06

althaea0rosea

「おや。お初にお目にかかります。私オモダカという者です」
「……?」
「その節は、我が組織幹部のチリが粗相をしたようで……その後、お体の具合は?なにか酷い扱いを受けていませんか?」

エレベーターの前で居合わせた、お淑やかな女性に声をかけられた。この建物にいる人間で知らない人はいないチリさんが声をかけられることはあっても、新顔である私が声をかけられることは滅多にないから狼狽えてしまう。
……人違い、かな?
「……え、と」
「ああ、怖がらないで。そうですね。立ち話もなんですから、カフェへご一緒してくださる?もちろんお代は私が持ちますので。さあ、エレベーターが参りましたよ」
有無を言わさぬ雰囲気で、乗る予定のなかったエレベーターに連れ込まれた。え?私、チリさんにおつかいを頼まれてハッサクさんにお届け物をするところなんですが……?人違い、じゃ……?
誰だか知らないけど、なんだかただならぬオーラを感じる……。といっても、この建物で会う人はたいてい普通じゃないから慣れたものだけれど。
「えっと……オモ、……?」
「はい。オモダカです」
だ、誰ですか……?って聞いていいのかな。
私の了承などなしに、勝手に上昇するエレベーターの箱の中で、横並びになった彼女をこっそりと見上げる。オモダカ……さんは、にっこり人のいい笑顔で笑い返してくれた。なんか優しそう。って、そうじゃなくて。
私、これからハッサクさんのところへ行かなくちゃならないんです。あのチリさんに怖い顔で「寄り道するんやないで」とまで言われてしまっているんです。だから、どこの誰とも知らないあなたとカフェ?へ行く暇なんてないんです。
……とは、とても言えない雰囲気だ。小心者でコミュニケーションが得意ではないから、こういう時に空気を悪くせずに断る方法なんて知らない。お喋りが得意なチリさんなら上手くやるんだろうけど……。

エレベーターはチンと音を立てて最上階に到着した。え?最上階?こんなところへ来たのは初めてだ。
「さあ。ご案内いたしますよ」
「ありがとう、ございます……?」
 彼女に連れられてエレベーターを出る。この階はどうやら円形になっているようで、他の階とは様子が違った。オレンジ灯の目に優しい暗い通路を抜ければ、大きな窓から差し込む太陽の光で一気に明るみに出た。
「この展望フロアは一面の窓から周囲の街並みが見渡せるのです。ここから雲の動きを見ていると、不思議と時間が過ぎてしまう……。あなたも心を落ち着かせたい時などは、ぜひともお立ち寄りなさって」
案内の人みたいに丁寧な解説をしてくれる彼女は、チリさんと違って歩幅を合わせてくれるから信じられないほど歩きやすかった。やっぱり優しい人だ。
ここまで来たらもう帰りますとは言えず、彼女の言葉通りにこの階の中央部に位置するオシャレなカフェに入ることになった。もうお昼ごはんの時間だから、少しお腹が空いている。でも知らない人について行っちゃだめって世間的には言うし、あんまり奢られるのも……。
「お好きなものをどうぞ」
「……えっと」
「コーヒーはお飲みになります?」
「い、いえ……のめないです」
「では、ココアはいかが?このお店はサンドイッチも美味しいんですよ。ああ、甘いものがお好きなら、デザートに苺のショートケーキもお忘れなく」
「えっと、えっと……」
結局一時間ほど長居することになった。諸々の事情で利き手が使えないから、逆の左手を一生懸命動かす私。その間、彼女はコーヒー一杯だけを優雅に嗜み、私が必死に食べる様子をにっこり笑って眺めていた。
その後、その人は私の本来の目的地であるハッサクさんのいるフロアまで付き添ってくれたかと思えば、「楽しい時間をありがとう」と言ってどこかへ行ってしまった。本当に誰だったんだろう……。疑問は残るが、とりあえず急いでハッサクさんの部屋へ向かう私だった。



「遅かったやないの」
「ごめんなさい……でも私は悪くないです」
「ふぅん?何してたん」
「知らない人に声をかけられて、美味しいココアを奢ってもらいました。あとサンドイッチと、ショートケーキも……」
「乞食か?」

部屋に戻ると、チリさんはやっぱり不機嫌そうな顔をして私を出迎えた。と言っても、ソファーに座ったままで。刃がむき出しのままのナイフを手の中でくるくると遊ばせている。あれは、チリさんだから出来る芸当だ。私がやったら一瞬で血だらけになる。もう手をダメにするのは勘弁だ……。
そんな彼女の手、昨日まで包帯が巻かれていたはずだが、今日は素手だった。私が切りつけた傷はもう塞がってしまったらしい。なんだ、どうせならもっと深くやっておけばよかった、こんなんじゃ割に合わない。

