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曰く、愛とは「その人を心から支えたいという気持ち」らしい。
曰く、愛とは「衝動に突き動かされるどうしようもない感情」らしい。
曰く、愛とは「実態も無く、性欲と混同しやすい流動的な何か」らしい。
曰く、愛とは。
「え、愛……?何、どうしたの、急に」
手嶋くんは目を大きく瞬かせて、頬を少し染めた。我ながら狂ったことをしているのではないかと自問自答したが、聞いてしまったものは仕方がない。適当に理由をつけて彼の恋愛観を聞かせてもらおう。
「次の……仕事、の資料に」
「あ、仕事。そうなんだ……?」
あからさまに安心した風の手嶋くんは膝の上でところなさげにしていた握りこぶしを解いた。
人の居ない空き部室に呼び出したのは失策だったのかもしれない。他人がいると話しづらい話題だろうからと選んだものの、私と手嶋くんが人の寄り付かないこの教室に二人きりという事実は逆に彼の心を揺さぶってしまうような気がしてならない。
「愛、愛……ねえー。なんか哲学的っていうか……あんまり考えたことなかったな」
「昔の彼女の話とか、好きだった子へ抱いてた感情とか、何でもええねんけどね」
「う、そ……そう」
元カノの話を異性の友人にするのは少し勇気がいることらしく、手嶋くんは少し言葉を詰まらせて教室の端に視線を送って喉の奥で唸る。私は格好だけでもとメモ帳を取り出してペンを構えているが、それも緊張の一端となっている可能性もある。少しの間そのメモ帳はしまっておこうか。
「あ、うーん……そう……だなあ。なんていうか」
やっぱりまだ言葉は詰まっているけれど、少しずつ彼は口を開く。
「やっぱりこう、一緒に居たいっていうか、居て楽っていうか。そういう関係を持てる相手っていうか……一般論だけど」
「手嶋くんは、その一般論に賛成ってそういうこと?」
掘り返すように言葉を返すと、手嶋くんは腕を組んでいよいよ考え込んでしまった。
「3日、くれないかな」
「みっか」
「急に言われて簡単に言語化できる気がしないわ。3日くれればなんとか、頑張るから」
組んでいた腕を解いた彼はすぐに指を三本立ててそう言った。
◯
手嶋純太は悩んでいた。というのも、数日前に意中の相手から急に空き部室へ連れ込まれたと思ったら「愛とは何か」問われたからだ。思わず回答への猶予を設けてもらったものの、手嶋の頭にはその問いばかりがぐるぐると回って、肝心の回答が現れる様子はなさそうだった。
「いっそ、君が好きなんだよーって言えたら楽なんだけどな」
独りごちて湯船に沈む。愛とは何か、という問いは数々の哲学者や作家、果ては数学者までもが答えている。それは千差万別の言葉で愛の輪郭を必死にとらえようとしたもので、きっと彼らからすれば芯を食った言葉なのだろう。名字に質問を投げかけられて以来偉人の言葉には一通り目を通した手嶋だが、それらの言葉は彼にとっては核とは言えないものばかりだった。全てが綺麗事にすら思えたのだ。
「いや、言ったところで好きってなんだって話か」
恋愛はその果てに性欲があって、体を重ねることで全てが丸くおさまるような気がしていた。ドラマや漫画、小説で得た知識は少なくともそんな感じだったし、手嶋自身、付き合って来た彼女とは愛の果てに体を重ねることもあった。それが愛なのだと、自然なことなのだと思っていたのだ。しかし、改めて問われると手嶋は混乱してしまった。なにせ、愛という言葉自体は清廉な印象なのにも関わらず、セックスはそれとは真反対に思えたからだ。真反対なものが長く細く、赤い線で繋がっているのだろうか?
