03

althaea0rosea

「殺し屋さん、おかえりなさい」
「なんやその呼び方。チリって名前があんねんけど」
「……チリさん」
殺し屋さんの名前は、チリさん……というらしい。七日目にしてようやく知ることができた。食事をする以外は部屋を出ていってしまうから、会話がほとんどなかったのだ。
顔と名前を覚えるのが大の不得意なので、これ以降二度と訊ねることのないように、頭の中でチリさん、チリさん、チリさんとぶつぶつ復唱する。だって一度聞いたことを再び質問すれば殺されそうな感じするから、こちらとしては必死なのだ。この数日の間、これまで微塵も覚えることのなかった正しいテーブルマナーを直に叩き込まれるうちに、彼女の厳しい一面はなんとなく理解した。
「あの、聞きそびれた、ことが」
「なんや?」
「わ、私の服……どこですか」
その代わり。一度も聞いたことがないことや、私が知る由もないことは別に質問しても嫌な顔をされない、ということも分かった。だから今までずっと気になっていた、私の制服の在処を訊ねてみることにした。

今日もまた、ひと仕事を終え帰ってきた殺し屋さん……じゃなく、チリさん。大胆な返り血を浴びてきたのは二日目だけで、今日は昨日までと同じように綺麗なままの格好だ。やっぱりあの日だけはイレギュラーだったのかもしれない……というたぶん無意味な考察をしつつ、ソファーに座る。チリさんも今日はお風呂場には向かわず、そのまま食事の時間が始まった。
「服?何のことや」
「……制服です。**高校の」
「ああ。あー?あー……」
チリさんは、私の唐突な質問にものすごく頭を悩ませている。そんなに変なことを聞いたかな。
今私が着ているのは、三日ほど前にチリさんが持ってきてくれたお洋服のひとつ。たぶん、安物じゃない。穴は開いていないし、拙い縫い目も汚れもない。とても着やすい。普通の人はこんな服を着ているんだ、と感動したものだ。
しかし、元々着ていた制服がどうなったのか、私はどうしても気になっていた。でもチリさんにとっては些細なことなのだろう。気にもとめてなかったようだ。
「たしか……あんたが着てたボロい制服なら、汚れとったから捨てといたで。高校もう行かんやろ?」
「……」
勝手に捨てられてしまったらしい。確かに返り血がたくさんついていたから、もうあれを着て外を歩くことは出来なかったろうけど。
でも、あれは。あれは母の……形見というか、まあ、考えてみればそこまで大事なものでもなかった気もする。どっちだったっけ。
「そういえば、言われてみれば変やな。世間は今春休みの時期やろ?せやからミモザ先生留守なんやし。なんで家ん中で制服着てたん」
「……私の服、あれと中学の制服と、ジャージだけなので」
「ふーん。ミニマリストやな」
貧乏だっただけですが。
「それももう、あのゴミ屋敷と一緒に燃えてしもうたからなぁ。これからはチリちゃんが好きなもん買ったるさかい、欲しいもんあったら遠慮せずに言うんやで」
「……?」
ち、チリちゃん……?
「返事は」
「はっ、はい……」
「ええ子」
チリさんはそう言って、何事もなかったかのように黙々と食事を進めた。

何が目的なんだろう、この人。
私のことを殺さなかったのもそうだし。前の家に比べたら天国のような快適過ぎる部屋で、着るものも、食べ物も、寝る場所も全て与えてくれる。乱暴こそ初日のあれ以降何もされていないし。テーブルマナーとか、お行儀のことまで面倒を見てくれる。感謝しなければいけないことなのだろうけど……。
それもこれも、人身売買に関係があるのだろうか。一通り躾てから売りに出す方が、価値が上がるとかそういう話?肉付きがどうとか言っていた。じゃあ、今の私は肥やされている段階なのだろうか。いつかは、売られる?


