38
一年が最初に競った部内レースで決まったメンバーでの大会が迫っている。練習メニューも既に大会に向けたものになっていて、ユキと手嶋くんは毎日ヘトヘトになりながら帰っている。多分、帰ったら本当に風呂とご飯、そして睡眠だけになるのだろう。たくさん運動して自然に睡眠に入れるというのは少し羨ましくも思う。
「お疲れ〜」
早々に着替えを終えて男子更衣室の前で待っていると、少し待ったあたりで二人が扉から出てくる。二人とも肩の力が抜けていて、解放感に包まれているのが目に見えてわかる。
「おす〜、待たせてごめん」
「ゥつかれー。あー、腹減った腹減った」
ぬるりと帰路につきながら横に並んで夜道を歩く。日もそろそろ長くなろうとしているからほんの半刻前までは夕焼けが綺麗に空を赤く染めていた。それも一瞬の出来事で、すぐに空は暗くなってしまったが。
「今日は自炊?」
言葉通りに腹を切なげに鳴らしているユキに聞くと、彼は少し考え込んで情けない声を上げる。
「しまった、俺んち今冷蔵庫カラだ」
「スーパー寄って帰れば?」
「ゲエ、めんどくせえ……」
手嶋くんとユキが私の頭上で言葉を投げ合う。ユキと手嶋くんと私は基本的に使うスーパーが同じだ。近所に住んでいるからそうなるのも普通の話ではあるのだが、そのスーパーはいつも周りのスーパーよりも色々と安値で手に入るから重宝している。
「あ、俺ん家この間実家から色々送られてきたんだった。食ってく?飯」
「マジで?」
タダより高いものは無い、と人は言う。タダで何か施しをすることの裏には必ずその人の思惑があり、施しをタネにして何か見返りを求めてくるから、という先人の知恵だ。ひどく捻くれたものの見方をするものだと感心したものだが、かといってそれらは馬鹿に出来たものでもない。
とはいえ友人関係においてその言葉を適用したいかと言えば否だ。私は友愛を信じている。基本的に、人を信じていたいと思っている。裏切られても、裏切られ慣れても、信じていたい。
「名字ちゃんも、良かったら」
「ああ、うん!ほしたら寄せてもらおかな」
◯
途中コンビニに寄って、せめてものお返しと言って私とユキでハーゲンダッツを3つ購入し、手嶋くんの部屋にお邪魔した。以前きた時よりも細々としたものが増えていて、水切りカゴにいくつかの食器が立てかけられているところから生活の様子が少しだけ伺えた。
客人はとにかく座ってろと言われユキとぼんやりゲームの話や漫画の話をしていたら、レシピ本から直接取り出したかのような料理が目の前に差し出された。
「ふ、フレンチ……!?」
「お前……これ……な、何!?」
接待で数度食べたことがあるような高級フレンチに見えて思わず目を擦って改めて見てみるが、どれだけ目を凝らしてもやっぱり高価そうなお料理にしか見えなかった。素材だけは見せてもらったが、まさかあんな普通の材料からこんな良いものが出来るとは。
大して料理のレパートリーの無い頭で推察するに、机に並んでいるのはタコのマリネ、オニオンスープ、鮭のムニエルだろう。この短時間で、よくこれだけの品数を出せたものだ。とても手際がいいのだろう。彼の後ろについて、調理風景を見ていたら良かったかもしれない。
「ふふん、手嶋スペシャール」
自慢げに踏ん反り返る手嶋くんの頭上には天よりも高いコック帽が見えた気がした。
私たちは仲良く揃って丸い食卓を囲んで、同時に手を合わせて料理に箸をつける。
「シェフ!!お前もうこの道に進め!!」
「金取れんでこれ、いやほんま、お愛想抜きで」
目を見張る美味しさに二人で思わず仰け反る。マリネ一つでこんなに味に幅が出るものなのか。自分はあまり自宅で料理をしないから、このマリネに何が入っているかなんて見当もつかない。
「はっはっは、もっと褒めろもっと褒めろ」
「天才!三ツ星レストラン!!」
「一生私の飯作ってくれー!」
