IHに行こう
いつのまにか雨ばかりだった日々は終わり、気温は当たり前のように30度を超えるようになった。殺人級の紫外線に辟易しながらも部活に参加し、インカレ大会へ向けてのトレーニングに専念しはじめた頃、七月も末、高校のインターハイが始まった。
私たちは事前に連絡を入れて、選手と同じホテルに部屋を取っていた。手嶋くんは手嶋くんで青八木さんと示し合わせて会場近くに宿を取ったと言っていた。この三日間、私たちはライバル校のOB、OGだ。すれ違えば話くらいはするだろうが、積極的に一緒にいることはしないだろう。
流石に彼氏(と言っていいのか未だにわからずにいるけれど、便宜上そう言っている)がいる身で異性と部屋を同じにするのはどうかと思い、三人とは部屋を分けた。とはいえ殆どの時間を三人の部屋で過ごしているので分けた意味はあまり無い。
「え、名前、総北の元キャプテンと付き合ってるの」
前日入りして明日からいよいよインターハイだという夜、後輩たちと少し話をした後に同輩だけで一室に集まって話をしながら各国のロードレース映像を眺めていた。雑談ついでに近況を話せば、アブくんが長いまつげに縁取られた目を丸くしてそう言った。
「うん、ついこないだから。話すと長いし話さへんけど、そんな感じ」
「え、えー! すごいすごい、純ちゃんと名前ちゃんが? へえー!お得だね!」
「何がやねん」
シキバくんはベッドの上で小さく跳ねながら私たちの関係を喜んでいる。素直に喜べるような関係ではないので複雑だが、シキバくんの気持ちはありがたい。ユキはそんなシキバくんを窘めている。
ユキはこの件に関して影の立役者みたいなものだから言いたいことは山ほどあるのだろうが、口を噤んでいる。それは私への配慮か。
「でも意外だな、君ってちゃんとまともに人と交際とかするんだ」
「し、失礼な……」
コップに注いだ水を一口飲んでアブくんは面白そうに笑う。確かに高校の頃、私が適当な人付き合いをしていたことを話した覚えはあるが、こちらに来てからというもの、あまりそういった行為はしていなかったというのに。
「あ、名前。それ絶対インハイ中悠人に言うなよ」
シキバくんと絡まって技をかけていたらしいユキがふと顔をあげて言う。悲鳴をあげるベッドのスプリングは全く色っぽくなく、それよりもシキバくんの悲鳴の方が響く。長い手足がうまく一箇所にまとめられて、まるでシキバくんが風呂敷のようになっていて少し感心した。
「なんで?」
「なんでも」
意味がわからなくてアブくんに視線を向けると、アブくんもよくわからなそうに首を傾げていた。悠人はこういった話題が苦手なのだろうか。女の子に黄色い声をあげられるのも苦手なようだったし、そもそも女性関係みたいなもの全般が苦手な可能性もある。変に彼の精神を揺さぶるつもりもないし、そもそも純太くんとの関係を無闇矢鱈に人に話すつもりもないから構わないけれど。
「ふーん?まあええわ。うわ、もうこんな時間やん。うち部屋戻って寝な、明日私が運転手なんやった」
「ああ、おやすみ。明日はよろしく」
「おー、まかせな」
ホテルのドアは少し重い。体を使ってゆっくりと押し開ければ、すぐそこに真波がいた。この部屋の主を訪れたのだろうが、私が出てきたから少し驚いた様子だった。
「真波。もう寝えや、遅いで」
「名前さんもね」
真波は少し見ないうちに大人びたと思う。いや、昔からそういった部分はあったのかもしれないが、部にいる間はあまりその顔が表出しなかった。しかしキャプテンとしてしっかりしなければならない場面が増えたからか、二年連続の雪辱を晴らすためしっかり前を見据えている様子が目に見えて分かる。今、この部屋を訪れたのも決意の表れだろう。
