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普通、電動の可動式本棚にはセンサーが搭載されている。通路に人がいたり、あるいは棚の移動の際に抵抗があれば自動で止まる仕組みだ。それが作動したのかしなかったのか、私は間一髪閉め切られる前の棚から身を脱することが出来た。一応、九割、ほとんどは。

『病院ン?』
「いや、なんていうか、事故に遭って」

消毒液の匂いがする。リノリウムの床に目を落とすと、小さな傷がいくつも付いている。左で持ったスマホから、荒北先輩の素っ頓狂な声が響いた。指に巻かれた包帯が見た目だけ痛々しさを演出している。実際のところ、大した怪我はしていないのだ。中指の爪は半分ダメになってしまったけれど。

「一応学内の人身事故なんで、学校の人とか保険屋さんとかと話しせなあかんみたいで。今日はすんませんけど、部活出れそうにないってキャプテンに言うといてください」
『はあ……?わーった、とにかく伝えとく。明日は?』
「あ、大丈夫やと思います」

ちょうど受付に呼ばれ、電話を切る。相手の保険屋か、学校かが病院に先んじて連絡をしていたからか支払いは発生しないが、湿布とガーゼの類を数枚もらった。
こういった小さな規模の痛い話は苦手だから、保険の担当者にも学校の人間にもかいつまんで事象を説明しよう。可動棚が動いて、ほとんど逃げたものの可動棚の丁度隙間に指が巻き込まれてギュッとやりました。とか。考えただけでも痛そうだ。いや、実際痛いのだが、すでにそのピークは去っている。じんじんと鈍い痛みが主張しているが、無視しようと思えば出来なくもない。

「……はあ」

貰ったレジ袋に入った銀の包みを見てため息をつく。病院を出ると生温い風が私を追い越して、木々を大きく揺らした。とりあえずこのあとは一度大学へ戻り、既に待機しているらしいあちらの生命保険の担当者と、学校責任者に診察の結果を報告する次第となっている。知らない人間と堅苦しい話をするのは慣れているとはいえ、今回は被害と加害があり、被害者である私もなぜかとても気が重い。



空気の淀んだそれなりの話し合いを終え、相手から診察料の支払いに加えて少しの謝罪金を振り込んでもらう約束を事務的に交わしてその場はお開きになった。今から部活に顔を出しても部室に誰かは居るだろうが、そこまでする気分でもない。

「名前〜」

急に背後から名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返れば光に透けるチョークブルーの髪が目に入る。目立っているが、私にとってはもう見慣れたものだ。

「え、ユキやん。部活は?」
「さっき終わった」

着替えが入っているであろうバッグを軽く掲げながら疲れた様子で言う。思えばユキは昼から手嶋くんの家に行って看病、戻って授業ののち部活に顔を出しているのだから疲れて当然だった。

「ていうかお前、事故って。手嶋は風邪でお前は怪我!息が合うのも大概にしろよ」
「そんなん言われても」

人の心配ばかりでユキからしたら心が休まらない一日だったことだろう。呆れた様子の彼に私は苦く笑って患部に巻かれた包帯を後ろ手に隠す。様子見だからと、止血にしては少し大げさに処置をされてしまったのだ。実際骨に問題は無かったし、中指の爪が内出血と折れでダメになったくらいで数週間すればある程度マシになっているはずだ。

「一応荒北さんから聞いてっけど、本当に大丈夫なんだな」

ユキは私の隠された手を透かして見るかのごとく薄く目を細めて私の胴を睨め付ける。その視線に居心地悪く身じろぎをすると、視線が顔に移された。心配げに寄せられた眉根を見て、私も自分の不注意を反省する。今回私の非は殆どなかったわけだが、自分がぼんやりとしていなかったらこの事故は起こらなかったことも事実だった。

「だーいじょうぶ大丈夫。大した怪我ちゃうし、心配されるほうがしんどいわ」
「ふーん、そんなもんかね」

怪我をしていない方の手をひらりと振ると、その動きにユキの視線が追従する。ユキや荒北さんたちにはまだ怪我の詳細を話していないから、どこを怪我したのかと心配なのだろう。

「そ」

となりあって夕暮れの大学を歩く。校門まではすぐそこで、ユキは自転車を押している。カラカラと鳴るラチェットの音が高い空へ響いて耳心地が良い。耳を澄ませるように目を瞑ると、眠気が急に襲いまっすぐ歩けずにユキにぶつかった。