「わっはっは」
鮭のムニエルにも手をつけて、また手嶋くんを褒めそやす。一口食べては褒め、一口食べてはまた褒める。だんだんと食べることに集中して口数も減った頃には既にお皿の中身も少なくなっていた。
「いやー、マジで美味かった。手嶋にこんなスキルがあったなんて」
「私は何となく気付いとったで!けどここまでとは思わへんかったあ」
食べ終えたお皿をさっさと洗う。手嶋くんの家はキッチンが広くて、ユキと並んで皿洗いをしても窮屈に感じることはなかった。その間に手嶋くんはダイニングを綺麗にしてくれている。
部活の水仕事で頻繁に手をボロボロにしている私を知っているからか、ユキは率先してシンクに立って、私に乾いた布巾を渡した。ユキもこの数ヶ月で皿洗いのテクニックを磨いたらしい。
「二人とも、ありがとなー。皿洗いしてもらっちゃって」
「ええよ、食べさせて貰ったんやしこんくらいはさせてえな」
言いつつ最後の皿を拭く。ユキはシンクを適当に綺麗にしてから手を洗って、私の言葉に同調するように何度か頷いた。
「あ、そうだアイス。それ終わったら出そうか」
「ちょうど今終わったし食おうぜ」
冷たいアイスのたっぷり入ったカップを一人ずつ手に包む。薄ピンクの平野にティースプーンをさすと、金属越しに伝わった私の熱で周りがじんわりと溶けた。私はいちご、ユキは抹茶、手嶋くんはミルクティー。それぞれの好みはてんでバラバラだ。
「大会、そろそろやなあ」
一口含めば、舌の上で冷たさと甘さが広がる。唇でこそぐようにスプーンの上のアイスを食べる。歯を使わずにもったりと溶けていく濃厚なアイスはさすが高いだけはある。
「心配だよ俺はやっぱ、ほら。福富さんたちが敵だってのはさ」
ユキも同じように一口抹茶を味わってから口を開く。ユキはこう言う時、基本的に抹茶味を選びがちだと気がついたのは高校三年の秋。しかし、抹茶が好きなのかと問えば特にそうでもないという答えだったので、ただそういった癖があるのかもしれない。
手嶋くんはユキの言葉に声を出さずに見つめ返した。彼は一昨年の夏あの地面を走ることはなかったから、福富先輩や新開先輩と肩を並べることは多分無かったのだと思うけれど、サポートとして回っても彼らの強さはきっと伝わっているだろう。
「まあでも、出はらへんかもしれへんやろ。まだ出走リスト出てへんのやし」
「あー、かも。出場したらいいのになあ」
「はは、どっちだよ」
アイスを食べるにはまだ少しだけ寒くて、私たちは一様に膝を丸めて座っていた。けれど想像するアスファルトの上はどこまでも暑くて、アイスを食べる手を進める。
「総北は?」
「ああ……ううん、もしかしたら古賀が出るかな」
手嶋くんもアイスを食べて、少し考えた後にそう言った。てっきり田所迅や青八木くんの名前が出ると思っていたので、知らない名前に首を傾げる。ユキの方を盗み見ると、眉を寄せて何かを考え込んでいる。思い当たる節があるのだろうか。
「古賀、古賀……なんか聞いたことあんな」
「ああ、多分俺らが一年の時のインハイだろ。怪我した金城さんの代わりに古賀がエースで出て、コース途中で転がり落ちたやつ」
ユキはそれを聞いて合点がいったように声を上げる。そういえば、私もその話は聞いたような気がする。前を走っていた関東の一年選手が落車して、なんとか。私が箱根学園に転校してから初めてのインターハイではその事件を聞いて金城先輩のことをマークしたものだ。
当時の京都伏見は集団から抜け出すべく作戦を開始したくらいの時で、言い方は悪いが先頭の落車に光を見たような。そうか、その時の人が古賀か。しかし、一年にしてインターハイ選手だったにも関わらず翌年のインターハイで姿を見ることは無かったし、昨年のインターハイでも出場していなかった。転校か、それとも故障か、もしくは……。
