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althaea0rosea

※モブちゃん視点


「お父さま?」

その時、大好きな人に名前を呼ばれたような気がしました。

「いかがされました?ご令嬢」
「いいえ……」
豪華客船の荘厳な装飾が施された廊下を振り返ると、ドレスやタキシードを美しく着飾った乗客たちが楽しそうに談笑しています。
何か、聞こえたような気がしたけれど……気のせいだったのでしょうか。耳を澄ましても、向こうのパーティー会場からかすかに漏れるジャズバンドの演奏が鼓膜を通り過ぎていくだけ。特に変わった様子はありません。
「なんでも……ありませんでした」
本当に、なんでもなかったみたいです。それならなんでもいいわ。
また一歩歩き出したところで、私はもう一度立ち止まりました。今日はお父さまの付き添いで慣れないヒールを長時間履き続けていたから、足を痛めてしまったようです。
それに、パーティーの独特な雰囲気のせいで精神が常に張り詰めてしまって、ぼんやりと頭痛がするような。
「あの、ごめんなさい。ええっと、オモダカさま?」
「はい。どうされました?」
「せっかくここまでご案内いただいたのですが、なんと言いますか、少し気分が優れなくて……」
「おや……これはこれは、こちらの思慮が至らず大変申し訳ありません。お体の具合は?あなた、医者をお呼びなさい」
「あっ、いいえ!そこまででは、ないのです。お部屋で休めば……きっと大丈夫になりますから」
私の言葉に、彼女は安心したように胸に手を当てました。
「よかった。大事には至っていないようですね」

この豪華客船のオーナーを名乗った彼女……オモダカさまは、さっき私が一人ぼっちでいたところを親切にも声をかけてくださいました。そればかりか、退屈しないように自ら案内役を買って出て、この一時間ほど色々なお話を聞かせてくれたのです。
パーティーの会場内でよく見かけたマダムより全然若く見えるのに、最初は少し威厳のようなものを感じて萎縮してしまったけれど……とても優しい目をした人です。
「では、お部屋へ……“戻られますか?”」
オモダカさまは私を安心させるように微笑み、手袋をはめた右手をこちらへ差し出しました。
……今なにか、含みを持った笑顔のように見えたけれど、このお方はもともとミステリアスな雰囲気を纏う人だから、気のせいでしょうか。
「ええ、そうしますね」
「お供いたしましょう」
「まあ!お気遣いありがとうございます。ではお願いしようかしら」


部屋の扉を開けると、お父さまが全身から血を流して生と死の間をさ迷っているところでした。

豪華客船の一部屋。私たち父子に用意されたその客室に、吸い込まれるように一歩足を踏み入れた……私。それは即座に視界に入り込み、私の心を掻き乱しました。
「お、お父さま……?」
扉の正面、向かい合わせに置かれたソファーの片側に、お父さまは座っていました。いいえ、座っているというよりは、かろうじてソファーの座面に上半身が乗っているような体勢。
何よりも驚愕したのが、全身から……文字通り、全身から、たくさんの血を流してぐったりしているではありませんか。

船内でのパーティーから一時退却し、私より一足先に部屋に戻られた父に、いったい何が起こったのでしょう。頭を割られ、さっきまで紳士らしく着飾っていたタキシード諸共手足や胴体を引き裂かれ、床のそこかしこに血溜まりをつくり、精巧な蝋人形のように動かない。
私が見間違えるはずなんてないのに、あれが本当にお父さまであることを疑ってしまったくらい、それは常軌を逸した姿をしていました。
「お、お父さま……お父さまっ!」
私は即座に駆け寄ろうとしましたが……その時、思わぬところから第三者が登場し、その場で足踏みをして立ち止まりました。騒ぎを聞きつけたのか、“部屋の奥から”、見知らぬ緑髪の女性が「ふわぁ」とあくびをしながら登場したのです。
「え、?」
彼女はそこで父が血だらけになっているにも関わらず、まるでそれが普通であるかのように、悠長にも背伸びをしながらこちらに目をやりました。
だ、だれ?
まさか、犯人?
だって、服に血が――。

「なんや、わざわざここまで連れて来てくれはったんですか。探しに行くの面倒やと思ってたとこで……さすがボス、親切やわぁ」

……いったい誰に話しかけているの?

