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「なあ、迷惑ついでやねんけど」

踵を返したユキの背中に投げかけると、ユキは振り返らず足を止めた。面倒な予感がしたのだろう。私の二の句を待つようにまんじりともせず立ち尽くしている。

「私が見舞いに行きたがってるって、ユキから言うといてくれへん?嫌がってたら私明日行かへんから」

ユキはまた長いため息を吐いて、顔だけこちらを振り返る。じっとりとした目はやはり「めんどくせえ」と語っている。彼はキリッとつり上がった目を細くして、細く指通りの良さそうな自分の髪を数回撫で付け「仕方ねえなあ」とため息混じりにこぼした。

「ごめんな」
「お前が謝ることじゃねえだろ。いや、手嶋が謝ることでもねーんだけどさ。……じゃあな。連絡は入れとくから、まあ、どんな報告来ようとも誰も悪くねえってことだけ」
「そやね」

何があろうと、誰が傷つこうと、誰も悪く無いのだ。恋愛においては。きっと誰かに恋をすることはポジティブな感情だし、それによって人にある程度迷惑がかかることも、致し方ないのだろう。恋愛の熱量は大きく、近くにいる人間はきっと誰しも火傷してしまう。火傷の跡は適切な処置で元に戻り、下手をすればケロイドとなる。一手間違えることが場合によっては死を意味する。
小さくなるユキの背中をぼんやり見つめて、角を曲がって見えなくなってからようやく自動ドアを潜る。エレベーターの重い駆動音を聞きながら、明日、うまく振る舞えるかどうかシミュレーションをする。
まず、ゼリー飲料とスポーツドリンクを買って部屋を訪れると具合の悪そうな手嶋くんが迎えてくれる。私は「病人なのに起こしちゃってごめん。具合どう?もうなんか食べた?」なんて質問攻めにしながら部屋へお邪魔する。マスク越しのくぐもった声で相槌を打つ手嶋くんをかわいそうに思いながら、とにかく彼をベッドへ戻す。もしご飯が済んでいないようなら何かを作って、洗い物が残っていればそれをなんとかする。もし済んでいるようなら部屋の掃除だけ軽くさせてもらって、少しでも埃のない環境で彼には寝ていてもらおう。お昼ご飯を用意する時間はきっと無いだろうから、ゼリー飲料を冷蔵庫にしまったことを伝えておこう。それから私は部活に向かうのだ。
色々なことを考えることはするかもしれないが、多分、辛そうな彼を見ると心配が勝るだろう。今だって手嶋くんはきちんと眠れているのか心配なのだ。ユキに連絡を取ってもらうことで起こしてしまわないだろうか、とか。

しかし、自分の部屋のドアを潜ると今日の疲れがドッと襲い掛かり、最低限の就寝準備をこなすのがやっとだった。まだ夜も浅い時間に眠りにつくのは久しぶりだと思っていたはずが、いつのまにか夢の世界へと足を踏み入れていた。



穏やかな鳥のさえずりで人工的に起こされる。音を鳴らし続けるスマートフォンを睨みつけてゆっくりと体を起こすと、ベッドに沈んだ指先は未だ鈍い痛みが脈打つ度に主張していた。昨日と比べて、湿布とガーゼだけで身軽になった指だが、その下には赤黒く変色した指先がある。昨日、疲れた目で見た指に思わず「うわ」と声をあげてしまった。怪我をしてすぐは少し腫れて血が出ていただけで、見た目はただの怪我と変わらずなんとも思わなかったのだが、強めのうっ血はあんまり見る機会も無いものだったので流石に引いてしまう。
憂鬱な気持ちを振り払うようにして怪我をしていない方の手を軽く振ってベッドから足を下ろしてスマートフォンを眺めれば、ユキからメッセージが入っていた。

『来て大丈夫だと。ついでに朝なんか飯と飲み物買って来てくれってさ』

その文面を見て胸を撫で下ろす。来るなと言われる可能性も考えていたが、もしそう返って来たら私は少しばかり落ち込んでいただろう。
ユキのメッセージにお礼の返信をして、朝の支度をする。今日は天気も良くなりそうだ。来週あたりからは梅雨入りだとニュースで見たから、気持ちの良い晴れは春のうちは今日が最後になるかもしれない。雨の日のロードは危険を伴うから、気の張る時期の突入だ。

途中コンビニへ寄って、軽い食事と差し入れの類を購入する。軽い食事は私の分だ。ご飯を買って来て欲しいということは、きっと彼はまだ自分で食事の用意をするくらいの回復は見込めない状態で、私が買って来たものを食べるつもりなのだ。彼が食べている横で掃除をするわけにもいかないし、せっかくなので一緒に食事をしてしまう算段というわけだ。

少しバイクで行けばすぐに彼の家へ到着した。以前訪れた時のように適当に駐車して、彼の住む部屋のベルを鳴らす。少ししてドアの前で足音が聞こえたかと思えば、ゆっくりとそのドアが開いた。

「おはよ」

のんびりした口調で現れた手嶋くんはいつも私たちが見るような私服を身に纏っていて、髪も整えられている。マスクこそしているが、見た目だけはいつも見ている手嶋くんとなんら変わりがない。