開けたままだったドアから半歩下がって、部屋の中へ声をかける。アブくんがすぐに顔を出して、真波を見てから力強く頷いた。私はそれを横目にドアをすり抜けて、自分の部屋へ戻る。選手でないからこそ分からない領域に少しだけ寂しさを覚えたが、それは自分は選手の立場を選ばないと決めていることもあってすぐに霧散した。
「名前さん」
部屋へ半歩入った真波がドアを押さえたまま私へ声をかける。その声に振り返ると、不敵な笑みを浮かべた真波がいた。悪巧みしているようなその顔に私も釣られてニヤリと笑った。目にもの見せてやるぞ、という叩き上げの精神を感じて心強い後輩を持ったものだと思う。踵を返して真波へ歩み寄って、拳を腹に押し当ててやった。鍛えられた腹筋は私の手を強く押し返す。
「気張りなはれや」
「まばたきだってさせてあげませんよ」
○
うだるように暑く、息もつけないほど熱いレースだったと思う。車でレースを追い、一瞬たりとも目が離せない、映画のようだとすら思った。しかしそんなレースも終わりが来るもので、どうしようもなく高揚した気持ちだけが残されていた。
「あ、私今泉さんに息子をよろしくて言われてんにゃった」
「何だそれ」
取引相手兼お友達の今泉さんにインターハイを見に行くと言ったら是非息子と話してみてくれと言われていたことをふと思い出した。表彰式までの少しの間、入着した選手たちは少しの間手持ち無沙汰になる。その隙をつこうとしていたのだった。
純太くんに連絡を取ると、すぐに来いとの返事が来た。多分今手嶋さんは総北のテントにいて、丁度いいタイミングなのだろう。スマートフォンをポケットへ突っ込んで、シキバくん達から離れた。
「あ、名前ちゃん」
「おいすー。あ、青八木さんや! えらい久しぶりやなあ」
マップを眺めながら総北のテントへ向かっていると、近くから純太くんの声がする。テントから突き出た学校名を見れば、総北高校のテントは既に目と鼻の先だった。
純太くんと青八木さんのもとへ駆け寄ってテントに向き合う。頭に保冷剤を当てて足に湿布をこれでもかと貼った選手達の視線が突き刺さっている。私は彼らのことをよく知っているが、選手達はライバル校のマネージャーなんて眼中に無いだろうから当然だ。
「え、え、パーマ先輩! もしかしてその人、彼女ッスか!?」
「え!? マジで!?」
赤くて小さくて関西弁の彼、鳴子章吉が素っ頓狂な声をあげる。というか純太くん、後輩になんという呼び方されているんだ。
「それはそうなんだけど、別に彼女を紹介したくて呼んだ訳じゃなくて……」
「鳴子。鏑木。名字さんに失礼だろ」
私は今泉さんの息子に会いに来ただけだから、あまり注目の的になるのは気が引けて言葉を発せずにいると、青八木さんがピシャリと言い放つ。青八木さんはどちらかというと無口で、人に注意をするタイプじゃないと思っていたから少し驚く。「すぁせん!」と素直に頭を下げる二人に「いやいや……」としか返せなかった私が子供のようだ。
「こちら、元箱学自転車部のマネージャーの名字名前さん。で、こっちが……まあ知ってるだろうけど俺らの後輩」
紹介されるままに頭を下げる。箱学のマネージャーと聞いて数人ピンときたらしい。箱根学園自転車部の設備が充実していることは有名で、私が入ってからというものそれに拍車がかかっているのは雑誌などでも小さく取り上げられたから、知ってる人は知ってるのだろう。
「今泉、ちょっと」
「はい?」
「なんやまたスカシかいな!」
ブーイングをする鳴子さんはえらく元気に見えるが、先ほどまでの熾烈なレースで消耗していることは知っていた。その証拠に、足に貼られた湿布の量はここにいる誰よりも多い。名前を呼ばれた今泉さんは不審そうな顔でゆっくりと立ち上がる。
