02

althaea0rosea

地獄の底を知る前に、
楽に死ねるものだと思っていた。

「……、……?」
目覚めた私を待ち受けていたのは恥辱だった。目を開けてすぐに自分の体にとてつもない違和感を覚えた。だから、天井が家の壊れかけた照明と違って明るいこととか、床の感触がいつもと違ってふかふかで柔らかいことなどは少しも気にならない。
それより、目の前で緑髪の人が私の体を挟み込むようにベッドの上に膝立ちして、半ば覆い被さるように手や脚を持ち上げ丁寧に観察しているのは、どういうことなのだろう。理解が及ばない。
「……あ、の、」
私は眠たい頭に鞭を打って、枕に頭を沈めたまま自分の体に視線をやった。その時目にした光景があまりにも信じ難く、夢と現実の境が曖昧だ。

あの日……といってもあれからどれくらいの時間が経過したかは見当もつかないけれど、あの日、浴びた返り血は綺麗さっぱりなくなっているようだ。確認するために服をめくるまでもない。
なぜなら、今の私は服を何一つ身につけていなかったから。

緑髪の――たしか、そう、殺し屋さん、だったっけ――は目蓋を開けた私にいち早く気づき、何食わぬ顔で言った。
「いい夢見れた?おはようさん」
「な、な、なに、して、……っ」
「取り調べ……ちゃう、身体検査?これもなんか違うな。健康観察?みたいなもんや」
自分で自分の行動に首を傾げている。なんだ、それ。私の方が意味分からなくて混乱しているのに、この人は私の反応など無視して体中のあられもないところを舐め回すように見ている。普段は絶対に人に見せられないところまで。手や脚を持ち上げて、手袋越しに、乱雑に握ったりして感触を探っている。
「ふ、服は……」
「すぐ終わるんやから我慢せえ」
「……ぅ、……」
抵抗しようと試みるも、自分の意思に反して体があまり動かない。寝起きのせいで運動機能が低下しているのだ。……ああ、それだけが理由ではない気がする。意識を手放す前に、薬品のような何かを嗅がされたような……朧気な記憶が、ある、ような。当然私にはそっち系の知識などないから、あれがなんだったのかは想像もつかない。
でも、マフィアの人なら普段からそういった危ないものを持ち歩いていても特におかしいことはないのだろう。……そうなのか?知らない。適当に言った。
とにかく私はプライバシーのへったくれもない健康観察もどきをされながら、早く時間が過ぎるのを待った。
「本当はな、うちの優秀なミモザ先生に診てもらいたいとこなんやけど、今勤務先の高校が春休みの時期でな。久々の旅行や〜!!!って組織のことなんかほっぽってどっか遠いとこおんねん。あの子ギャルなとこあるから、こ〜れは、しばらく帰って来おへんで」
「……は、?」
世間話?のようなものを一方的に聞かされたところで、その人は持っていた私の腕をその辺に放り投げて、膝立ちのまま後ずさった。
「ん。報告通り傷なしアザなし。んで、ここは……」
手が離れたからようやく終わるかと思ったけれど、どうやら本番はここからだったようだ。殺し屋さんは私の了承などは当然得ないまま、両膝に手を置いて、当たり前のように脚を左右に開いて、そこをガン見し始めた。
「えっ、や、……っ」
もしやと思ったけど、本当に隅々まで観察するつもりなんだ、と悟る。それどころか、当たり前のようにそこに手を伸ばしてくるから頭を振った。
「……や、……やだ……っ」
信じられない、触られてる……。
「動くな。ええやん、女の子同士なんやから」
そういう問題ではないが。
だいたい動くなと言われても、それは無理な話だった。自分でも普段触ることの無いその部分……なんでか知らないけれど少し触られるだけで体が動いてしまうのだ。触っちゃいけないところなのに、なんで、なんのためにそこまでする必要があるのだろう。死ぬほど嫌なはずなのに、頭が動かなくて、むしろ意識が正常じゃない時でよかったとすら思う。いや……そういう問題じゃない……。
足は固定されて閉じられないから、せめてもの思いで、動かせる両腕で顔を覆い隠す。しかし視界を閉ざしても感触で分かってしまう。指の先で、あそこを触られている。触られる反応を見られている。
「肉付きは悪いけど傷一つない新品やな。ハァ惜しいわぁ、もう少し若けりゃもっと良い値がついたのに」
「……っ」
その発言でようやく少し理解できたかもしれない。なんだ、この人は私を売ろうとしているのだ。たぶん人身売買というやつ。マフィアならそういった危ないことも日常的に行っているのだろう。そうなのかな。知らない、適当に言った。
「にしてもあの家で暮らしててよう自分保てたなぁ。自傷のひとつくらいはあるかと思っとったけど……その代わりの“他傷”ってわけ。やっぱり大物やんな」
ただ事じゃないことをしながら、さも普段通りみたいな様子でひとりごとを言っている。騒いだら殺されそうな雰囲気だから、私は静かに涙を流した。嗚咽をこらえ、心を無にしてこの地獄のような時間を耐えていたら、殺し屋さんはようやく私の体から手を離して、ベッドから飛び降りた。学校で行われるそれとは随分と踏み込んだ健康観察とやらが終わったらしい。

