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とにかく、風邪っぴきの頭で手嶋くんが伝えてくれた愛というのは、エゴを認めたものだった。他人の自己愛をどこまで受け入れられるのか、自分の自己愛をどこまで開陳できるのか。そのラインは人それぞれとはいえ、そこを確認するための……ある意味指針になるものが愛というもの、あるいは恋愛というレッテルなのだ、と。
私は、手嶋くんの言葉を借りるなら『ベン図がほとんど重なり合っている』のだと思う。私は友人に求めるようなこと以外を恋人に求めるつもりはない。というより、円の境界線すらぼやけているのだ。
とにかく、私に何か問題があるとすれば、友人・恋人の境界線を有していない部分にあるのだろう。それを問題と言うのが適切かどうかはまた別の話だが。私と恋人になりたがっている(のだろう)人間を前にすると、それが自分の欠損に思えてならないのだ。

(私は……)

きっと彼の気持ちには応えられない。その事実だけが私の胸にナイフを突き立てている。申し訳なく思う必要なんて無いと心優しい人は言うだろう。私だって、他者がそうやって悩んでいたら同じような言葉をかけるに違いない。しかし、その言葉はどこまでも他人事なのだ。心の内なんていうのは誰しも他人事なのだから、どうしようもないのも分かっているのだけど。

本を読む気にもなれなかったが、ノートを広げるわけでもない。とにかく机でぼんやりしていたが、図書館に来てまでそれはないだろうと席を立った。この大学はたくさんの専攻でもって成り立っているためか、蔵書数もそれなりに多い。芸大ではないため芸術関係の本は少ないが、心理学・薬学・医学・哲学・文化人類学……とにかく様々な本が整然と並べられている。
特に目的の本も無い私は見るともなしに狭い通路を歩く。いくつかの棚はスイッチでもって道を作るつくりになっていて、あまり読まれる頻度の高くないだろう書籍はそこにまとまっているようだった。特に楽譜や作曲のいろはは手に取っただけで手が真っ黒になってしまいそうだ。それもそのはずで、この大学には音楽科は存在せず、大抵の楽譜は学校のシステムで電子化されていて印刷することが出来る。ついでに言えば地下に降りたところにはCDも置いてあるのだ。音楽科が無いことを考えれば、高待遇とすら思える。

(モーツァルト……流石に名前は聞いたことあるわ)

暗く乾いた空気の中、薄っぺらい冊子を手に取る。『Voi che sapete』と書かれた下に、Wolfgang Amadeus Mozartと書かれている。題名は恐らくイタリア語なのに、モーツァルトの名前はドイツ語なのでどこかちぐはぐに思えた。表紙をめくると、何枚かの紙がバラバラと床に散らばった。最初に手に取った薄い冊子はフォルダ状になっていたようだ。あわてて落ちた厚い紙を手に取ると、歌詞とともにメロディラインが音符で表されていた。どうやらこれはオペラ用の曲で、落としたものはオペラ用オーケストラのスコアだったらしい。

(『恋とはどんなものかしら』……)

スマートフォンで題名を検索すると、すぐにその日本語訳が表示される。まるで今、私が何に悩んでいるのか見透かされているようで心臓が跳ねる。情報を手繰ると、フィガロの結婚というオペラ作品で使われているものらしい。歌詞も台本もイタリア語で私にはさっぱりだが、もしかするとこの図書館にそのオペラ作品の映像があるかもしれない。開いたホームページをそのままにして、映像検索のパソコンへ足を進めた。



書誌検索を使い同名のオペラを検索したが、出てくるのは今手の中にある楽譜ばかりだった。DVDの一枚でもあると思ったが残念だ。オペラ自体、映像媒体で残されることが少ないのだろうか。一件しか表示されずほとんど真っ白なページを閉じて、楽譜に目を落とす。私はあまり音楽に明るく無いから、楽譜だって大して読めないから、私が持っていても意味のないその紙束は見る人が見ればオペラのワンシーンが浮かぶのだろうか。
とにかく、楽譜を元の位置に戻しに行くことにした。ふらふらと歩いてたどり着いた棚だったが、先ほどの検索で場所は再確認した。今度はしっかりとした足取りでその場所へと向かって、閉じられた棚をスイッチを押すことで開く。

(Voi che sapete……はは、なんでこんな丁度なんが出て来たんやろな)

目線の位置にある少しの隙間に楽譜をしまい込む。と、同時に棚のスイッチの音が耳に入った。誰かがどこかの棚を動かすつもりなのだろうか。しかし、この棚の列以外に電動の棚があるのはもう少し奥の場所だ。つまり。
思考が到達した時にはもう目の前の棚がゆっくりと動き出していた。




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