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「名字ちゃん」

部活のために部室棟に向かう途中、背後から手嶋くんに呼び止められた。振り返ると手嶋くんがなんだか居心地悪そうに立っていて、ユキもそれに続いて面倒そうに立ち止まった。

「……何」
「何って……あのさ、昼のことなんだけど」

話し合いの場をアポを取って設けるでもなく、向こうが自分のタイミングで呼び止めて話そうとするのは少しずるいのではないか、と思ったが、流石に冷静な考えではないと自分でもわかっているため、彼らに伝えるのはやめておくことにした。

「あれは別に名字ちゃんをその……尻軽的な、そういう風に言いたいわけじゃなくて」
「じゃあ何」

確実にそういうニュアンスの言葉だったろう、という意味を込めてしまって言葉が刺々しくなったと自覚しているが、それが悪いとは思わない。私は怒っているし、それを表明しない理由も無いからだ。

「普通に考えて、男の家にひょいひょい泊まるのは危ないだろって言いたかったんだよ」
「はぁ?ひょいひょいって何?まるでウチがなんも考えてへんみたいやん。しかも普通とか、普通ってなんなわけ?つーか、うちの後輩をなんやと思ってんの?」
「は?」

矢継ぎ早に放たれた私の言葉に手嶋くんも頭に来たようだった。居心地悪そうに腕をさすっていた手嶋くんが私との距離を詰める。ユキが近くにいるし、手嶋くんのことだからぶたれるなんてことは無いだろうが、本能的に私は数歩後ずさりをした。

「んなこと言ってねーだろ!可能性の話をしてんだよ。万が一真波が名字ちゃんのこと狙ってたらとか考えないわけ」

言われて初めて気がついたが、そんなこと考えた事も無かった。もしかしたら流れに任せて抱かれるかもしれないと一瞬脳裏を過ぎったのは否定しないが、私はもうあの部のマネージャーではないし、何かあったとしてもそれはそれで良いとも思っていた。しかしそれでも、もし私が真波に恋愛的に好かれていたらとは一切考えなかった。何故だろうか。真波はなんとなく、異性にも同性にも、恋愛感情を抱くイメージが無いからかもしれない。宮原さんへの態度を知っているのもその一因だろう。

「……好きやからって人を合意無しに襲うようなやつちゃうもん、真波は」

いつも会話するくらいの距離感なのに、手嶋くんの落とす影はなんだかいつもより暗くて、私は思わず足元を見る。

「分っかんねえだろ!」

珍しく声を荒げた手嶋くんに力なく下ろしていた二の腕を取られる。興奮しているのか、握られた手には力が込められていて少し痛い。それに逃げようと身じろぎするが流石に男の力には勝てないようだ。私があまり全力で逃げようとしていないのもあるだろうけれど。ここで逃げたとしても、物事は好転しない気がしたからだ。
それはそれとして、腕は痛いし私の言うことを信頼してくれない手嶋くんの態度に私の怒りも頂点に達していた。

「そんなん自分が真波のことよお知らんだけやんけ。何なん、好き勝手言ってんちゃうぞ」
「心配してるんだろうが!」

私が痛がっているのに気がついたのか、手嶋くんは二の腕を離して私の手を取る。その力はやっぱり強くて、水族館の時とは大違いだ。けれど手嶋くんの言葉は本心のようで、あれが心配なのかという疑問は置いておいたとして、心配自体は嫌なものではない。

「それやったら最初っからそう言いーや。自分最初に言うたんどう考えても嫌味やったやんけ」

が、それとこれとは別だ。しっかりと追及しておくことにした。すると手嶋くんは急に手の力を抜いて、視線を落とす。彼のことだから、それはちゃんと分かっていて自分でも反省していたのだろうか。自分の発言をすぐに俯瞰して見ることが出来るのはチームのブレインとしてのスキルか。

「う、そ……それは……ご、ごめん……つい……」
「ついィ?」
「あ、いや、えっと」

しどろもどろになってしまった手嶋くんを見て、繋がれた手を離す。いつのまにかずり落ちていた鞄を肩に掛け直して手嶋くん越しにユキを見ると、わざとらしく両手を軽くあげて「やれやれ」といったポーズをとった。

「まあまあ、手嶋も謝ってんだからあんまいじめてやんなって」
「謝られたからって許すとは限らへんやろ」
「許さねえの?」
「……」

手嶋くんが分かりやすく息を飲む。手嶋くんとて今の関係が崩れるのは本意ではないのだろう。もちろん、私も本意ではない。

「次は無いから」

その言葉に手嶋くんは大きく何度も頷く。多分、彼にも譲れない部分はあったのだろうが、どうにか私も含めて自分の中に落としどころを見つけたらしい。それは譲歩にも似ているが、決して同じではない。情愛から来る純粋な赦しのようなものだった。お互いがお互いをこれから知ることで、この時彼が何を思っていたのか、どこに憤っていたのかが分かるとお互いの地雷も分かっていくことだろう。




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