「……おはよう。なあ、まさかやねんけど、私が来るからって部屋片付けたりしてへんやんな?」
「え?」

私の言葉に一つ声をあげた手嶋くんは少しの間でマスク越しにもわかるくらい穏やかに笑って「してないよ」と言った。絶対に嘘だ。隠したいものがあるのはわかるけれど、今回に限っては私も突っ込まないつもりだったのに。そういうわけにもいかないのが人間の心なのも承知の上だが。

「飯買って来てとかもそれのための時間稼ぎちゃうかとか思ってしもたやろ。もー。熱測った?ご飯はまだやんな?」
「熱はまあ、まだちょっとあるかな。飯はまだ」
「ほしたらご飯用意するから、手嶋くんは寝れそうやったら寝ててええし、気分ちゃうかったらゆっくりしといて」

シミュレーション通り、彼をリビングへ押しやって、買って来た差し入れを冷蔵庫に突っ込む。パックのご飯と刻んであるネギを用意して、適当にお鍋に放り込んでおじやを作るつもりだ。お醤油とお出汁と生姜チューブを彼のキッチンから借りてお米を煮込んでしばし待つ。
キッチンを見るに、手嶋くんは結構自炊をする人間のようだ。基本的な調味料がキッチンの収納に整然と並んでいる。それどころか私の知らない、よく分からない真っ赤な調味料や色とりどりの粉砕された何かが瓶におさまった何かも一緒に並んでいる。その中のひとつを手に取ると『ナツメグ』と書かれていた。おそらくハーブか、スパイスの部類だ。

「名字ちゃん!鍋吹いてる吹いてる吹いてる!!」

リビングからキッチンへ飛び込んで来た手嶋くんを見て意識を浮上させる。流石に驚いていたが、すぐに耳にジュウジュウという音が飛び込んで来た。振り返るとお鍋から水が吹きこぼれて、コンロが真っ赤な炎をあげている。

「わ、やべっ」

慌てて火を止める。吹き上がっていた泡が急速にしぼんで水面を見せる。こぼれた量は大したことがなかったらしく、中身への影響は少なそうだ。

「やべって……もう、火から目離しちゃダメだろ」
「ごめんごめん。もう大丈夫やから、戻ってて」
「ほんとかな……」

呟きながら手嶋くんはリビングへ引っ込んでいった。吹きこぼれたお湯をキッチンペーパーで拭って再び火をつける。味付けをして刻みネギと溶き卵を回し入れて少し待つ。

「ていうか手嶋くん、思いのほかシャキっとしとるなあ」
「そう?さっき薬飲んだからかな」

鍋がふつふつとわきあがり、卵が白く固まったあたりで火を止める。スプーンで少し掬って味を見ると、胃に優しい薄味のおじやの熱で舌を少し火傷した。
お玉でお椀一杯分を掬って盛る。ちぎった海苔を乗せたら完成だ。

「空きっ腹に薬飲んだらお腹壊すで。はい、熱いから気い付けや」
「ありがとう。さっきも思ったんだけど、別にコンビニの適当な飯でも良かったのに」
「確かにそうかも。全然考えつかへんかったそんなこと」

親が仕事で家を空ける事が多かった幼少期、風邪の時はいつも朝食や昼食は食べないか、自分で何かを作っていた。私はそこまで料理が得意ではないから、いつも長めに茹でたうどんやおじやを作って、学校に行っている時は見ることの無いお昼の情報番組を右から左へ流し聞きしながらそれらを食べた。『風邪の味』と言えば何か特別なゼリーや缶詰なんていうのはよく聞く話だが、私の場合自分の作った適当な病人食がそれだった。
白いレンゲどそれを掬って口に含む様子をじっと眺めていると、手嶋くんは居心地悪そうに咳払いをした。私は私の食事を用意していることを思い出して、レジ袋からパンとコーヒーを取り出した。

「まだ味あんま分かんないけど、落ち着く味してる。うまいよ」

一口食べて手を止めた手嶋くんが私の目を見て笑う。さっきは何だかいつも通りに見えたが、一息つくとやはりまだ本調子で無さそうだ。瞼はいつもよりとろんとしているし、頬も少し紅潮している。食べる速度も緩慢で、先程までは私を迎えようと気を張っていたのだろう。

「ええんよ、分からんもん無理に褒めんでも。食べたら寝れそ?」
「名字ちゃんが出る頃には寝るよ」
「おい!はあ、まあええわ。なんかして欲しいことある?掃除とか、洗濯とか。時間まだ余裕あるし、出来そうなことは今やっとくけど」

手嶋くんは咀嚼をしながら少し考える素振りをして、飲んこんだ後に「今は特にないかな」と言った。もしかしたら昨日のうちにユキがある程度こなしたのかもしれない。ユキにそんな甲斐甲斐しい部分があるとは思わなかったが、普段から面倒見が良いのは確かだ。