「あー……あれか。あったな、そういうことも。次の年もその次の年も出てこなかったもんだから自転車辞めちまったのかと思ってた」
一年に一度の大舞台であんだけ無茶やりゃな、とユキはひっそり呟いた。箱根学園とは全く無関係という訳でも無い事故だったから、思うところがあるのかもしれない。こういう時、転校した私は言わんとも知れぬ感覚を抱く。疎外感、ともまた違う。自分も渦中に居たはずなのに、そのレースを俯瞰して見ている不思議な感覚だ。
「足故障してたんだけどさ、辞めてねーんだわ、これが。三年の時、合宿で俺を主将の座から引きずり下ろそうってんだからコエー奴だよ。俺よりよっぽど強いぜ、あいつ」
「へえ、そりゃ戦うのが楽しみだ」
アイスが半分無くなって、体も大分冷えた。食べる手もさすがに緩まって、手嶋くんが出してくれたタオルケットに三人並んで適当に足を突っ込む。背の高さ的に会話がしやすいからと、こういう時にいつも真ん中に配置されるが、身を寄せ合う時は私ばっかり狭苦しい。
「あ!もしかして、卒業式のさー、インスタに上げてた写真の……ガタイ良いメガネの人?」
「ああ、そうそう。なつかしっ」
手嶋くんから電話がきた、引越しダンボールに囲まれたあの日見た写真の中で知らない人を思い出す。いつか話を聞くことがあるだろうとは思ったが、早々に大会で会うことになろうとは。私はマネージャーなので、会うもクソも無いかもしれないが。とにかく、顔を見ることにはなりそうだ。
「学校どこだよ、先輩誰か居る?」
「んや、居なかったんじゃねえかな。日武大分かる?」
「ああ、あんなとこ行ってんのか」
日武大、確か千葉だかどこかの大学だったはずだ。教育課程を取れば体育教師にもなれるし、サポート系の学科に進めばプロのサポート職に就くことも出来たはずだ。偏差値としてはさして高くはないが、将来を見据えた選択としては悪く無い。就職率が高い大学だったはずだ。
「青八木くんは?」
「ああ、あいつ自転車部無い大学行ったからさ、地元チームに居るよ。学連のレースには滅多に出れねえんじゃねえかな」
実は自転車競技部のある大学はそんなに数が無い。高校よりはあるのだろうけれど、珍しい部であることは間違いない。部があるかどうかを大学選びの条件に入れている人も居るほどだ。
「そら残念やなあ。またどっかで一緒に走れるとええね」
「うん」
アイスのカップを覗き込んで、吐息と一緒に出てきた相槌は彼らの絆を感じさせられた。
最後のインターハイ、三年になって初出場を果たす二人というので戦績を調べたことがあった。前年の秋から冬にかけては先輩たちに何かを教わるようにレースに出場していたが、それ以前は手嶋と青八木の二人はペアでも組んでいるかのように殆ど必ずセットでレースに出場していた。時折青八木が上位に食い込んでいたが、いつも必ず手嶋はトップ10にすら入っていない。むしろ、青八木と走らない時の方が高い戦績を弾き出すことも多く、逆に青八木は手嶋と走らない時はあまりパッとしない戦績だった。そこから、おそらく二人は本当にペアとしてレースを走っているのではないか、と推測した。だからこそ、インターハイで青八木が千切れたり、反対に手嶋が千切れたりした時は緊張感を司る紐みたいなものがフ、と緩んだような気がした。かといってエースの今泉や前年総合一位の小野田、オールラウンダーに転向したという鳴子という三人が盤石なために安心しきることは出来なかったが。
しかし、例えどちらかが居らずとも上位をキープし続ける総北を見て、なんだ、二人はペアではなかったのか。予想が外れてしまったなとモニターを眺めていた途端に手嶋青八木が二人で呉南を抜いたとの報が入り、予想が当たって喜んでいいのやら、フルメンバーが背中にピッタリとつくことになって不安になっていいのやら、微妙な気持ちになったのもよく覚えている。