「……ぁ、……う、う」
しばらく呆然としてから、ふと我に返ってベッドの端に避けられていた布団を必死にたぐりよせる私。どうしてあんな嫌なタイミングで目覚めてしまったのだろう……もう少し遅ければまだマシだったのに……。いや、そういう問題じゃない……。
最低限隠せるところを隠しながら死体のふりをして小さくなっていたら、どこからか持ってきたらしい、白い死装束のような着物を投げ渡された。
「これ、やるわ」
「……」
とてもふわふわな死装束だ。
「これはな、バスローブって言うんやで。今リップさんにあんたに似合う服を見繕ってもろてるんやけど、その間着るもんないと嫌やろ。それで我慢し」
「……バス、ロー……」
「返事は」
「はっ、は、い……」
寝起きのせいで、もしくは薬品のせいで、はたまた恥辱を受けたショックのせいで、脳内が響いて声がよく聞き取れなかったのだ……という言い訳をしたら殺されそうな目を向けられた。怖い。
急いで返事をしてありがとうございますと小さく礼を言うと、その人は「ん」と片手をあげて向こうにある一人がけのソファーに腰を下ろした。
「……」
私の制服、どこ。あの日着ていた、私のなけなしの服。貧乏なのに母がどこかから調達してきてくれた、高校のお古の制服。ほとんどゴミしかない家で母の形見を着る思いで大切にしていたのだが、周囲のどこにも見当たらないようだ。ていうか、ここ、どこ。


少し時間を置いたら気分は少し落ち着いた。周りを見回そうとベッドから起き上がったところでようやく、ここがどこか知らない場所であるということをはっきりと認識した。とりあえず、拘置所ではないことに安堵する。あの窮屈な家のように、狭くて、暗くて、息の詰まる場所で目覚めるのは懲り懲りなのだ。バスローブなるものに袖を通しながら、こっそり頭を動かす。
この一部屋で私の家全体の三倍くらいあるような、とてつもなく大きな部屋だ。今私がいるベッドと、テーブルと、ソファー諸々が適度な位置関係で置いてある。なんというか、高級そうな……どこかに傷一つ付けたら殺されそうな、お金持ちが住んでいるような部屋だ。
「……え」
ふと、右側の方にある天井から床まである大きな窓を見た時、ぎょっとした。ここ、雲が目の前にある。人生の中で学校の四階より空に近づいたことがないから、思わず身が竦んだ。そんなにも高い建物にいるのか、私は。
「ああ、ここがどこか気になるん?」
あの日。突然家にやってきたこの……謎の陽気な殺し屋さんに、私は何故か気に入られて、運良く殺されずに済んだ……というところまでは覚えている。ていうか、今思い出した。けれどそれ以降が分からない。あれからどうなったんだっけ。
そもそも『気に入られた』という状況がまずいまいち理解出来ていないのだが。まあそれは一旦置いておくとして……(はたして置いといていいのかどうかもさておき)。
あの家はどうなったのか。あの“ゴミ”たちはどうなったのか。どういう経緯でここまで私が運ばれたのか。聞きたいことは山ほどある。何から聞こうかを考えながら、ようやく体を動かせそうになったので、試しにベッドからおりてみる。
バスローブの前が開かないように手で押さえながら、あの人のいるソファーのところまで裸足のまま近寄ろうとしたら、
「履けや」
「えっ、あ……」
ベッドのそばを指さされた。ビクリと肩を震わせ視線をやると、そこにはスリッパが落ちていた。
「ご、めんなさい」
お家の中でスリッパを履くという常識がなかったのだ、という言い訳をしたら殺されそうな空気である。そういう殺し屋さんは部屋の中なのに靴を履いていて……なんなんだ、この違い。慌ててそれに足を通していたら、またあの人の声がした。

