05

althaea0rosea

「あーあ、手袋やぶけた。もったいな」

チリさんの声に、我に返った。

「あ、れ」
気がつけば、チリさんの手の甲から一筋の赤い血が流れていた。ナイフを握っているのは――私だった。私の手の中に、血のついたナイフが。
「……あ」
変だな、時間が飛んだみたいだ。
私がやったのか。私が……刺したらしい。でもどうやって?まさか、そんな。なんだか今の一瞬だけ、自我が消えたみたいな……記憶が消し飛んだ、この感じ……。そうだ、私には身に覚えがある。

あの時もそうだった。あの時、“父はいつの間にか死んでいた”。私はいつの間にか包丁を手に持ち、返り血を浴びて、父の死体の前で座り込んでいた。その瞬間の記憶はなかった。今も思い出せない。きっと精神的ショックか何かでその一瞬の記憶を消去してしまったのだ。それだから、状況からして私がやった以外ありえないということを、後から理解せざるを得なかった。日常的に殺意のようなものを抱いていたから、殺したことについては戸惑いはしたが疑問を抱くことはなかった。ああ、遂に……という感想しかなかった。これからどうしよう、と思うしかなかった。
今回も……いつの間にか、手が動いて、いつの間にか、目の前で血を流している人間が私のことをじっと見ている。だから、だから、本当の私は何もやっていないと、思う自分もいるわけで。

殺人鬼の私は、私じゃない。その瞬間にしか出てこない、私の知らない私。
だから、我に返った私が今の状況を理解するのに、少しの時間を必要とした。

「自分、どう落とし前つけるつもりやねん。人のこと切りつけてタダで済むと思ってんやないやろな?」
「え、……え、?」
チリさんの声色がさっきまでと全然違って怒気を含んでいることに、心臓を素手で掴まれたような気分になる。私はソファーを避けて後ろの壁まで後ずさりながら、ナイフをお守りのように胸元で抱きしめた。
「だ、だって、そうしろって……チリさんが、」
「言い訳なんか聞きたないわ」
何を言っているんだこの人は。理解できない。だって、避けなかったじゃないか。私がナイフを差し向けた時、ソファーに座ったまま、ほんの少しだって避ける素振りを見せなかったから、こちらが怯んで中途半端なところに刃が掠ったんじゃないか。
そもそもナイフを渡してきたのはそっちの方なのに、やれるもんなら、なんて言われたら、やるしかないのに、なんで、そんないきなり怒り出すの。意味がわからない。
本当に分からない。これも、全て、私を試しているの?

目を泳がせる私をよそに、チリさんはようやくソファーから立ち上がった。普段はお行儀にうるさいのに、切られた手袋を床に投げ捨て、ローテーブルを靴のまま乗りあがってまで一直線に私のところにやって来ると、乱暴に私の両手首を掴んだ。当然、ナイフも奪われた。
「っ、……ご、ごめ、なさ」
怒っている。どこからどう見ても。
完全に縮こまっていた私は、後ろの壁に張り付いたまま至近距離の彼女を見上げることしかできず、これから何をされるのか、考えることもできなかった。でも、何かただならぬことが起きるのだということだけは察していた。
「何の謝罪や、それは」
「え、あ……、っ」
「ハッサクさんに教えてもらったはずやろ?どんな理由があろうとも……たとえ、誰に何を、、、、言われようと、上のもんに歯向かう阿呆は生きられへん決まりでな」
「……な、そん、なの、」
「なあ、あんたは他人に刃物を向けちゃあかんって、学校の先生に習わんかった?」
「……?え、え?」
「まあええ、安心せえよ。チリちゃんはこれでも“優しい”って評判らしいな。本人としては別にそんなつもりないんやけど、実際うちは人殺すんは不得意、、、、、、、、やから、あんたは運がええな」
怖い。怖い。怖、い。
怖くて怖くて、怖さのあまり真下に座り込んだから、掴まれた手だけが頭上に残された。チリさんはここぞとばかりに目を細めながら、ナイフを逆手に持って振り上げている。ああ、何をされるのかわかってしまった。溢れる涙を気にせずぎゅうっと目を閉じ、やめて、離してと叫ぶけど、今の彼女には届くはずも無い。
「悪い子はな、痛みに弱いって決まってるんや。あのハッサク先生に教えてもろたから、間違いないで」

