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昼も少し過ぎた頃。手嶋はまだ少し重い頭を抱えていた。なぜなら、朦朧として放ったはずの言葉がきっちりと記憶に刻まれていたからだった。しかしその当時意識の表層を掬っていたのは確かで、シラフの手嶋であれば絶対に口に出さない言葉のオンパレードだ。だからこそ、手嶋はこれ以上なく気分が悪くなっているのだが。
「最悪、マジで……」
呟いた言葉は心に反して穏やかな陽気に消える。とはいえ、手嶋は転んでもタダで起きるつもりは毛頭無い。とにかく、未だ鈍痛を訴える頭をいなすため腹に何か入れる必要があった。リビングのドアを開けると、ローテーブルの上に丸く整った字で書き置きがされていた。見ればそれは名字の字で、冷蔵庫に栄養ゼリーが入っているから小腹が空いたら食べるといいという旨が言葉尻柔らかに書かれている。
書き置きに従って冷蔵庫をあけると、庫内の一段を丸々使って栄養ドリンクが詰め込まれていて、手嶋は思い悩んでいたことも一瞬忘れて大きく笑った。
たくさん入っていたうちの二つを手にとってソファに座る。朝の記憶を手繰り、ゼリーを力強く吸う。熱に浮かされた自分はまるで他人のようで、俯瞰して見た今、手嶋は深い羞恥に襲われていた。名字も手嶋が熱で朦朧としていることは察しがついていただろうと無理やり自分を納得させるが、それでも自分の欲求が行動に反映されていたのは確かだった。常に最善を選びとるために感情や場をコントロールすることに長けているからこそ、このありえない失態は自分の中でもうまく回収しきれないのだ。
食べ終わったゼリーのゴミを捨てて、水で薬を流し込む。瓶に貼られたシールをぼんやり眺めて目に入った副作用の項目に気が立ち瓶を強く握りしめたが、その瓶はビクともしない。手嶋は自分の行動の不毛さにため息をついて、軽く着替えてから再びベッドへ身を投げることにした。
あの失言の後ゆっくりと夢の世界へ身を投げた手嶋だったが、揺らめく水面から何かを言われたことだけはぼんやりと覚えていた。何を言っていたのか、ほとんど覚えていないことが手嶋にとってもどかしいが、とにかくあの失言自体をなかったことにするためにはその言葉を覚えていないことはある意味僥倖とも言えただろう。
ただ、握られた自分の手と頬にかかる彼女の髪だけは確かに現実だったと手嶋は確信を持っていた。
○
再び手嶋が目を覚ました時、スマートフォンが震えていた。というより、その震えで目を覚ましたと言っても間違いないだろう。かなり快調になってきた具合を感じながらそれを手に取ると、ディスプレイには金城さんと書かれていた。
「もしもし、手嶋です」
『金城だ。すまない、起こしてしまっただろうか』
気遣うような金城の声の後ろで、女性と男性が話しているのが耳に入った。おそらく一人は名字で、もう一人は黒田か荒北、大穴で待宮だろうか。よく回るようになった頭で手嶋は考える。時間的にも恐らく今は部活前の空き時間で、ある程度人が集まってきた頃のはずだ。
「いえ、もうだいぶ良くなったんで。金城さんはこれから部活ですか?」
『ああ。次のレースは俺も出るから、調整で……。いや、そんな事はいい。手嶋、部にはいつから戻れそうだろうか。レースについて、改めてミーティングを行いたいんだが』
「ですね。多分、明後日……いや、明日には」
『くれぐれも無理はしないように』
手嶋は金城の耳に心地よい低音を聞きながらカーテンを開いた。すでに日は傾いていて空は赤く染まっている。はい、だの大丈夫です、だの数言交わすと後ろの声が一際大きくざわつく。何を言っているかはあまり聞き取れないが、後ろの男女が口々に何かを言い交わしていることだけは手嶋も察しがついた。何事かと耳を澄ませば電話口の金城が小さく笑い「二人に代わる」と断った。
