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部室と街中を数度往復して、その場はお開きになった。レースまではあと半月だ。あまり無茶をするのも部の判断としては出来ないとのことだった。

「……お待たせ」

着替えて更衣室を出ると、ユキがぼんやり外を見て待っていた。ロッカーに向かって何度もため息を吐いている間にユキは身支度を終えていたらしい。いつもは私が選手を待つから、今日は逆だ。

「おい、眉間にシワ寄せながら手嶋に会う気かよ。お前が病人みたいだろうが」
「う」

ユキに指をさされたかと思ったら眉間を突かれた。力が強すぎて思わず仰け反るが、彼の言うことは正しい。あまりに思い悩みすぎても彼が萎縮してしまう。それは本望ではない。私はいつも通り彼と笑って接して、いつも通りになるのだ。

「ほら、行くぞ。シャキッとしろシャキッと」
「おう……」



手嶋くんは朝よりも元気そうだった。呂律も回ってたし、背筋も伸びていた。朝は据わっていた目も、今はどこに視線を向けているかもわかる。今は、ドアを開けた私を通り越してユキの顔を見ていて、どうしても私とは目が合わなかった。合ったとしても、私と目が合うとわかるや否や逸らされた。それはとても自然な仕草で、私が彼を強く意識していなかったら特になんとも思わなかったろう。

「お、元気そうじゃん。なんだ、俺らくる必要無かったんじゃね?」
「んなこと言うなよ。上がってけって」
「おじゃましまあす」

部屋に上がると、朝来た時とさほど変化が見られなかった。とにかく安静に出来たようで何よりだ。

「ご飯にしてはちょっと早いやんな。てかなんも買って来んかったなうちら」
「あ、それもそうだ。俺買い物行ってくる」

ユキがわざとらしく声をあげた。あまりにもわざとらしくわざとらしい声を出すものだから、私も手嶋くんもその意図をすぐに察する。座りかけていた私は手嶋くんからは見えないようにユキを小突くとユキは乾いた笑いをあげた。
ここへ来る途中、私がそのことに気が付かなかったのはおそらくユキがずっと全く関係の無い話題を出し続けていたからだ。好きなバンドのワンマンライブがどうだとか、最近好きなアイドルがどうだとか、専門科目が難しいだとか、とにかく矢継ぎ早に出して来るのだ。人と話す時、積極的に話し手に回らないユキにしては珍しいとは思ったが、余計なことを考えている私をどうにかリラックスさせようとしているのかと思い内心感謝すらした自分を殴りたい。
その固まった空気の合間を抜けるようにユキはダラリと部屋を抜け出した。重く閉じられた扉の音がやけに部屋に響いた気がした。

「あー、えっと」
「手嶋くん」

二人同時に声をあげてしまい、気まずい沈黙が流れる。外はまだ雨が降っていて、室内も少しじっとりしているように思えた。

「あー、もう。ごめん、こういうの私めっちゃ嫌いやねん。ほんまにごめん。単刀直入に言うけど、こうなるってことは手嶋くんは朝のこと覚えてんねんな?」
「あ、ああ、えーっと……うん」
「……そう。提案やねんけど」

ピンと張ったピアノ線が二人の間にあるかのようだ。呼吸は浅く、指先を少し動かすだけでも痛みが伴いそうな。

「いつも通りを……最初は取り繕うだけでもいいから、お願い」

溜まったコップに塩を一粒こぼしたように、空気の水面は少し波打って次第に静まる。雨の音が静寂をより引き立たせ、私たちは視線すらも混じらせない。

「名前ちゃんがそうするなら俺も単刀直入に言うけどさ」

言葉尻が尖っている。は、と顔を上げると、手嶋くんは眉根を寄せて床を見つめていた。握りしめた拳は強く握られていることが一目でわかる。私は彼の地雷を踏んだのだろうか。一体何が地雷だったのだろう。冷静なつもりで、彼の心を探るつもりで、皮膚は厚く、心は複雑だ。自分の状態ですら、自分の心ですら、本当は何も分かっちゃいない。

「それって、俺の感情全部無かったことにしてくれってこと?あのさ、こんな言い方はもしかしたら違うのかもしんないけど、俺のことをまるきり無視してない?」
「……」

手嶋くんが感情をむき出しにして怒っているのを見るのはこれで二度目だ。一度目は、私が真波の家で一泊してきた時。あの時彼は私のことを心配したらしいけれど、今回は心配とか、そういう次元ではない。彼が、彼でいるための怒りだった。どれだけ落ち着きを取り繕っていても、声の揺れや語気の強さがそれを物語っている。
私はただ、彼と数日前のように、無邪気に笑いあっていたいだけだった。彼の気持ちを知らぬふりして、彼も自らの気持ちを私に悟られないよう努力して。
だが、一線を超えてしまった今、「ふり」も「努力」も無い。そこにあるのは不干渉、感情の凍結、そして歪みだけだ。それでも私は構わなかった。いずれその歪みは体に馴染んで、違和感は消えて行くものだと思っていたからだ。もしかするとその歪みに慣れて来た頃、手嶋くんは別の人間に好意を持つかもしれないし、なんならそこが我々の目指すゴールなのではないかとすら思っていた。ゴールが来ようとも、私たちが仲良くいられることが。
手嶋くんは違ったようだが。

