51(終)



今の環境が私にとっての最良だと私は勝手に思っている。異性だのなんだの、そういったものを抜いて、お互いリラックスできる関係。その関係が崩れたのはいつだったのだろう。いや、崩れたという表現はあまり、自分にとってもしっくりきていないのだけれど。

「私は、恋愛という形が冷めんかったことを知らんくて」

自分が何を言っているのか最早わからなかった。頭がこんなに動いているのに、思考がまとまらない。いろんなことを考えるようでいて、何も考えられない。

「ていうか、私自身、れ……恋愛とか……いや、誰かと付き合ったりとかそういうことはあったんやけど……私がその人を好きやったかどうかとか、全然、考えてへんかったというか」

自分の柔らかい部分を話すのは得意ではない。いつかの夜、手嶋くんに言った言葉だって長く引きずったくらい、苦い思い出だ。なのにまた同じ轍を踏もうとしている。

「でも、分からんからって、繋ぎ止めたいからって、ルールも知らんと恋愛の土俵に上がっても結局試合になんかならへんってことは分かってんねん」

手嶋くんは動かずに私の言葉を聞いている。瞬きだけがゆっくりと彼を動かしている。自分の言葉で彼の息遣いが聞こえないことが不安だった。いつも、誰かと喧嘩するときにはこんなこと絶対に思わないのに。これは喧嘩ではなく、別の行為なのだと言っているかのようだ。

「正直、手嶋くんの好意を断って、関係性を断つ可能性も考えてたし、実際それが一番最良やと思ってた。直前まで。でも、いざ手嶋くんを前にすると、その可能性が一番ありえへんやろって」

細く息を吐く。雨の音が自分を責め立てているようだった。

「自分に好意がある人はなるべく、気がついた時から離れるようにしてたのに、手嶋くんのそばはなんとなく居心地良くて……多分、手嶋くんが頑張って私を理解しようとしてくれてたからなんやと思う……て言ったら責任の所在を手嶋くんに投げてるみたいで、どうかと思うねんけど。とにかく、ごめん、私、こんなん初めてで、ほんまにごめん……」

縋るように手嶋くんを見る。きっと眉間のシワが強くなっているだろうという諦めがあった。
しかし、予想に反して手嶋くんは大きく目を見開いて、顔を真っ赤に染めていた。あまりにも予想とかけ離れたその顔に、出そうだった涙が引っ込む。

「あ!ご、ごめん、あの、今あんま顔見ないで……」
「は、え?何なに、どういう……ええ?」

パーカーの袖で顔を覆って明後日の方向を見る手嶋くんが、なんでそんな表情をしているのか全く分からずに目をそらせない。今の発言のどこに、そんな顔をさせる要素があったのか。

「や、だってなんか、すごい……すごい恥ずかしいこと言ってるからな!名字ちゃん……怖え……」
「いや、全然分からへんねんけど」
「あんな告白じみた話しといて!?いや、名字ちゃんにとってはそんなことないのかな……あのさ、手とっていい?」

こんな時にも、いや、こんな時だからこそ彼は手ひとつ取るのに許可を取る。そういう繊細な心遣いが居心地をよくしていたのだろう。
その問いかけに肯定すると、先ほどまで自分の顔を隠していた手を伸ばしてゆっくり私の手を取る。あらわになった顔はまだほんのり赤い。

「名字ちゃん、好きだよ」

手を握って、しっかり私の目を見据えて手嶋くんは言う。取られた手は少し汗ばんでいる。どちらの汗か、今となってはよく分からない。息が詰まる。

「色んなこと考えて、色んなこと頑張って、他人のことばっかり気にかけて、でもちゃんと自分の言葉を持ってる。嫌なことをされても多少我慢しちゃうところが自分でも嫌だと思ってて、ちゃんと拒否しようと努力をしていて、てらいなく感謝の言葉を言える。俺もさ、名字ちゃんと一緒だとすごく居心地がいいんだよね。なんというか、名字ちゃんの強い芯に勇気を貰ってる。だから俺は名字ちゃんのこと好きだと思ったんだよ」
「それが好きってこと?」
「まあその、気軽に手を繋げればいいとか、君の中の俺の優先順位が少しだけ上がればいいとか、誰かを呼ぶ時の一番になれればいいとか、そういう事も思うけど……それは俺の好きがこうだって話だから」
「へえ」

握られた手は力なく握られたままだ。手嶋くんは私より少しだけ体温が高いが、照れからくるものなのか、発熱の余韻なのか。しかし、多分、私の手も負けじとあついのだろう。自分の心臓の音が耳に届くくらい、自己主張をしていた。これは非日常への緊張か、避けていたものに対する警鐘か、それとも今まで感じたことの無かった感情への高揚か。