『これスピーカーすか?手嶋ァ〜生きてるか〜』
『死んでたらどうする?親より先にうちらが遺品整理したらなな』
「好き勝手言いやがって……」
やんややんやと聞こえてきた声は名字と黒田のものだ。攻守交代したかのように金城は後ろで誰かと話している様子で、スピーカーホンになっているせいかマイクもその声をよく拾っている。恐らく待宮と話しているであろう金城は先ほど手嶋に伝えたミーティングについて詳細を詰めているようだった。手嶋は濁流のようになだれ込む音声にこめかみを揉んで、耳とスマートフォンの間隔を少し開く。
同時に、いつもと変わらない調子で冗談を言う名字の態度に手嶋は胸を撫で下ろした。発言自体は現実で、恐らく名字もそれに対して反応をしたことから伝わってしまってはいるが、少なくとも他のメンツがいる場では『いつもの』を崩さずに自分と接してくれることは間違いなさそうだったからだ。
『具合どう?朝よりマシなった?』
名字の声からは心配の色が滲んでいる。手嶋の発言を熱に浮かされた妄言と思っている可能性も手嶋は考えなくもなかった。だが、名字の性格を鑑みるに、人の発言を(しかも自らへの好意を)簡単に一蹴するようなことはしないだろうというのが結論だった。だからこそ、名字と二人きりになる場がいずれ訪れることは手嶋の心を波立たせた。とはいえ、二人きりにならないとお互いの真意を探ることもまた、名字の性格を考慮すると不可能だろう。
「おん、かなり薬が効いてきた」
手嶋から見る名字はひどく素直で、卑屈だった。言いたい事は大概口に出すし助けを求めることに対しての抵抗も無さそうだが、人の言葉を全て推し量ろうとしすぎるあまり現実に辟易としている部分を手嶋は感じ取っていた。それはどれも手嶋の性格と触れるとも交わらない部分であり、興味を惹かれる部分でもあった。だからこそ、熱の勢いで言葉やシチュエーションを精査せず彼女への想いを吐露してしまったことは手嶋にとって痛手だ。
『お前さあ、朝フラッフラだったんだって?名前じゃお前抱えらんねーんだから、そういう状態なら俺も呼びつけろって昨日言ったろ。まあなんともなかったらしいし良いんだけど』
「名字ちゃんがくるまでは割と普通だったんだって」
『そういう言い方すると私が来たから具合悪なったみたいやないの』
『実際そうだったりしてな』
なんやと、と一瞬声をあげた名字は、一呼吸置いて「そうや」と手嶋に呼びかけた。手嶋にとって、青八木と三年間付き合って来た経験から人の心情を声色から察することはより得意になっていた。心情をひた隠しにしようとする人間に対してはあまり効力を発揮しない能力のため手嶋本人も大して重要視していない才能ではあったが、こういう場においてはコミュニケーションに大きく影響を与えていた。
不意に手嶋を呼んだ名字の声は少し緊張感をはらんでいるように手嶋は受け取り、喉が締まった。次に紡がれる声を聞くのが恐ろしくて耳を塞ぎたくなったが、熱のせいで未だ重い四肢がそれを許さない。恐らく熱が無くとも自分の理性が腕を動かさなかったのだろうと分かってはいたが、まるで金縛りのようだと手嶋はぼんやり考えた。
『あのさ、帰りに様子見てったら迷惑?あ、えっと、ユキと二人で。晩御飯、まだ作るんダルいんちゃうかなって思って。ほら、ユキお料理出来るし……朝みたいな心配はかけへんのんちゃうかな』
「え?ああ、うん」
予想外の言葉に気の抜けた返答をする手嶋に、名字も黒田もカラカラと笑った。先ほどまで少し声の抑揚少なく喋っていたはずの名字の快活な笑い声に手嶋は少し混乱して、再び彼女の言葉に肯定を伝える。
手嶋が人の心情を察することが得意なように、名字は社会経験を積むうちに自らを取り繕うのが得意になっていた。
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