「なんか用か」
「ひ」
食事を終え、今日もチリさんが出ていってしまう前に、今後のことを聞いてみようと思った。何か言われてしまわないよう、スリッパをきちんと履いて、着させてもらっているお洋服を綺麗に整えて、背筋を正してそろりそろりと近寄る私だったけど、声をかける前に振り返るからびっくりして後ずさった。この人、後ろにも目がついてる。
「なんや。さっきからそわそわしよって」
「い、いえ……その……」
「はよ言わんかい」
怪訝そうな顔でじっと見下ろされている。笑顔を見たのは初対面の一度だけだ。視線ひとつで人を殺せそうな目をする人。
思わず怯んでしまったけれど、何も言わないとますます睨まれてしまいそうなので、意を決して口を開く。
「私、これから、どうなるのですか……」
言葉通り、私はこれからどうなるのだろう。何をすればいいのだろう。殺されるにしても売りに出されるにしても、自分の今後のことはちゃんと知っておきたかった。
チリさんはシャツの袖をまくりながらふむと目を閉じた。
「せやな。いつまでもタダ飯食わせとくわけにはいかん。そろそろ……。ああ、でも今は、そか、どないしよ」
鏡の前で身支度を整えながら、ひとりごとのように何かを唱えている。私は三歩くらい距離を置いたところでじっとして、言葉の続きを待った。
「靴箱」
「……え?」
「あんたの靴、サイズぴったりやと思うから履いて待ってて」
チリさんはそう言って部屋の奥へ戻ってしまった。あそこは私が入っちゃいけないところだ。とりあえず、靴を履けばいい……のかな。もしかして、私も部屋の外へ?
わかんないけど、チリさんが入った扉に向かって「わかりました」と返事をして、玄関の方へ向かう。あんまり触っちゃだめかと思って一度も開けたことのない大きな扉を開けてみると、そこには一足の黒い靴が収まっていた。これ、だろうか。
おそるおそる手に取って扉を閉める。ここに来てからはもちろん、そもそも高校に行かなくなって何ヶ月も外に出ていなかったから、靴を履くのなんて久しぶりだ。靴を下に置いて、その場に座り込んで、せっせと足を通す。紐の結び方……わかんなくなっちゃった。てきとうでいいかな……思い出しながらわたわた靴を履いていたら、準備を終えたチリさんに後ろから足でどつかれた。
「もたもたすな」
「は、はいっ」
「あと、邪魔やからどいてな」
あっ、とすぐに端っこに寄る。チリさんは手に持っていた茶色のブーツを少し遠くの方に置いて、立ったまま靴を履いた。二秒もかかっていなかった。どうしてそんなにスムーズに履けるんだろう。才能かな。


「おっそ。はよ歩け」
「……そんなこと、言われても」
どこへ向かうのだろうか。部屋を出るなり、さっさと廊下を歩き出すチリさんの後ろを頑張ってついていく私。歩幅も歩く速さもまるで違うようだ。引きこもりだったからしょうがないとはいえ、置いてけぼりにされる勢いでずんずん進んでいくものだから、さっそく泣きたくなってしまう。はあはあ息を切らしながら小走りで必死についていく。
「ど、どこへ?」
「ボスのとこ」
「えっ?」
「――って言いたいとこなんやけど、ボスはボスでやることぎょうさんあって、面会する暇なんかあらへん。せやから、せめてハッサクさんのとこにでも行っとこか思て」
ボスに会いに行くと聞いて耳を疑ったけれど、どうやら今日は大丈夫と聞いて少し安心した。まあハッサクさんという人がどういう人なのかは全然知らないけど。

エレベーターの前に来た。待っている間、チリさんの斜め後ろできょろきょろ辺りを見回してみる。私たちが出てきたのと同じような扉がいくつも並んでいる。廊下には今のところ人が一人もいないようだ。他にも住んでる人がいる、という話だったけど、たまたま見かけないだけだろうか。
エレベーターに乗り込んですぐ「ひえっ」と驚いた。ここは53階らしい。とてつもない数字だ……こんなに高くて風とかで倒れたりしないのかな……よく平気で寝泊まりしていたな、私。
「53……」
「ん?」
そういえば、思い出したことがひとつ。もう質問するのには怖くなくなってきたから、暇つぶしついでに斜め後ろから問いかけた。
「あの……その、父には3653万円程の借金がありました。私が把握してる限りでは……」
「ボタンによると6500万らしいで」
倍に増えた。
「それがなんや?」
「え、えっと、よく知らないんですけど……死んだら借金はなくなるものなんですか?そんなこと、考えずにころしちゃって……」
「遺族が背負うんやないの、普通」
「……え?」
じゃあ今、私には6500万円の借金があるということに?うわ。殺さなきゃよかった。と、ここで初めて後悔しかけた私だが、次のチリさんの言葉でその後悔は消え去った。
「あんたの借金なら全部組織が立て替えたから、気にする必要あらへんで」
「え?そ、そうなんですか」
「おん」
「なんで、組織のひとが、立て替えなんて」
「立て替えっちゅうか、取り立てる側の闇金融を解体させたから、なかったことになったんや。ボスは汚いものが嫌いでな。ネズミみたいにちょこまか動くあいつらが目障りでしゃあない言うから、この数日間幹部が駆り出されてたんよ」
闇金融を解体?それがいったいどういうことなのか、詳細に知る必要はないのだろう。チリさんは教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上問いかけても適当にあしらわれるだけだ。
とにかく私の借金がなくなったらしいことに安堵する私。そもそもマフィアという組織のお仕事について想像もできないから、考えたところで仕方がない。って、また感謝しなければいけないことが増えていないか?新たな気づきを得たところで目的の階に到着した。