「あ、そのままでええよ、しんどいやろ。そんな大した話しに来た訳でも無いねんし、ゆっくりして」
「関西弁……」
「ああ、元々京都の人間やって。よお知ったはるやろ、京都伏見。高一までそこにおったんよ」
京都伏見、と聞いて空気が張り詰める。今年の京都伏見も彼らの大きな障壁となったのは側から見ても分かるくらいで、三年となった御堂筋さんがバケモノ級に強かったのも知っている。彼らの反応からして、一緒に走った者としてその強さは身にしみているのだろう。
「まあそれはどうでもええのんよ。私お仕事で今泉さんと仲良くしてて、インハイ見に行きますねん言うたら俊輔をよろしく!言われてもーたんで、よろしくしに来たんよ」
「ああ、父さんが言ってた女の人ってあなたのことか」
「よろしく言われてもどうよろしくせえって話なんやけどな。ははは」
カラカラと笑う私に目の前の今泉さんは戸惑いを隠しもせず眉根に皺を寄せている。「なんなんだこの人」という声が今にも聞こえて来そうだ。
「何やっとんねん、名前」
聞こえて来た。しかしその声は背後からで、今泉さんの声でもない。振り返ると幼馴染が呆れ顔で立っていた。ついでに頭が軽く叩かれて、懐かしい感覚に驚いた。
「光ちゃん! 来てたんや。あ、えっと、今泉さん。お父様によろしく。私そんだけ言いに来てん。ごめんな、しょうもない付き合いに巻き込んで。もし私が手伝えそうな問題あったらいつでも連絡して。あ、これ名刺」
「どうも……?」
矢継ぎ早に捲し立てて、今泉さんへ名刺を押し付ける。ぽかんとした様子の彼らに手を振って、光ちゃんの手を引きその場を離れた。光ちゃんは抗議の声を上げながらも私の手を振りほどかずについてくる。
総北のテントから少し距離を取って光ちゃんへ向き合う。最後に彼を見たのは昨年の秋だ。
「久しぶりやん。来てんねやったら言うてよ。新開先輩らも来てはんねやろ?」
「まーな。名前こそ、来るんやったら言うてくれたらええのに」
光ちゃんはなんだかんだ言っても昔と変わらない。関東に来てもその口調は変わることなく、急に京都へ帰ったみたいだ。
「京伏のテントには行ったか? 喜ぶで、あいつら」
「そら無いわ! 光ちゃん、どんだけ私が御堂筋さんに嫌われてるかほんまに分からへんの? 血ぃ見るで、本気で」
私が転校するまでの数ヶ月、御堂筋さんとはそれだけの期間しか一緒に活動していないけれど、関係はどうにも劣悪だった。それは多分、私と御堂筋さんの性格の悪さが似通っていたからだと思う。私はその性格の悪さを仕事や喧嘩でしか見せなかったが、御堂筋さんは自転車に対して強く見せていた。個人的にそれで部を引っ張れるというのならばどうだって良かったのだが、とにかく私に対する当たりの強さは気に食わなくてよく衝突した。マネージャーというものは選手のために奴隷のように働くべきだと言われた時には、本当におおごとになるかと思うくらいに険悪な雰囲気になったことを今でも鮮明に思い出せる。
「とにかく、京伏のテント行くのはやめとくわ。それより新開先輩らに会いに行こかな、な」
「お前なあ……ま、ええか」
昨年は三日間インターハイを見に来ていた新開先輩達も今年は最終日だけ応援に来ると言っていた。彼らが言うには「自分たちはもう卒業して二年も経つのだから、知らない部員だっているだろうし、王者転落世代がいつまでも出しゃばっていられない」とのことだが、福富先輩世代の強さは今の箱学自転車部にも言い伝えられていると思う。
「近くにおるって……どこや?」
「あ、あれ東堂さんちゃう? 東堂さーん!」
あたりを見回しながら二人で並んで歩く。沢山の学生が往来する中、一際目立つ白いカチューシャがちらりと見えた。