「俺もさ、人と付き合う時ってそんなに深く考えたことって無いよ。だから今、名字ちゃんの話を聞いてこんな人も居るんだなあって思ったし、名字ちゃんの思う好きが俺とは違うのかもしれない。今、俺が告白じみた話なんて言ったけど、これは俺の尺度なわけだし」
「うん」
「でも、もし名字ちゃんが俺の好きを知ろうとしてくれるなら、一歩とは言わないから……半歩だけでも、俺のそばに来て欲しい。それで俺や黒田と名字ちゃんの関係が全部壊れそうだって言うんだったら……俺は名字ちゃんが言うように、俺の好きを全部無視するように頑張ってもいい。その時名字ちゃんは足を半歩引くだけでいい」

どの選択肢を取ってもどちらかがどこか傷つき、何かを得るだろう。それを分かっていて、彼はこんな提案をしている。一見柔らかな意見に見えて、お互いが傷つくつらい折衷案だ。

「うちがいつか絶対愛がわかるようになるって保証はあらへんよ」
「ま、分からないうちは緊張感を持っておくとするよ。でもまあ、それは何にしたってそうなんだろって俺は思うよ。リスク無くして得られるものはないし、人の感情なんてそれこそ読めたもんじゃない。読もうという方が愚かってもんだろ?」
「参謀役を買って出るよなやつがそういうこと言うかね……」

手嶋くんはそれに軽く笑って、軽く握られていた私の手を話す。手の手の間にまだ熱が浮いているような気がした。

「んあー、よし、わかった。一気にがんばれへんしゆっくりでもええかな?はー、疲れた……」
「疲れたって……」

床にぺたりと座っていた足をだらりと崩して、倒れるように床に転がる。毛の短いカーペットが背中を擦り、心地よい刺激にようやく変に浮ついていた心がようやく地に足がつく。深くついたため息で体の力をゆっくりと抜く。

「あのさあ、一応聞いとくねんけど」

身へ引き寄せていた腕をだらりと手嶋くんに向けて伸ばす。彼に触れるわけでもない手のひらは気の抜けたように少しだけ丸まっている。

「手嶋くんは私とキスしたり、セックスしたりしたいん?」

自分の手のひらから手嶋くんの顔、手嶋くんの顔から壁にかかった時計へ視線を移してそうこぼすと、手嶋くんは身を固くしてう、だかえ、だか漏らす。それから一向に何かを言いたがらない手嶋くんの顔へ再び視線を戻せば、先ほどの赤面なんて目じゃないくらいに顔も、耳も、指先も真っ赤にしていた。

「そんな赤くなることでもなくない?」
「あ、ある、あるだろ!なんなんだよその冷静さ!」
「いや、まあ……なんていうか……や、や、こんな話わざわざせんでええやん。手嶋くんがそこんとこどうなんか聞きたいねんて」
「……………………………。したいけど」

真っ赤な顔で唇を尖らせて、手嶋くんはぼそりと零す。雨はまだ強く窓を叩いていて、その音に混じって消えてしまいそうなくらいの声だったが、先ほどまでの張り詰めた声とは違って絞り出すような声に思わず吹き出して笑う。手嶋くんはそんな私の様子を見て、むっつりした顔をよりむくれさせた。

「ふ、ふふ。ごめん、あは。いや、わかっとったことやねんから、ええねん。あはは。でも、愛と性欲とかの話を私に聞かせてくれた人の行き着く先もこうなんやなって思うとちょっと不思議で、面白くて」
「悪かったなー、ただの普通の男で」
「まあ、そういうところもゆっくり理解してくわ。手嶋くんも頑張って私に理解させてな」
「なんだそれ……」

たくさん笑って疲れた頃、だらりとスマホを手に取ると通知が数件来ていた。どれもメッセージアプリのもので、顔認証をして出て来た名前はどれもユキからだった。
そういえば食べ物を買いにいくと出て行ってからそこそこの時間が経っている。雨が振っているからというものの、近くのコンビニへは歩いて10分もかからない。アプリを開くと、私と手嶋くんが入っているグループに飛んだ。

『おい』
『おい、話し合いは終わったかよ』
『寒い』
『なあ』
『(不在着信)』
『おい!!!』

数分おきに送られていたメッセージは段々と怒りと焦燥を帯びていることが文面だけでもわかる。夏へ足を踏み込んだ季節とはいえ、雨が降っているとさすがにまだ肌寒い。

「うわ!手嶋くん、ライン見て」
「え、何?ごめん俺スマホ寝室だわ、何かあった?」
「いや、ユキが……」

伏せてた体をがばりと起こしてメッセージを返信する。ごめん、ひと段落したからと。するとすぐに玄関が開いて、怒りと雨粒をまとったユキが部屋に転がり込む。声こそあげなかったが、こちらを見る視線は鋭い。

