きで作ったところでいつの間にか日が暮れていることに気がついた。それもそのはずで、時間を見ればもう夕飯時だったのだ。この闇の中、バイクで高速道路を走るのは危険が伴う。視野が狭くなるし、車のライトで目がくらむ。下手にぼんやりした頭でスピードを出して運転するより、町まで降りてネカフェで一泊でもしようか。

「名前さん、今日はこっちに泊まりですかー?」

私が外を気にしているのに気がついたのか、真波がお開きの流れになるよう話のハンドルを切ってくれた。雑談を挟んで、今日の会はおしまいだ。

「あー、うん。小田原駅らへんまで降りて、ビジホかネカフェかなあ」

小田原は栄えてない訳ではないから、ホテルやネカフェのひとつやふたつあったはずだ。スマートフォンを取り出して、マップで調べるとやはり点在するようだ。

「え、実家じゃないんですか?」
「ああ、今日実家に帰るって連絡してないから……急に帰っても迷惑だろうし」

悠人はそういうもんなんですかね〜と難しい顔をして納得したんだか、していないんだかという様子だ。彼も寮に住んでいるし、新開先輩が急に帰ってきた時などを想像しているのだろう。私の家の場合、私が出て行くと同時に私の部屋が物置と化しそうな予感がしたので特に帰る時には連絡を寄越すようにと親からのお達しがあるというのも大きい。

「じゃあうち来たらいいですよ」

真波の発言にその場にいた全員が驚いた顔を彼に向けた。曲がりなりにも異性に向けて言うような言葉じゃないだろう、という意味でだ。銅橋に至っては厳つい顔をほんのり青く染めている。

「やだなー、変な意味じゃないですよ。ほら、俺実家に住んでるし。親も適当なんで、急に人連れて来ても割とどうでも良さげですし。ネカフェとかよりはいいんじゃないですか?」

指を折りながら自分の家に来ることの障壁をひとつひとつ潰されていく。とはいえ、私にとったら正直願ってもいない話だ。ビジネスホテルでは十中八九喉がやられるし、ネカフェで体が休まった試しがない。翌日また長距離走ることを思えば、ゆっくり体を休められる方がありがたい。

「あ、あと隣に委員長住んでるんで、そんないかがわしいことできないよ」
「真波さん、そこは”できない”じゃなくて”しない”って言ってくれませんかね……」

悠人のツッコミは若干ずれていて、真波のマイペースに呑まれているのがわかる。
とにかく、泊めてくれるというのならお世話になろう。流石に夕食はコンビニで買うことになるだろうけれど、それだってネカフェ一泊やビジネスホテル一泊に比べたら破格の値段なのだから。真波に限って手を出されない……と言い切れはしないのは私の性格が歪んでいるからだ。だけど、そんなことを込みでも、私の考えが変わるようなことはない。これも私が歪んでいるせいだ。

「じゃあ、一晩だけお世話になります」
「名字さん!!」

悠人の抗議の声はあえて聞かないふりをした。




/

back / top
ALICE+