「おい」
「疲れてしもて」
「もー……」

自転車のハンドルを片手で掴んで、ユキは私の肩をぐいと押す。フラフラした体制を整えた私は思いの外自分が疲れていることを自覚してまっすぐ家に帰ることにした。



「ほしたら、また明日」
「送ってく」

いつものように私の家とユキの家との道を分ける四つ辻で話を切り上げて小さく手を振ると、その指をがっちりと掴まれる。ユキの顔を見上げると、いつもみたいなスカした表情をしていてどこか安心した。

「過保護」
「るせ」

緩められた手を解いてまた並び歩く。次の大会の話をしながら、サポートがいつもより少しだけ難しくなるのだろうと考える。大した怪我ではないとはいえ指先の怪我だ。何をするにも痛みは付きまとう可能性がある。刺激しなければ痛みはすぐに引くはずとはいえ、少し不安なのは確かだ。

「そいや、手嶋くんどうやった?電話してる時結構朦朧としてそな感じやったけど」
「あー、まあ、あの後薬飲んでさっさと寝たから。病院も朝のうちに行ってたらしいし、すぐ治るんじゃねえかな」
「そっか」

電話口の手嶋くんは呂律も甘く、話していることもだんだんと要領を得なくなっていた。くぐもった声で時折咳もしていたし、おそらくただの風邪だろうと推測はできるが、小学生の時なんかと比べてただの風邪も辛くなってくる。薬を飲んだというから、おそらく来週のうちには部に復帰することが出来るのだろうが、風邪の時に一人というのはきっと寂しいだろう。

「ユキ、高校ん時一回風邪ひいてたやんか。どやった?」
「そんな質問があるかよ。意味わかんねえ」
「寮で風邪っていろんな人来た?うちも行ったけど、人がようけ来たら嫌やった?」

足元のコンクリートはまばらに色を変えて、まっさらに均されている。小石を蹴ると小さく悲鳴をあげながら側溝に転げ落ちた。それを見届けてユキへ視線を移すと、二年前の秋口のことを思い出しているようだった。私たちは二年生で、私は彼のことをまだ『ユキくん』と呼んでいたと思う。昼休み、アブくんと膝を突き合わせて新体制について話し合おうと言う最中、送られて来たラインに二人で顔を見合わせたのだ。「あの黒田雪成が風邪なんて珍しい」と。

「あー、来た来た。弱った俺を一目見ようってんで入れ替わり立ち替わり……感染るぞつってんのに。なんなら先輩たちも来たし」
「はは、ぽいなあ」

新開先輩や荒北先輩はともかく、東堂さんや福富先輩は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのだろう。いくら感染りますよ、なんて言っても「俺は強い」とか「完璧な俺が風邪をひくなんて甘く見られては困るな」などと突っぱねられそうだ。

「まあでも、どいつもこいつも何かしら持って来てくれたし、賑やかなのは悪くなかったかな。…………おい、今から手嶋ん家行こうとか言い出すなよ。そんな指して」
「…………やっぱやめといたほうがええかしら」
「お前もお前で今日はフラフラだろうが。なんのために送ってんだよ俺は」
「そやった。明日にするかあ。このグルグルなってる包帯も今日だけでいいって言われてるし」

ちょうど明日は土曜日で、土曜に授業のある人のために部活は午後から行われる。部に顔を出す前に手嶋くんの様子を見に行って、余裕があれば帰りにも顔を出そう。具合が悪そうならご飯を用意して去る、くらいの感じで。指の負傷が爪だったのが幸いして、料理くらいなら問題なくできそうだ。もし関節を痛めていたら、自分の生活すら苦痛だっただろう。爪くらいなら、痛みがあっても我慢できないほどではない。多分かなりのうっ血で見た目は悪いけれど、

「俺昼にやめとけつったけど」
「私、まだ手嶋くんが私のことどう思ってるとか、知らんし。友達やったらお見舞いくらい行くやろ。ユキが風邪ひいた時みたいに」

言うと、ユキがほんの少し考えて、鼻から長くゆっくり息を吐いた。自分なりに言い訳をまとめたのか、手嶋くんに謝る気持ちがあるのか、ある種の諦めをしたのか定かでは無い。

「ま、それもそうか」
「そうなんよ」

気がついたら私のマンションの前で、宵闇のカーテンがおろされようとしていた。





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