もう外に出る用事はないから、靴を脱いで靴箱にしまう。利き手が使えない……というのは思っていたよりも不都合な部分が多く、全ての動作が覚束無い。
やっとのことリビングまでやって来ると、チリさんが「なまえ」と名前を呼んで、手招き代わりにナイフの刃先をくいっと動かした。あ、どやされる。そう察しながらも、とっくにこの人に躾られた私は素直に隣に座るしかない。
まあたぶん、私なんかにココアとサンドイッチとショートケーキを奢るような変わった人のことが気になるのだろう。わざとソファーの端に座ったのに、チリさんは即座に真隣に詰め寄ってきた。
「誰や、それ」
そんな、近寄らなくても話せと言われたら話すのに。
「えっと……」
「誰?」
「……えー、っと……」
私は首を傾げた。
……だ、誰だったっけ?まずい、名前を忘れてしまった。頭をフル回転させて必死に名前を思い出そうとするけど、今の一瞬で曖昧な記憶しか思い出せなくなってしまった。考え込む私にますます怪訝そうな顔をするチリさん。
「誰やねん」
「……本当に、分からなくて」
嘘ではない。彼女は名前以外は自分のことを語らなかった。その唯一の情報である名前を忘れてしまって大変不甲斐ない……。
「じゃあ、どんな人やった?」
「それは……優しそうな人でした」
「優しそう?」
「はい、チリさんより……いたっ!」
デコピンされた……。
「どんな、人?」
チリさんはここぞとばかりに微笑んだ。私の前では滅多に笑わないのに、自分の表情の変化が相手にどう作用するのか、よく分かっているようだ。痛めた額を押さえながら、思惑通り震え上がる私。
「た、たしかっ!髪が長くて……それで、目が大きくて……」
「ほう」
「なんだか、お淑やかな人で……笑顔が素敵で……言葉遣いも丁寧で……」
「ほう」
「どこかのお嬢さま、みたいな……?あ、まあ普通に成人した女性なんですけど……」
名前が分からないのなら外見から攻めるしかない。思い出せるだけの情報を口にした。チリさんは「ほう、ほう」とフクロウみたいに相槌を打っている。心当たりがあるのだろうか。
「なるほど?よ〜く生きて帰れたもんや」
「え?」
「なんでもない」
なんでもない?独り言にしては大きな声で、はっきりと耳に届きましたけど。
……“よく生きて帰れたもんや”?え、そんなに危ない人なの?あんなに優しそうな人だったのに……。
「あの人のことは考えるだけ無駄や。妖怪みたいに神出鬼没で、こっちの方が振り回されるのがオチや。今度また偶然会ったらラッキーやと思えばええ」
「……?」
なにそれ。怪談?伝説?噂話?じゃあ会えた私はラッキー?実際、美味しいものを奢ってもらえたし。
チリさんはそれ以上は何も言わなかった。この人は教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上聞いてもたぶんあしらわれるだけだ。考えるだけ無駄、と言うのなら、そうなのだろう。私はその人について考えるのをやめた。


「手」
「……。はい」
怪談話が済んだところで、“お手”を促すチリさん。とっくに躾られた私は、すぐに右手を差し出した。
数日前に開けられた穴は塞がりつつある……と思う。包帯の下は怖くて見れていない。組織のお医者さんであるミモザ先生?という人が適切な処置をしてくれたそうなのだけど、全て私が寝ている間に済ませてくれたようで、目覚めた時には既に新しい包帯が綺麗に巻かれている状態だった。

私の右手。ど真ん中に穴を開けられた。
ピアスじゃないんだから。

そういえば……閑話休題。
後々分かったことだけど、チリさんはどうやら組織の中でも『尋問』『拷問』『詰問』の役割を担う幹部として名が通っているらしかった。つまり人を傷つけるのが得意で、人に何かを問いただすのが得意で――本人曰く「人を殺すのは不得意」らしい。
それを言われた時は冗談かと思ったけど、単純に普段のお仕事が『捕虜を殺さないように痛めつけて喋らせること』だから、別に嘘を言ったわけでもないのだろう。

バラバラになりかけた父の死体を見て普通そうにしていたのも。
「殺し屋さんですか?」という問いかけに対してわざわざ訂正していたのも。
私のことを無為に殺さなかったのも。
たまにこれでもかと言うほど血みどろになって帰ってくるのも。
私の手にナイフを突き立てておきながら白々しい顔をしていたのも。
……とどのつまり、そういうことだったのだ。全部、紛れもなく、不殺を前提とした尋問の役を担う彼女の、普段通りの行動だった。特別何か変わった行動を起こしたわけじゃなかったのだ。

ハッサクさんが教えてくれた「チリは優しいほう」という言葉の意味が、実は“殺さず生かしてくれるから”なんていう、なんにも優しくない彼女の生態のことを言っていたとは、知る由もなかった。
……むしろ、片手で済ませてくれたことを真に“優しい”と思うべきなのだろうか……。
“優しい”ってなんだっけ。国語は難しいな。


「さて、どんなもんかな。傷の具合は」
チリさんは私の右手に巻かれた包帯をしゅるしゅると剥き始めた。え、もう外していいの?それ。怖いからやめて欲しいんだけど。でもやめて欲しいなんて言ったらまた“優しいこと”をされるから、何も言わずに顔を逸らす。
一応、痛み止めを飲んでいるし、既に麻痺してあまり感覚が無くなっているから、せめて視界に入れなければ何もされてないのと同じだ。
「……おお、思ったより綺麗やないの。ほんま、ミモザ先生は優秀やな。あの子にはいつも“やりすぎた時に”世話になってるけど、今度ちゃんとお礼せな。お土産のクッキーも貰ったことやし」
「……はあ、そうですか」
「……」
「……」
なんだろう、この沈黙。
「ほれっ」
「い゛ッ……!」
急に傷痕をほじくられた。麻痺していたはずの右手に、途端に鋭い痛覚が戻ってきた。あの日の痛みを思い出して、反射的に手を引き寄せた。
こ、こいつ!
痛い、痛い……思わず痛々しい針の跡も目にしてしまい、ますます感覚が戻ってくる。はあはあ息を切らしながらじんわり涙目になる私を見て、チリさんは笑った。鬼だ、鬼がいる。
「なっははー」
ていうか、チリさん、笑ってる。私の前ではあんまり笑わないのに。……かと思えば、急にスンと真顔になった。え?情緒不安定?
「なんで自分、利き手のほうダメにすんねん。おかげで介抱せなあかんこっちの身考えや。世話焼かすな」
「え?誰のせいだと……」
「自分のせいやろ」
「……」
この人やばすぎる。やばいって。頭のネジ飛んでる。


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