「呼んだか、俺を! 登れる上にトークも切れる! さらにこの美形! 天から三物を与えられし山神天才クライマーこと東堂尽八を!!」
「おっ、いつもとちょっとちゃいますね。スペシャルエディション? ファンサあざっす! あはは」
「名前ちゃんではないか! それに君は確か……京都伏見の!」
もはや懐かしい東堂さんのお決まりの口上に拍手をする。隣の光ちゃんはといえば目をぱちくりさせて大層驚いていた。硬派な光ちゃんからすると、東堂さんのこの変人面白軽薄さは驚いて当然だ。
「ちゃんと会うのは久しぶりですねえ。あ、福富先輩、新開先輩も」
「名前、光太郎も」
人の波をかき分けて彼らの前へどうにか飛び出る。私と光ちゃんが幼馴染なことは明早二人はよく知っている。首を傾げる東堂さんに幼馴染なのだと紹介して、輪に混じる。私以外の四人は私よりずっと背が高く、顔を見上げると抜けるような青空も一緒に目に入った。
「みなさんお元気そうで何よりですわ。インカレ大会ではどうぞお手柔らかに」
「はは、思っても無いことを」
「高校を出ても調子が良さそうだな、名前ちゃんは」
「おかげさまで」
ギラギラと輝き続ける太陽はまるで彼らのようだ。いつも勝負に燃えていて、他の追随を許さぬが如く鍛錬に明け暮れる。
「そういえば手嶋くんと付き合い始めたんだって? おめでとう」
「は、何で知ってんすか」
「雪成が言ってた。全然長くない筈なのに長かったって笑ってたよ」
即座にユキのしてやったりな顔が思い浮かんで呆れる。別に隠すようなことでもないし、ユキもそれを分かっていて新開先輩へリークしたのだろう。新開先輩も別に純太くんと仲がいい訳でもないのに、やけに嬉しそうだ。
「そうなのか、名前ちゃん。おめでとう。彼の登りは目を見張るものがあったからな、一緒に走れなかったのが残念だとこの俺が思うくらいだ!」
「はは。彼が聞いたら喜びますよ。……光ちゃん?」
「……そういうの、名前にはまだ早いんとちゃうか?」
一向に口を開かない光ちゃんを振り返ると、真っ青な顔でそんなことを言うので私も思わず閉口する。光ちゃんは硬派で、あまり誰かと付き合ったとか、そういうことを聞かない存在ではあったが、まるで昭和のお父さんのような発言に私だけでなく新開先輩も東堂さんも目を丸くしていた。光ちゃんのこんなところ、あまり見れたものでも無いのだろう。そして新開先輩たちも私の奔放なところを小耳にくらい挟んでいるはずだから、より驚きが増しているのだと思う。
「はは、光ちゃんのそういうとこほんま引く」
「な……」
京都の古い木工所の生まれで根っから古い体質な光ちゃんと私は実はソリが合わない部分も多い。特に人との交際に関しては昔からそうで、私は中学に上がったあたりで薄々それを感じて光ちゃんにそういった話題を出さなくなっていた。もう一人の幼馴染について光ちゃんに話さなかったのもそういう経緯があるのだが、もちろんそれを光ちゃんは知らない。
光ちゃんが狼狽している間、タイミング良くスマートフォンが震えた。一言断って画面を見れば、ディスプレイには「泉田」と映されていた。
「もしもし」
『あ、名前。今どこにいるんだ。そろそろ戻ってこないと撤収出来ないだろう』
呆れた様子のアブくんの声でようやく集合の時間を思い出す。私たちは今年、顧問にいいように使われてしまい車の運転などを任されているのだった。本来こんなことする必要は無いのだが、私たちのホテル代とガソリン代を出すと言われてしまったので逆らうのはやめにした。
「ごめん、今行くわ。……すんません、私ちょっと用事があってそろそろ戻らなあかんっぽいです。この石像、任せますんで……ほな……」
「え、ええー……」
← / →
back / top
ALICE+