世の中には愛の果てにセックスが無い人が居るという。多様性を考える社会で、そんな話を小耳に挟んだことがある。手嶋によく理解出来たとは言えないが、とにかくそういう人が居るのだという事実だけは現実らしかった。反対に、セックスはしてもそこに愛はないということだってある。これは案外よく聞く話ではあるが、だからといって手嶋にはあまり理解の出来ないことでもあった。とにかく、手嶋の言う愛の中には基本的に性の概念があり、セックスというものは愛情表現の一つだと思っていたからだ。しかし、それは「愛」と「性」が強く結びついているだけであって、あくまで別のものだという意識もあった。つまり、愛を語る上で性行為を混ぜることは質問に反するということになる。
そうすると一体「愛」とはなんなのだろうか。
相手のことを深く知りたいと思う気持ちだろうか。どんな過ちも受け入れる覚悟だろうか。それともそんな過ちを正してやろうと思える傲慢さか。
考え出すとキリがなく、いつのまにか湯船は冷めきっていた。
◯
「え、風邪?」
手嶋くんから3日くれと言われてその3日目。どれだけ連絡を入れても返ってこないものだから心配になってユキを探し出せば、その二文字が返ってきた。
「冷たい風呂にずっと浸かってたんだと。出来そうな授業は代返しといてくれって超鼻声で電話が来たんだよ」
紙パックの小さいジュースを音を立てながら吸いながら、ユキは困ったように笑った。そろそろ夏とはいえ、水風呂に入る理由なんてない。もしかすると、自分の質問について考えすぎてショートしてしまったのではないだろうかと思うが、流石に考えすぎだろうか。
「しんどそうだったからあんま詳しく聞いてねーんだけどさ。とりあえず薬くらいは持ってってやろうかな」
「あ、私も行く」
「やめとけ、あいつもボロッボロんとこお前に見られたら死んじまう」
吸う力で大きくへこんだ紙パックを伝って、ゆっくりとユキの目を見る。私の視線の気がついたユキは「しまった」とでも言いたげに少し視線を彷徨わせて、私の目をじっとりと見返す。
紙パックから口を離したユキは細く長く息を吐く。
「それは、手嶋くんが私を」
「まーて待て待て。それを俺に聞いても、俺はなんて返しゃいいか分かんねえ」
「……」
沈黙ののち、ユキは「じゃあそういう事だから」と去って行った。放課後は部活があるから、昼のうちに様子を見に行くつもりだったのだろう。引き止めた分、ユキのスケジュールは押しただろう。悪いことをしてしまった。
そして、ユキの反応を見ると疑念は確信へと変わった。やっぱり手嶋くんは私が好きらしい。
「参ったなあ……」
異性間の友情は成立するのか?という問いがある。そんな問いが成立するくらいに性別の間には大きな隔たりがある。それは社会的力関係であったり、性欲だったり、物理的な力関係だったりするが、この問いの間で大きな問題になるのはその中でも性欲だろう。性欲は人の判断力を鈍らせ、時に突飛な行動を引き起こす。けれど、私は以前にも言った通り、友愛を信じている。周りの人間も、それに応えるように接してくれている。吹けば壊れるかもしれないその関係に、わざわざ衝撃を与えたくなかった。
結局のところ、私は臆病なのかもしれない。
恋愛が何か、いろんな人の話を聞いたとてピンと来なかったのは事実だ。しかしこの3日、手嶋くんが考えてくれるというので私も愛とはなんなのか、考える期間にすることとした。結局答えが出たとは言い難い。
わざわざ「恋人」というレッテルを貼る行為に特別な意味を持たせる意味が分からなかった。性欲を解消したいのであれば、セフレを作るなり、科学の叡智に頼るなり、やりようはある。誰かをそばに置きたいのであれば友人で十分なのではないか。恋人にのみ許される行為なんていうのはない。制度的な見方をすれば、結婚への足がかりとも言えるだろうが、そうすると結婚を視野に入れない交際への言い訳が立たない。そもそも結婚という制度自体、法律がそうするから結ぶ契約であって、そういった法が無かったとしたらその過ごし方は果たしてメジャーになったのか甚だ疑問なのだ。
結局のところ、「恋人へ接する自分」という実績を解除したいだけなのではないかと思えてきてしまって、自分の斜に構えたような思想にかぶりを振る。
(まあ、それは「私」も「手嶋くん」も無い、事象としての恋愛の話であって)
私が果たして手嶋くんにどのような感情を抱いているのか、それはいくら考えをこねくり回したって変わることは無い。私は手嶋くんを好ましく思っている。あまりしっかりと見据えなかった感情だが、とにかくそれは確かだ。
しかし、それはユキにだって、アブくんやシキバくん、真波や悠人にも言えることで、手嶋くんが特別なのかと言われれば判断がつかずにいる。多分、言われれば私は先に挙げた人誰ともキスくらいなら出来てしまう。関係が壊れるのが嫌だから、わざわざする必要が無いからしないだけであって。そういう嫌悪感の無さというのも私がこんなにも捻れた考えを持つ要因な気がしてならない。
じゃあ、手嶋くんと付き合ってしまってもいいのではないか?しかし、そんな適当な気持ちで彼の心を傷つけてしまわない保証は無い。
むしろ、傷つけてしまう確率の方が高いだろうという想像は容易に出来た。私は不用意に友人を傷つけたくなかった。
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