「せやったら洗いもんしておいとましよかな。あんま居ても手嶋くん休まらへんやろ」
「え、大学早く行っても暇じゃねえ?話し相手になってよ」
「ええ?まあ、暇なんは確かやし……手嶋くんが寝るまで付き合ったってもええかな」

パンの袋を破る。中指が使えない分いつもより少し力が入りにくいから、両サイドを引っ張って開けることは諦めて波状に切られたところからまっすぐに切る。苦く笑いながら「お願いします」と言った手嶋くんが私の指に気がついて息を飲んだのが手に取るようにわかった。

「どうしたんだよ。その指」

レンゲをゆっくり下ろしながら、いつもより少し掠れた声で言う。声の表層には心配と動転の色がありありと浮かんでいて、何をそんなに動転することがあるのかと少し面白くすら思えた。なにしろ、荒北先輩やユキは心配こそすれ、平常心のままだったからだ。手嶋くんだって突然の出来事に動揺してもそれを表に出すような印象は無い。朦朧とした意識では感情が声に乗りやすいのだろうか。

「ちょっと事故って指挟んだんやわ。まあ、見た目はあれやけど大したことないやつやで」
「本当?今日、俺の面倒なんて見てる場合じゃなかったんじゃねえの」
「もしそんな重症やったら来いひんよ。私は自分を一番に考えよるずっこい人間やからね」

パンをかじる。コッペパンの中からジャムの優しい甘みがじんわりと広がる。唾液が多めに分泌されてその甘さを包んだ。手嶋くんは先ほどからずっと苦い顔をしていて、こんな顔をさせるのであれば顔を出すべきではなかっただろうかと思案した。病人にはあたたかいご飯と安心が必要だと思ったから来たのだが、安心に関してはあまり貢献出来なかったようだ。



食事を終え、洗い物を終えた時手嶋くんはリビングでぼんやりとテレビを眺めていた。朝の情報番組は五割真面目なニュース、五割どうでもいいニュースでバランスをとっているようで、今は春野菜の収穫イベントが小さい子たちの間で行われたというような内容をキャスターが通る声で読み上げている。

「おもろい?」
「ぜーんぜん」

ローテーブルに合わせて床に座る手嶋くんを通り越して、すぐ後ろのソファへ腰掛ける。小さい人たちが懸命に野菜を収穫して、その後にカレーか何かを作って食べている。インタビューを受けた小さな人はにこやかに応対していて、服についた土も相まって子供の概念そのもののようだ。大きく汚れた服が綺麗に洗濯出来るのかだけは気がかりだが。
私がソファに座ったのを見て、手嶋くんも床からソファへと移動する。目線が合うと会話しやすいのに加えて、ソファは柔らかくくつろげる。

「手見ていい?」
「なんそれ?ふふ、ええよ」
「挟んだって言ってたけど、自転車整備とかしてた感じ?」

手嶋くんが私の手をゆっくりと取る。中指の先にはガーゼが貼られていて、その下の関節には湿布が貼られている。いかにも怪我をしたという雰囲気を醸し出すそのアイテムは、その下に隠れる怪我を見ずとも痛々しい。

「意味わからんと思うねんけど、図書館の可動棚に挟まって」
「え、何だそれ……」
「な、意味わからんよな」

テレビをぼんやりと眺めながら話す。取られた手をそのままにしておくと、いろいろな角度からまじまじと包帯を眺められている気配がする。運動部のマネージャーをやっていた経験から、ある程度の応急処置は学んだし、テーピングも包帯の扱いもそれなりに出来ているつもりだが、何か粗を探されているのではと内心平穏ではない。

「痛い?」
「押すと痛いから押さんといてな」
「フリ?」
「いやいや」

二人でくすくすと笑いあう。指と指が軽く絡んで、ガーゼ特有のザリザリとした感触が擦れ合う。思えば人と手を取り合うのは久しぶりだ。服を掴んだり、服越しに腕を取られることはあったものの、こうやって人の体温を感じるのは関東に来てからと言うもの機会がめっきりと減った気がする。

「手ぇあっつ」
「風邪ひいてるから」

手嶋くんは普段からスキンシップが多い方では無い。私やシキバくんなんかは多い方だという自覚はあるし、多分手嶋くんやアブくんくらいが普通なのだ。ちなみにユキはスキンシップというのか、軽度の殴る蹴るで触れ合うことはまあまあ多い。
そんな手嶋くんが手に触れてくることはおそらく珍しいことだ。中指の付け根のあたりを掴むように指を絡めて、一番下の関節をなぞる。ともすれば色っぽい雰囲気にすら取られるような触れ方で、流石に手嶋くんの顔を覗き込めば熱に浮かされ潤んだ瞳がゆらゆらと揺らめいていた。先ほど飲んだという風邪薬が眠気を誘発するものだったのだろう。

「眠いんやったらちゃんとベッドで寝えや」
「ん、でも折角来てくれてるから勿体無くて」
「そんなん言うなら帰るけど」
「えー」

絡んだ指を少し強引に握って、繋がれた手越しに手嶋くんの目を見る。しかしその目は合わず、手嶋くんはどこを見るでもなく視線を彷徨わせていた。





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