「あのアパートなら一晩のうちに全焼したったで」

「……え?」
急に衝撃的なことを。
 
「存在そのものが害やろあんなボロ屋……ってなわけで、部下に処理させたわ。ゴミも一緒に処分できるんやから一石二鳥やろ。死体とか、住民関係のことは気にせんでええ。うちらお巡りさんとも仲良しファミリーやから」
「……そう、なんですか」
あの家、燃えてなくなってしまったらしい。あんなボロ屋でも家は家だから、少し寂しいような。……いや、でも毎日のように早く家を出たいと強く願っていたから、なくなったところでどうでもよかった。
顎で座れと言われたから、向かいのソファーに慎重に腰をおろす。思っていたよりも深く沈んで腰を抜かすかと思った。こんなにも座り心地のいい椅子に座ったのは初めてだ。さっき触られたところの感覚が気になるが、気にしてもしょうがない。あれはもう忘れてしまおう。……はい、忘れた。もう忘れた。
「んで、このビルディングは表向きにはうちのボスの会社が持ってるもんなんやけど、自分の家を持たない人はこの居住専用フロアで暮らしてる人も多いんや。ま、ホテルみたいな感覚やな」
「……そう、なんですね」
ホテルというものに行ったことがないから、よく分からない例えだった。まだ漠然としか理解できていないが、ひとまず相槌をうつ。何か言わないとすぐ返事を催促されそうだから。
「上から下まで組織の人間しかおらんから、あんま気張らんでもええよ」
「……そ、それは、ここには危ないマフィアのひとしか、いないってことじゃ……」
「違う。ここには幹部の持ち物なんかに手ぇ出す愚か者は一人もおらんってことや。堂々と歩けるで」
幹部、というのがこの人のことを指しているのだとすれば、今の私はこの人の所有物という扱いらしい。幹部……か。この人は、組織?の中でもどのへんの立場にいる人なのだろう。他の組織の人をまったく見かけないから、全然わからない。分からないけれど、なんだか偉そうな感じはする。


部屋のソファーに深く座り込んで、新聞を眺める緑の殺し屋さん。そういえば、名前を聞いてないな。なんだったっけ、私の家に来た時に何か電話をしていたことは覚えているが、内容までは覚えていない。あの時はそれどころではなかったし。
「にしてもあんた、ほんまに無傷やねんな。父親に暴力振るわれてたわけやなかったんか?」
「……暴力?なんのおはなし、ですか」
「ふーん。あの死体、見るからに人殴りそうな顔しとったのに、自分の娘は大事大事にしてたんやな」
「……大事?誰の、おはなしですか」
「あーな。なんとなく分かった」
あさっての方向を見ながら、新聞を空中でゆらゆら揺らす殺し屋さん。
「放置寄りのネグレクトやったんやな。最低限の住む場所と最低限の食いもん与えるだけで、父親面しとったんやろ。可哀想に」
とても可哀想だと思っているようには見えない。至極どうでもよさそうな顔をしている。
「にしても、あの殺し方は……ちと不可解なところがあると思うんよね」
「……不可解?」
「まあええわ。もう終わったことやし」
そう言うなり、殺し屋さんは新聞紙をテーブルの上に音を立てずに置いた。立ち上がって、なにやら黒い上着のようなものを羽織るから、どこかへ行くつもりなのだろう。
……言葉は砕けているけれど、振る舞いがいちいち育ちのいい人間という感じがする。まあ、私に比べたら、というだけかもしれない。
殺し屋さんは、言う。
「殺意が芽生えて、それを実行した時点であんたはもう立派な殺人鬼や。普通には生きられへんと思っとった方がええ」
それは、そうだろう……それより、どっちかというと殺し屋さんに遭遇していながらまだ生きている事実のほうがまず疑問なのですが。
「腹減ったやろ?今からうちのシェフ寄越すから、それまで適当に過ごしてや。少し出るわ」
「……はい」
名前、聞きそびれてしまった。