ナイフが振り下ろされた。

「っあ゛……ッッ!」

それは私の右手にまっすぐ刺さった。右手の平のど真ん中、骨と骨の間を綺麗に素通りして、皮膚と肉を容赦なく切り裂き、貫通した。悲鳴という悲鳴も上げられなかった。激しい痛みが私を襲う。
「い、っ、痛い、いたい……ッ」
ナイフが壁までめり込んでいるから、身動きが取れない。痛みにばたつかせた足がチリさんの足に当たって、「暴れんな」と足蹴にされた。知るか、そんなこと、どうだっていいでしょ。右手に全部の意識が集中して、勝手に涙が出てくることも、痛みに叫ぶ口元から唾液が溢れ出て来ることも、今の自分には気にする余裕なんてなかった。ただ、ただ、痛くて、痛くて、それだけが頭の中を支配している。
やれ、と言われたからやったのだ。私、何も悪くないじゃん。おかしい、この人、おかしいよ。いたいよ、誰か、たすけて。
「……ま、ようやるわ。今どきの子供にしては度胸があるんは認めたる。せや、今ので思い出したんやけど、チリちゃんこれからボスんとこ行かなあかんのやった。おおきにな、すっぽかしたらまたお小言言われてまう」
チリさんがそう言うなり踵を返したのを見て、信じられなくて顔がひしゃげた。まさかこのまま置いていくの?そんなの、いやだ、そんなの、ただの鬼じゃないか。
「……っひぐ、いや、いやだ……チリさん、いかないでっ……!外して、……くだ、さいっ……!いやだ、いやだ、いやだ……っ」
「はいはい。しばらくそこで反省しとき。お、もう外真っ暗やん。もうこんな時間や。良い子は静かにねんねしな」
部屋を出ていったあの人の顔は、不気味なくらい落ち着いていた。まるでこれが日常茶飯事とでもいうかのように。



磔になった右手が痛む。

あれからかなりの時間が経過したと思う。腕を伝う血液は完全に乾ききっている。さっきまで頬を流れていた涙の跡も同様に。ナイフは手を貫通したまま、今もそこに刺さっていた。
なんだ、これ。なんでこうなったんだっけ。何が悪かった?私が何をしたっていうの?……ああ、そうか、チリさんを切りつけたから。
上司に刃向かったから。上司に――刃を向けたから。あの人……あの金髪の……えっと、そう、ハッサクさん、に言われた通りになったのだ。なんだ、何もおかしなことは起きていない。何を慌てているんだ、私。
「……」
それにしても痛い。
元々の暮らしが地獄のようだったから、これ以上辛いことはないと勘違いしていた。あーあ、地獄の底を知る前に楽に死ねるものだと思っていたのに、実際そんなことはなかった。
手を金属が貫通したくらいじゃ人は死なない。死ぬほど痛いが、痛いだけだ。地獄のような痛み。だけどやっぱり痛いだけ。これでもまだ“片手だけだから”、人間が感じうる最大の痛みはこんなものではないと考えることで、なんとか正気を保っていた。

そんな時、突然声がした。

「おねーちゃん、そんなところでなにしてるんです?」

その子の気配に、全然気づかなかった。というか、あまりの痛みに周囲の状況に全然気を配れなかった。もしかしたら……その子は最初からそこにいたのかもしれない。それとも、単純に今部屋に入ってきただけなのかもしれない。そんなこと、どうでもよかった。今の私はそれどころではない。
「チリちゃんの、おしりあいのかた?」
「……」
女の子の声だ。随分と幼いようだが……うっすらとまぶたを開いて目だけでそちらを覗くと、そこには思っていたよりも小さな小さな女の子が私の顔を覗き込んでいた。
なんなんだ。迷子だろうか?いや、ここには組織の人間しかいないはず。なら、この子も……?
「おてて、かわいそう。それにしても、チリちゃんはじぶんのおへやでも“じんもん”しているんですね……?」
「……」
チリさんのことを知っているらしい。であればやっぱり組織の人間なのだろう。こんな子供が……と思ったけど、私もまだ子供の範疇なのだから、似たようなものか。
瞬きをする以外無反応でいたら、その子は私の真正面に座り込んで明るい笑顔で話し始めた。
「チリちゃんとあそびたかったのに、チリちゃんはおでかけちゅうみたいです。せっかくだから、ポピーがおはなしあいてになってさしあげます!」
「……」
誰だ、この子。
「ポピーはチリちゃんのおともだちで、なかよしさんだから、チリちゃんのことならなんでもしってるんですよ」
「……」
「チリちゃんのおしごとは、いろいろ“しつもん”することだから、しなないようにころすのがとくいなんですの。でも“あんさつ”もできるから、すごいんですよ」
「……」
「だから、ボスからおしごとたくさんたのまれちゃって、まいにちいそがしそうです。ほんとうは、ポピーもおてつだいしたいですけど……」
この、子供特有の高くて元気な声は脳内に直接響くようで、頭痛がするかと思いきや、痛みを和らげるのにちょうどいい緩衝材になった。話の内容は全然入ってこないけど。
「あのう、ところで……おねーちゃん。おねーちゃんは、どうしてチリちゃんのおようふく、きてるんです?」
「……」
チリさんの服?知らない、私は渡されたものを着ているだけ。
「チリちゃんの、おともだち?」
「……」
友達?知らないな、あれで友達と呼べるのか?いや、友達とはとても呼べないだろう。友達なんてできたことがないから分からない。
「おねーちゃんのことみたの、ポピーははじめてです。チリちゃんがしらないひとをおへやにまねいているのも、はじめて……みました。チリちゃんは、ポピーのしらないところでおともだちを、……。……。……」
何か様子がおかしいようだ。マフィアの人しかいないはずの建物にいる時点で、普通ではないことは明らかなのに、幼い子供だというだけで、どうして油断しきっていたのだろう。