おりたところで、ようやく人の姿を見かけた。しかし信じられない光景だったのが、そこにいた人たちがみんな、同じ角度でお辞儀をしていること。え?と立ち尽くしてエレベーターの中に取り残されそうになったのを、慌てて飛び出た。
私のことなんて気にせずズンズン進んでいくチリさんの後ろを、今度こそ置いていかれないように歩く。周囲の人たちの視線が何故かこちらに集まっている。そして、一人も欠かさず挨拶を投げかけてくる。返事代わりに片手をあげるチリさん。
「ハッサクさんおる?」
「はい。在室しておられます」
「そ」
あ、もしかして、この人がいるから……みんな挨拶して、お辞儀して。やっぱり偉い人なんだ、このひと。みんな敬語だし……。
私はまるで空気になった気持ちでその様子を見ていた。



なんというか、優しそうではあるけれど、変な人だった……。
 
「あなたのお名前は?」

通された部屋には金髪の男性がいた。この人がハッサクさん……らしいのだけれど、案内するなりチリさんが「じゃあまた後ほど」という言葉を残して行ってしまうから、二人きりで残された私はド緊張状態でソファーに座らされるのだった。
まるで学校のカウンセラーさんのように色々と質問を投げかけられて、生い立ちやら何やらを事細かに話していたら、父と母に関する話題で突然人が変わったようにおいそれと泣き出してしまって、私のほうが泣きたくなった。なにこれ、どうすればいいの……。

「ああ、失礼。大変な人生を送られて来たのですね。しかしもう安心ですよ。我々組織に属する者は“規則さえ守れば”衣食住と娯楽が保障されているのです」
「……規則?」
「なあに、難しいことはありません。規則とは、“上司に刃向かわないこと”。これ一般常識。社会人にとって極当たり前のルールです。いいですか?」
「はあ……」
「ルールを守る人こそが、ルールに守られているのです。逆に、規則を破ればその身の安全はないものと思いなさい。その点で言えば、チリは優しい方ではありますがね」
チリさんは優しい方らしい。いいことを聞いた。

私はどうやら『組織に新たに属することになった人間』、また『四幹部であるチリさんが統括する構成員のうちの一人』という扱いになるらしかった。
ハッサクさんは規則のこと以外にも、この建物での過ごし方、組織の構成員の大まかな関係性や、どのようなことをして普段仕事をこなしているのかなど、必要なことをまとめて教えてくれた。
マフィアといっても、普通の会社のようにかなりシステムが整った組織のように思えた。ボスがいて、その下に樹形図のように構成員が順番に配属されていて……私が通っていた学校の誰よりも分かりやすい説明だったから、私でも簡単に理解することができた。こんな先生だったなら授業も楽だったのだろうな……。

チリさんの部下と名乗るスーツの人に案内されて部屋に戻ると、そこには既に夕食が並べられていた。出来たての温かいごはんを食べられるだけで幸せな気持ちになれる。それを一日に三度も。前に比べたら断然、天国のような場所だ、ここは。
今回の食事は一人分だけのようだから、チリさんはどこか他の場所で食べてくるのだろう。さっそくテーブルについて「いただきます」と手を合わせた。
「……」
温かい。
涙がでてきた。初日の食事の際にこうならなかったのは、実感が湧かなかったからだ。食器を置いて手で顔を覆う。
「……ひぐ、……うぇぇ……」
いつか、お礼をしなくちゃ。私以外に誰もいないから、好きなだけ涙を流した。その日、私は出された食事を初めて完食することができた。


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