その時、誰かが私の両肩に後ろから手を置きました。手を置いて、返事をしました。そこにいるのはもちろんのこと、ずっと一緒にいた……彼女一人。
オモダカさまが、口を開きました。
「いいえ。私は部屋に戻られる彼女に付き添ったまで。あなたこそ、こんなところで油を売って何をしているのです?」
「いやぁ、この部屋、あっちの方にいいベッドがあったもんですから。仮眠でも取ろうかと」
「うふふ。まったく……困った人。あなたはマイペースなところが目に余る」

私はただ、その場に立ち尽くしました。オモダカさまは……私に親切にしてくださった、この豪華客船のオーナーで……今、私の目の前には父が、今にも死にそうな父が、ぐったりと倒れていて……その部屋に、返り血、のようなものを浴びた女性がいて……彼女と、顔見知りみたいに言葉を交わす、オモダカさまに、優しく肩に手を置かれている。
さっきはすぐに医者を呼ぼうとしてくれていたのに、どうして今は、呼んでくれないのですか……?明らかに、今の方が緊急事態なのに。

「しかし今日のところは目を瞑りましょう。“彼女と最期に”楽しいひと時を過ごせたので、今はとても良い気分なんです」

後ろから身を乗り出したオモダカさまは、私に向かって「ね?」と微笑みました。その優しい表情が今となっては恐怖でしかなく、私の体は必然的に小刻みに震え始めました。

「はぁ。そりゃよかったですね」

そんな私のことには目もくれず、緑髪の女性はテーブルの上に置かれていた酒瓶を手に取り、我が物顔で煽って……あれは、父が今日のために用意していた、記念のものなのに……。
せっかくのお酒を、彼女はおそらく前々から少しずつ飲み進めていたようで、すぐに飲み干してしまいました。オモダカさまはその少々ふざけた態度にもふふ、と微笑み話を続けます。

「私はもう少しパーティーを楽しむことにします。せっかくの機会ですし、“あなたがた”もご一緒にいかが?ほら、素敵な衣裳に着替えて」
「あー、まあ、あなたが言うんなら。そうさせていただきますわ」
「そう。嬉しいお返事。ただし、“本日最後の仕事”を終わらせてからになさいね」
「ええ。そりゃあ、もう、仰せのままに――」

敬った言葉遣いをしていながら、どこかおぼつかない顔をしているのは、あの方が自分でそう言っていたように、つい今まで本当にこの部屋で眠っていたであろうことを示していて……この時点で、彼女が父をこんな状態にしたということは、しかと理解せざるを得ません。

「――このチリにお任せあれ」

酒瓶を手に持ちながら、ここばかりは背筋を伸ばし、片足を引き、至極丁寧にお辞儀をする緑髪の女性。それは恐怖に怯える私から見ても美しく、目が離せませんでした。
オモダカさまの手が肩からするりと離れたところで、いつの間にか扉の前にはさっきまで私のボディーガードだったはずの、スーツを着た屈強な男性がこちらを見張るように立っており、周りに誰も味方がいないことにただ絶望するばかり。
私にできることといえば、黙って様子を見守ることくらいで……オモダカさまは何事もなかったかのように部屋を出て行こうとしています。最後に「チリ」と彼女の名前を呼んで。

「愉しむのも結構。しかし、ほどほどに」

扉は音もなく閉められました。





「あの人、怖ない?」
今度は、今度こそ、彼女は私に話しかけてきたようです。訛りのある口調で、馴れ馴れしく。そんなことを尋ねられても、私は状況を整理するのに忙しくて何の反応もできませんでした。
「あぁ、もう、めぇっちゃビビったわぁ……。いっつも急に現れるんやから……こわぁ。ほんま、妖怪やなかったらなんなん」
それでも彼女はお構い無し。オモダカさまがいなくなった途端、さっきまで辛うじて保っていた礼儀正しさは、空の酒瓶をぽいっと床に投げ落としたことで台無しです。
それは絨毯の床に真っ逆さまにゴトンと落ち、その鈍い音にビクリと震えてしまいました。
「んなとこで何しとん。こっち来やぁ」
「え、あ、……だ、だれ、なの……っ?あなたたちは、いったい、なんなの……!?」
「いいから、はよ来いや。はよせんと、君のお父さんぽっくり逝ってまうで?最期の挨拶せんでええの?」
ようやく声を出せたと思っても、彼女は当然質問には答えてくれず。怯える私に向かって、手招きをしているよう。
「え、……え?」
「しゃあないなぁ、ほら、こっち」
うろたえる私に、彼女はその長い足で大股でこちらまでやって来て。二の腕を捕まれた私は、引きずられるように父の目の前まで連れてこられました。