「おねーちゃん、なにもの、ですか?」

背筋が凍るのは、たぶん血液不足だからではない。この子は誰?さすがに身の危険を感じてゆっくりと顔をあげたところで、また別の声が聞こえてきた。
「ポピー。なにしとん?」
チリさんだ。私をこんな状態にした張本人がようやく戻ってきたらしい。
「“それ”はポピーのおもちゃやないで」
「じゃあどなたのおもちゃですの?」
「チリちゃんの。まあ欲しいんならあげたってもええけど」
チリさん。チリさん、チリさん。なんでもいいから、はやく私を助けてください。謝りますから、なんでもしますから、はやく私の右手を解放してください……。声に出そうにも声が出ない。枯れてしまったのか、それとも声を出す気力すら残っていないのか。
チリさんが登場したことで、女の子を取りまく不穏な空気は一瞬にして消え去ってしまった。気のせいじゃない。この子も普通じゃないのだ。今の私はやけに感覚が冴え渡っているから、初対面でも分かってしまった。
「ほれ、他の場所で遊んできや。ハッサクさんがおやつの時間にしよか〜ってポピーのこと探しとったで」
「まあ!」
ポピー、という女の子はチリさんの言葉に嬉しそうに両手を合わせ、一目散に玄関の方へ走っていった。片腕を上にあげ、大きく手を振っている。
「ポピーはハッサクおじちゃまのところでいいこいいこにあそぶことにしますね。では、また!」
結局あの子の正体がなんだったのかは不明のまま……チリさんは片手で小さく手を振り返して見送ると、私の方を振り返った。さっきまで笑顔だったのに、私の正面に膝を着いた瞬間にはもう鋭い目をしている。分かりやすいな。
「叫んだら殺すで」
「……い゛、っう……、……。……」
「ええ子」
ナイフが抜ける時、私の覚悟まで持っていかれるような感覚がした。私はこの人にはもう一生逆らえない。大きな傷痕と同時に、そんな宣告を身に刻まれた。
栓が抜けて血が溢れ出したところを、今度は包帯でいい加減にぐるぐる巻きにされた。なんだその適当な処置は。みるみるうちに包帯が真っ赤に染まっていく。なんというか、絶望感にさいなまれる。私の右手はもう使い物にならないだろう。
「ったくも〜……ここにきてキズモノにしてもた」
あ、私、価値が下がったんだ。もしかして、売り物じゃなくなった?もしかして、ずっとここにいられる?……あれ?こんな酷いことをされたのに、どうして未だにそんなことを考えられるの、私。脳みそがおかしくなっているのかもしれない。いや、元々おかしかったよな。人を殺せるくらいなんだから。
「口、開けや」
「……」
「はよ」
呆然としていたら、無理やり指を突っ込まれるから顎が外れるかと思った。
「……う、っ……」
「飲め」
チリさんは私の後頭部を支え、ペットボトルの水を容赦なく投入してくる。
「……、う、げぇ、ごほっ」
どこかしら体を動かす度に右手が痛むような感覚がするから、本当はもう何もしたくない。されるがままに頑張って水を飲み込んだら、その途端睡眠薬でも盛られたかのように急激な眠気に襲われた。
「……ぅ、う」
いや、むしろ今睡眠薬を飲まされたのか。指を突っ込まれた時に、たぶん、喉の奥に薬を。


「どっこいせ、と。ふぅ。ミモザ先生、明日帰ってくるらしいで。お土産楽しみやな」
動けない私を重そうに持ち上げ、ベッドの上に放り投げると、チリさんはまた自分勝手に世間話を始めた。死体のようにベッドに沈み込む私の体に丁寧にシーツを被せてくれる。
「ほな、明日までに生きとったら、先生に診てもらおうな。それまでの辛抱や」
頭を撫でられた。確かに、頭を、手袋ごしに。なに、どういう風の吹き回し……?

「おやすみ、なまえ」

……初めて名前を呼ばれた気がする。
あんなことをされた後では、その著しく簡潔な一言が酷く身に染みる温情だ。


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