その後、受験も目前になった寒い日に二人ときちんと顔をあわせることになって、その二人の以心伝心っぷりに度肝を抜かされたのだった。
「あのど根性スプリンター、学生レースに出れねえとなるとなんかもったいねえなあ」
「ど根性って」
さすがに少し冷えてきたので、手嶋くんに断ってポットを借りることにした。お水を入れれば一分足らずで沸く電子湯沸かし器をぼんやり眺めていると、手嶋くんがユキとの会話しながらキッチンへと入ってくる。単身者用住居のいいところは、狭いが故にどこに居ても大抵会話が成り立つところかもしれない。
「あ、名字ちゃんはコーヒーだっけ」
「あーうん、もしかして紅茶て言ったら美味しいやつ淹れてくれるん?」
紅茶を淹れるのには一家言あると言っていたことを思い出す。確か彼が料理上手だろうと思ったのも、その話を聞いたからだった。私はあまり紅茶を飲まないけれど、手嶋くんの特技だというのであればご相伴にあずかりたいところではある。
「おー、いいよ。どういう紅茶が好き?」
「私種類とかよく分からへんのよね。ああでも、フレーバーティーはまだちょっと苦手。甘ぁい匂いやのに、飲んだら全然お茶なんやもん」
手嶋くんが冷蔵庫の中から小さな丸い缶をいくつか取り出す。多分これが紅茶の茶葉が入っている缶なのだろう。可愛いシールでキラキラと装飾されていて、味の見当はつかないがとにかく幸せそうなイメージは伝わる。
「じゃあ、これとかかな。黒田ァー、お前も紅茶でいいー?」
「おーぅ、サンキュー」
手嶋くんがピックアップした丸い缶にはシンプルな紅茶色が印刷されたシールが貼られている。彼のわきから缶を覗き込むと、ティーブレイクと書かれていた。まさに、といったネーミングだ。
「渋みが少なくて、甘いフレーバーも無い。柔らかい感じのクセが少ない味だから、多分飲めると思うよ」
「へえー。淹れてるとこ見ててええ?」
てきぱきと大きいポットやらなんやらを用意している手嶋くんの邪魔をしないように一歩後ろに下がって、彼の背中を眺める。丁度お湯も沸いてなにやら大きな機械に茶葉を入れたり、バーを引き上げたりしている。喫茶店では時折見るけれど、その仕組みはイマイチよくわかっていない。
「なー俺だけ一人にすんなよ暇だろぉ」
リビングでしばらくぼんやりしていたらしいユキが、私が帰ってこないのを察してキッチンへ顔を出す。シンクとは反対側の壁にもたれている私を見て、ユキもその隣に立った。
「寂しいなあ」
「ちがっ、暇だっつってんだろ!」
肩を小突かれてケラケラ笑う。つられるようにして手嶋くんもクスクスと笑っている。確かに三人中二人が別の場所で話始めたら暇も暇だろう。私がユキの立場だって同じようにしていたと思う。
大きいポットにどこか見覚えがあると思ったら、引越してすぐに行った買い物で手嶋くんが買っていたのを横で見ていたことを思い出した。買う時に、本当はコーヒーを淹れる器具なんだけど家にあったらかっこいいし、一気にたくさん淹れられると言っていたような気がする。
「黒田、名字ちゃん、カップ出してくれる?」
「あ、うん」
ユキが指示された戸棚を開ければ、客人用のカップと、なんてことない無地のマグカップが並んでいた。
「どっち?」
「そんな綺麗なカップよお使われへんよ。マグカップちゃう?」
マグカップはちょうど三つ並んでいて、繊細なカップよりはこちらだろうと飲み口が厚いマグカップを並んでいた全てを手に取った。白・黒・青みがかったグレーの三種類で、人に出しても自分で使いまわしても良いようにしているのだろうか。実際私の家にも似たデザインのマグカップは複数あって、冬の間は交代で使っていた。
「マグカップでええやんな?お茶いっぱいあるし」
「ん、いいよ。ありがとう」
シンクにマグカップを並べて置くと、ゆっくりと琥珀色の液体が注がれる。コーヒーや日本茶では立たない芳醇な香りがふんわりと香って、空間を彩った。