父は……もう動いていませんでした。

「あちゃあ、間に合わんかった」

声にもならない声が、私の喉元をすり抜けていく。
「ぁ……、……っ」
人が死ぬところを見たのは初めてだったから、足が竦んで、息が上手く出来なくて、いくらお父さまでも見ていられなくて……その場に倒れ込そうになってしまいました。
それを彼女は、親切にも腕で支えてくれました。
「でもま、ニアミスみたいなもんやから。すぐ同じとこに行けるで。よかったなぁ」
……あ。
……ああ。
このお方は、私のことも殺す気なのですね。

どうしてこんな状況で笑っていられるのか、少しも理解できない。逃げなければ殺される。逃げなきゃ、逃げて、誰かに助けを、求めなければ。
「は、はなして……ッ」
私は思い切って踵を返し、なりふり構わず彼女の腕を振りほどいて駆け出しました。でも、いったいどこへ行けばいいの……?扉の方へ逃げたくても、そっちには見張りの男性が仁王立ちしています。
どうして?彼も、オモダカさまと同じで、彼女の仲間だったの……?考えたところで疑問が解消されるわけもなく、退路を絶たれた私は必然的に、奥の部屋のベッドがある方へ向かうことになりました。
そこで、私はようやくもう一人の存在に気が付きました。

「……ん……チリ、さ……」

ベッドの中から、声が聞こえてきたのです。すぐにどこかに消え入るような、か細い声が。

「……え、……!?」
さっきから、驚くことばかり。けれど、今の私は確かに正気で、夢の中とは思えないほど視界がクリアに見えています。
そこには……女の子がいました。私の部屋の、私のベッドで、同じくらいの歳頃の女の子が、すやすやと眠りについていました。
「な、なんなの……!?」
誰、なのでしょう。迷子……?まさか、そんな。パニック状態に陥っていた私は、そんなことよりもまず彼女の身を案じて無意識に駆け寄っていました。
「ねえ、ねえ!起きてっ……!起きなきゃ、あなたも危ないわ……!」
この部屋には父を殺した殺人鬼がいて、今まさに私が追われている。こんなところで寝ていたら危ない。それは、至極当たり前の思考だったはずなのに。
後から考えてみれば、この時の私の行動は相手から見るとどうしようもなく滑稽だったことでしょう。そのまま追いついた彼女に後ろから口を塞がれるように、私の体は拘束されてしまいました。

「やかましいわ。起こさんでええねん」

捕まって、しまった。私、ここで終わってしまうの……?父と同じように。
それに、この子は……。この子がここで寝ていたこと、あなたは、知っていたの。ああ、そうだ、馬鹿な私。このお方は、今の今まで奥で寝ていたってこと、ついさっき教えてくれたじゃない。つまり、ここで、一緒に寝ていたの?この子もあなたの仲間なの……?
「ベッド、貸してもらっておおきにな。しつこく眠い眠い言っとったから、もう少し寝かせたって」
どういう、こと?……なんで?……どうして、父をあんな目に遭わせておいて、どうして、そんなに優しい声をしているの……?
どうして?どうして?どうして……?
混乱に混乱を重ねた私は、堪えきれずに決壊してしまいました。強い不安が涙となって、口を押さえたままの彼女の手を濡らしていきます。
どうして、私たちは何も悪くないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの……?
「せやなぁ、難儀なことに……ボスは大事なことだけ黙っといて相手の反応を愉しむ癖があんねん。せっかく一緒にいたんなら、教えてくれたってもええのにな。同情するわ」
力の強い彼女の拘束は、もがくことすら許されず。私を捕まえたままベッドから離れ、窓際の方まで移動して、ナイフを首元に――――

「うちから一つ言えるんは……君は運がなかった。ただそれだけや。あ、大声だけは出さんようにな」

その言葉と同時に首元がグシャッと深く切り裂かれ、私の体はその場で崩れ落ちました。そのまま彼女の体に寄りかかったのを、邪魔そうに押しのけられて、柔らかい絨毯に仰向けに倒れ込みました。
動かない手足。開いたまま閉じない両目。視界に広がる赤い血液がとめどなく溢れ出て来ます。
「……お、……とう、さま……」
強烈な痛みと遠のく意識の中、緑髪の殺人鬼はこの騒ぎの中でも未だベッドで眠る女の子に……そっと、口付けをしました。まるでどこかの国の王子さまのように。まるで童話の中の幸せな光景を見せつけられているようでした。

そして私はただの背景に成り下がる。

どうしてあの子は無事で、私は殺されたのでしょう。どうしてあの子は幸せそうな顔で眠りについていて、私は醜い顔で死にゆくのでしょう。
あの子と私の違いは……なんだったのでしょうか。

神様……?向こうへいったら、どうか、教えてくださいな。


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