「俺が……俺が、名字ちゃんを好きだ……ってことを無かったことにするのは正直無理だし、そこをどうにか封じたって、多分、俺はもう前みたいに名字ちゃんと接することは出来ない」
「……」

だから聞きたく無かったのだ。あの時、振り返らないでドアを開ければ良かった。そうすればお互いシラを切れた。

「だったらいっそ、せめて、ちゃんと俺をフッて……そしたら俺、まあ、少しの間名字ちゃんの顔は上手く見れなくなるけど……今と同じとはいかないにしても、友達でいられる」
「……違う」
「何が」

私は今が一番大切で、今の関係だけを追い求めていたのだろうか。自分の言った拒絶の言葉があまりにも冷たくて、自分でも驚いた。違う。一体何が違うのだろうか。手嶋くんの言った未来か?それとも、私が望む歪んだ関係がだろうか。
私は手嶋くんの言う好きだの、愛だのを直感的に理解が出来ない。出来ないのか、未だ出会っていないのか、見ぬふりをしてきたのかは定かでは無い。
頭痛がする。私はなぜ彼の好意を無下にしようとした?私は彼の好意には本当に応えることが出来ないのか?愛って何だろう。恋って一体どういう気持ちを指すのだろう。



昔、告白されて付き合った人がいた。三つ年上の男の子で、近所に住んでいたからいつも遊びに付き合ってくれる、いわば幼馴染だ。私と、光ちゃんと、彼とでよく中あてをして遊んでいた。彼が高校に上がってから、急に私のことが好きだと言った。私は彼の好意に応えたくて、好きをわからないまま「いいよ」と言ったのだった。
その後、いつもは行かないようなオシャレなカフェで並んで談笑をして、ここに光ちゃんがいないことに違和感を覚えた。手を繋いで、私の両手がふさがらないことが不思議だった。初めてキスをした。映画でしか見たことないその行為は、思ったより湿っていて、なんだか思ったよりロマンチックじゃなかった。彼が濡れた瞳で私を見ている時、私は明日提出の課題のことを考えていた。
初めて体を重ねた。私はませた子供だったからその行為で必死に彼の期待にこたえようとした。彼は優しいから、無理に何かを要求することはなかったし、痛がる私に何度も日を改めようかと聞いてきた。でも私はそれを突っぱねて、よがる演技まで上乗せした。実際気持ちよかったが、多分、気持ち良さは見ていても、彼自身を見ていなかった。きっと、彼自身もそうだ。
どれだけ優しくてもその行為は一方的だった。性急であったのも確かだし、今思えば彼にとって私は一番身近な穴だったのかもしれない。子供にとって三年の差はそれだけ大きく見えるはずだからだ。その証拠に、一度体を重ねて以降、私は彼とあまり顔を合わさなくなった。光ちゃんは彼の態度の急変に戸惑っていたが、多分今となっては忘れているだろう。
ともあれ、愛がなくてもセックスは出来ると分かった私は、求められたら応じるようになった。もちろん相手は選んでいたが、基準は単純明快、清潔感とまともな頭があるかどうかくらいなものだった。サセ子だなんだと言われなかったのはこの辺りが関係しているだろうと思う。誰も、自分が一度のセックスでフラれたことなんて吹聴したくないというのもあった。
恋愛感情を向けられることは多々あったが、みんな顔も名前も知らないような人ばかりだった。友達は多分、少ない方だったし、その頃から仕事も始まり他人への興味も失せていっていた。
光ちゃんが入ってひどく楽しんでいるらしい自転車競技部にこれ幸いと入部してからというもの友人は増えたが、光ちゃんが居てくれたからかなんなのか、部員が私へアプローチしてくることはあまり無かった。(水田あたりは悪ふざけで私に深窓の令嬢チャレンジとかいうくだらないことをしてきたりはしたが)
箱根に来てからは初日の挨拶からして変人だったからか、あまりおおっぴらに好意を向けられることは無かった。すぐに自転車競技部に入部したのもあるだろう。いつも一緒にいた同年代が恋愛事にマイペースだったのは正直なところ助かった。絶対誰かに好意を持たれるなんて思うつもりは全くないが、普段の様子からしてピリピリする必要も無いとすぐに分かったからだ。何か一本に集中しているということは素晴らしいなと感じた。

恋愛ごっこなんかをしたから、幼馴染の彼は離れてしまった。恋愛なんかがあるから、私は変なイベント事の槍玉にあげられた。
私は、親愛は知れども、恋愛は知らないままここまで来てしまった。



「違うって、どういうこと?」

手嶋くんの問いかけに落ちていた意識が浮上する。勢いで視線を床から上げると、手嶋くんが口をへの字にして私を見ていた。思考の間、私は息を詰めていたらしい。深呼吸するように深く息を吸うと、手嶋くんが怪訝そうな顔をした。

「私は」

空気が全身に回って、霞んでいた視界がクリアになる。手嶋くんは感情が高ぶっているからか、目が潤んでいた。幼馴染の彼が私を見ていたあの瞳を少しだけ思い出してかぶりを振った。





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