「名前が紅茶なの珍しくね?飲めたっけお前」
「んーん。けど飲みやすいのん選んでくれてん。なんやっけ、ティーブレイク?」
「ああ、うん」
それを聞いたユキはいきなり不敵に笑って手嶋くんの頭を小突いた。まるで何かからかうように、だ。そして、そんな態度に私は見覚えがあった。
◯
京都にいた頃、私は今よりも尖っていて、いつも疲れて人と関わろうとしなかったから、多分お高く留まっていたように他人からは見えただろう。仕事がようやく軌道に乗り始め、周りの助力があって一つのプロジェクトのローンチが目前に迫っていた。そのプロジェクトは年単位で構築され、私は初期から立ち会っていた。若いからとアイデアを重宝されたり、逆にないがしろにされたりと不安定な立場で私自身、学校生活をないがしろにしている節があった。部活に対してだけは、仕事と私生活の間に存在しているように思えてなんとかマネージャーとしての形を取り繕えていたけれど。
ただ、多分、そんな態度が人によっては魅力的に写ったらしいのだ。私は昔からそうで、自分の態度が人に好かれるか、嫌われるかの二極に分かれる。この年はどうにか吉を引いて、深窓の令嬢なんて言われたものだった。本当はそういうレッテルで遠巻きに見られるのも何となく癪で、部活のメンバーの遠慮なさだけが救いだった。
そんな時、『深窓の令嬢をこの手にキャンペーン』みたいな空気が流れたことがあった。男女問わず、とにかく私に話しかけて喜色を示されたら勝ち……らしいと水田から聞いた。水田はお調子者だからそんなキャンペーンに胸張って挑戦してきて、私の適当なあしらいに撃沈していたのだが。
というか、私は人に話しかけられたら基本的ににこやかに対応しているものだと思っていたから、本当に仕事ばかりにリソースを費やされて疲れ切っているのだと初めて気がついた。
そのキャンペーン自体はすぐに霧散したのだが、それ故に私の知名度だけが変に学内に残ってしまった。『深窓の令嬢』なんて、言葉にすれば面白おかしい立場に知らぬ内に立たされた私は、やっぱり常に遠巻きに見られていた。悪意があれば私だって、尖っていたなりのやり方があったのかもしれない。けれど、無いものに刃も突き立てられないのだった。
「名字さん」
「はい、ええと……」
見知らぬ人に休み時間ごとに話しかけられる機会が増えた。それぞれ、仲良くなりたいとか、私を暴いてやりたいとか、そういった意思があったのだろうと何となく分かっていた。
「宮塚です。あーいや、俺の名前はどうでもええねん。名字さんさ、あの、彼氏とかって居るん」
「いないですけど……」
その質問も、もう何度か聞いた。質問してくる人間は男女半々。どういった意図を持ってされた質問なのか、全てわかるとは口が裂けても言えないが、何となく推し量るくらいは私にも出来る。
「あ、そ、そうなんや!ありがとう!そんだけやねん!じゃあな!」
「ああ、はい、どうも」
逃げるように仲間の元に戻っていく宮塚くんは、仲間に小突かれたり、蹴られたりとからかわれていた。多分それは友愛の証で、意中のオンナと少しでも言葉を交わせてよかったではないかと言いたげだ。
「うっとし……」
思わず溢れた言葉は教室の喧騒に紛れて消えた。
◯
もしかすると手嶋くんは私が好きなのだろうか。
以前にも同じようなことを考えたことがったような気がする。あれはいつだったろう。確か、水族館に行った時だ。手を繋ごうと言われて、もしかして、と思ったのだ。その時は自意識過剰だと考えるのを辞めたような。
渡されたマグカップの取っ手にしっかりと指を通して両手で持つと、淹れたばかりのお茶は熱くて、カップを包み込んでいた方の手をゆっくりを離した。
手嶋くんとユキは何かを話しながらリビングに戻っていく。あの大きなポットも一緒に持って行ったようで、キッチンには湯沸かし器のみがポツリと残っていた。