「お前ら……俺のこと忘れてたんじゃないだろうな」
「ちゃうちゃうちゃう!いや、半分そう」
「殺すぞ……人が気使ってやってんのに……」

脱力したユキは座ることなく食材を冷蔵庫に仕舞うべくキッチンへすぐに足を向ける。私はとにかくその後を追ってキッチンへ入った。レジ袋の中身は温めて食べられるお米と、鶏肉と野菜と牛乳。何を作るつもりなのだろうか。

「シチュー作るから手伝えよな。ったく……で?」
「でって何」

ユキが冷蔵庫を開けて、中にゼリー飲料が大量に入っていることに目を丸くする。私が朝、この冷蔵庫に詰め込んだものだ。ユキが呆れたような視線をすぐ私に寄越したあたり、これをやったのが私だということはすぐに分かったようだ。まだ三年しか一緒に過ごしていないというのに、行動パターンが読まれている。

「解決したのかって。まあ、してなくても生活に影響が無きゃ別にいいけど、絶対それは無理だったろ」

呆れたようなユキの声には心配が混ざっていることを私はちゃんと知っている。私ほど歪んでいないだろうが、ユキはユキで今のこの環境を変に崩すことを望んでいなかったのかもしれない。それは私が手嶋くんと交際するとかしないとかという話ではなくて、この三人の誰かが欠けることが信じられないというような。
私はユキに大きくピースサインを突きつけた。明確に「彼氏・彼女」になるのかといえば首をかしげる関係で、「友達」というにも歪だが、とにかく二人が二人とも同じ目標を持って、お互いが納得するような条件付けで歩み寄ることが出来たのは確かだった。

「フーーーン……。ま、ならいいわ。お前ら、俺にでっけー借りつくってること覚えとけよ」

冷蔵庫から顔を上げたユキはキッチンの入り口に笑った。そこには手嶋くんが立っていて、彼は眉を下げて苦く笑った。そこにどんな感情が含まれていたのか私の知るところではない。手嶋くんとユキの間でもきっと色々なやりとりがあったのだろう。私がユキを頼り、ユキが私をここぞという時に支えて、隣にいてくれたように。
満足げに笑うユキはまな板と包丁を出して野菜の封を切っていく。私はその肩に体ごとぶつかる。ユキは体幹がしっかりしているから、たたらを踏むこともない。

「おい、包丁持ってんだからあぶねーだろ」
「ユキ、好きやで」

私の言葉を聞いてユキは鼻で笑って、手嶋くんは少し狼狽したような声をあげた。

「あー、知ってる知ってる。どけって、あぶねーから」
「ふふん、はーい」

ユキは私の言う好きが恋愛感情を含まないことを多分わかっている。もし私が手嶋くんと悶着を起こしてなくても、高校の頃から私とユキは友達なのだとわかってくれている。それは多分、アブくんも、シキバくんもだ。だからこそ私はあの高校生活を心底楽しめたのだから。
そして、今それを表明することを止めようとしないユキは変な人で、そういうところが信頼できる。

「手嶋くん、お夕飯はシチューやって」

キッチンの入り口でぼんやり突っ立っている手嶋くんの手を取る。その手は一瞬びくりと震えて、すぐに力がこもった。

わからないものをわかろうとする時、知らないものを知ろうとする時、そして、人とわかりあおうとする時、自分が動かなければ意味がない。これは仕事をしていてもわかっていたはずなのに、私はどうにも臆病になっていた。当たって砕けることが怖かった。何者かになりたくて、何者かになれないことが怖くて、足がすくんでいたんだと思う。何かを求めることは何かを諦めることと表裏一体で、どちらかを恐れてしまったら何も得ることはない。それに、何かを得る時は即物的であるとは限らない。そんなことの連続のはずなのに、ほかの人よりも色々なことを経験している分、失うことばかりを見てしまっていた。
もちろん、全てが成功するとは限らない。長く携わってきたプロジェクトが公開前夜に頓挫することだって往往にしてある。全てのリスクを知る必要はないが、なぜそうなったのかを分析すればどこかでその経験は役に立つ。基本のキは何もかもに影響する。なのに、忘れてしまうのが基本だった。だからこそ初心忘れるべからずなんて言葉があるのだ。
恋愛関係に頑張る必要はない。だが、私も知ろうとするのなら、知りたいのなら、多少の痛みを覚悟しよう。

「手伝えつってんだろ馬鹿」
「はいなー」







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