あの人が出ていってから、丸24時間待たされた。
その間、シェフ?さんが現れるようなことは特になく、再び眠りについたり、いつもするように洗面台の水を手のひらで掬ってちびちび水分補給をしながら過ごしていたら、例の緑の殺し屋さんが真っ赤になって帰ってきた。
「……」
顔や、服や、髪が、真っ赤に。
「すまんなぁ、立て続けに仕事が舞い込んでしもうて、ボスったら人使いが荒いったらないわ」
「……おかえり、なさい」
この人、本当に殺し屋さんなんだなぁ。昨日出て行ってから、あの日の私みたいに豪快に返り血を浴びるようなことをして来たのだろう。本業の人ならもっとスマートに、返り血のひとつも浴びずにさらっとこなすものだと思っていたけれど、それは偏見だったのかな。
それとも、私のような一般人……いや、殺人初心者にはとても想像もできないような殺し方をするのかもしれない。
「じゃ、サワロさん。頼みますわ。置くだけ置いて帰ったってください」
「了解いたした」
そのまま風呂場へ直行するのを目だけで見送る。バスローブ姿のままソファーで小さくなっている私をよそに、一緒に入ってきた謎の大きな男の人はテキパキと何かをテーブルの上に並べ始めた。この人がシェフさんなのだろうか。他の組織の人、初めて見た。

正直、お腹がすき過ぎることには慣れているから、あと一日くらいは水だけあればなんとか過ごせるのだけれど……目の前に並べられた食器類から漂う美味しそうな匂いを嗅いだ途端に、お腹がきゅるきゅると反応してしまった。
まるで、そう、レストランに来たみたい。でも一度も行ったことがないから想像でしかない。テーブルの端と端、おそらく二人分の料理を鏡のように対照的に並べたあと、シェフさんはぺこりとお辞儀をして部屋を出ていってしまった。

「……ぐぅ」
腹の虫が鳴る。
「なんや、待たんでもよかったのに」
「……え、えと……その、」
私の家では全然そんなことないけど……食事というものは、普通の家では人が揃ってから始めるものだと思っていた。でも実際のところはそういうわけでもないのかもしれない。常識というものがよく分からない。
お風呂場から出てきた殺し屋さんは、24時間前のように向かいのソファーに座ってノータイムで手を合わせ、食事を始めてしまった。
「うま〜」
「……」
髪をおろすと普通に女性に見える。それともお風呂上がりだからだろうか。じっと様子を見守る私。食べて、いいのかな。
「あんたも食べ。腹減ったやろ?」
「……は、はい」
許可をくれたのはいいものの、ようやくありつけた食事はほとんど胃に入らなかった。昨日から何も食べていないことに気を使ってか、スープ系など胃に優しいものばかりなのに、そもそも胃が小石くらいの大きさになっているから関係なかった。
「残すにしてももう少し食べや。次いつ食べられるか分からんで」
「…………え、」
そんなことを言われたら頑張って食べるしかなくなる。単なる脅しにしても効果は絶大だった。そうか、私は既に生活の全てをこの人に握られてしまっているのだ。見よう見まねでスプーンを握ってスープを口に運ぶ。味があって、美味しすぎて、吐くかと思った。
「……げほ、げほ」
「……」
「……?」
ふと前を向けば、殺し屋さんが何か言いたげにこちらに視線を向けている。私が食べる様子をじっと見られている……。
「食器の持ち方から教え込まなあかん」
何か、呆れさせてしまったようだ。


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