慌てて彼らの背中を追ってみたものの、同じタオルケットに、しかも二人に挟まれて座るのは何となく気が引けた。けれど、大会を目前に控えた彼らを動揺させるつもりもなくて、私だけが平静を装えばいいこの場面で、いつもと違うことをするつもりも無かった。
大会に向けての抱負、後輩のインターハイへの期待、初のインカレッジ大会への不安。いろんな話題がぐるぐると回って、いつのまにか私たちはほんのりまどろんでいた。紅茶は暖かくて、夜も更けてくるこの時間には睡魔を誘う。
「眠い?適当に寝る?雑魚寝になっけど」
この間は真波の家に泊まったことにキレていたくせに、自分のことになったらこの言いようなのだから勝手なものだ。「真波が名字ちゃんのこと狙ってるとか考えないわけ」じゃなかったのか。ユキが居ればそれでいいのか。
「んや、私帰るわ。仕事溜まってるし」
仕事が少し残っているのは事実だった。けれど、多分、いつもの私ならばユキが泊まるというのであれば私も続いて泊まっていたと思う。ユキも手嶋くんも練習で疲れているから話し込むことはきっと無かっただろうけれど、なんてことない話をして適当に眠る。合宿の夜のように。
マグカップを三つ、まとめて手に取って立ち上がる。全部空っぽになっていたし、アイスの時に使ったスプーンと一緒に洗ってしまおうというつもりでだ。手嶋くんもそれに気がついて並んで立って、ティープレスを手に取った。さすがにその機械の洗い方は良くわからないから教えてもらわなければ。
「洗い物は俺やるよ。名字ちゃん拭いてくんね?」
「わかった」
ユキの気遣いが手嶋くんにもうつっているのか、夕飯後の図とユキと手嶋が入れ替わったようになっていた。さっき洗った食器たちは拭いたとはいえ乾ききっておらず、マグカップたちは乾きかけの食器に紛れることになってしまった。
「うわっ」
洗い物を終え、リビングへ先に戻った手嶋くんが声を上げる。一体何の声だとまだ少し濡れているティープレスの部品を布巾に包んでリビングへ顔を出すと、いつのまにかユキが床に寝そべっていた。眠気も限界だったのだろう。
「寝てるよこいつ。いやいいけどさあ」
手嶋くんは適当にユキを転がして、さっきまで三人で使っていたタオルケットをこれもまた適当にかけ直してやっていた。私も急いで洗い物を拭いてリビングへ足を運ぶ。ユキを跨いだり適当に転がしたりして荷物を手に取って、お暇する支度を進める。
呑気に寝息を立てるユキを見て睡魔に引っ張り込まれそうになるのをなんとか防いで玄関を出ると、ひんやりとした空気に包まれた。
「送ってくよ」
「えっ?ええよぉ、もう遅いねんし……手嶋くんも眠いやろ。悪いわ」
「遅いから送ってくんだろうが」
外は真っ暗で、歩いて帰れば15分ほどの道のりでも、一人だときっと心細くて何度も後ろを振り返ったことだろう。
「ありがとうな、手嶋くん」
手嶋くんの家から私の家までの15分。たった15分と言えるか、それとも15分もと言えるか私には分からなかった。なんてことない会話に並行して色々なことを考えた。
友愛と恋愛の違いとは何だろうか。恋愛というステージに上がってしまえば、そこにあるのは本当に名字名前なのだろうか。恋愛の土俵に上がらずともキスもハグも、セックスだってきっと出来る。けれど、人が恋愛をしたがるのは何故だろう。人に求められたい?人に許容されたい?私には分からない。
「またいつでも飯食いにきてよ。じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
彼は何をもって私を好きだと思ったのだろう。
私は友愛を信じている。ならば、恋愛は?
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