虫の息

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 布の擦れる音。
 目覚めてからまず最初に耳をかすめていったのは、どちらかの足がシーツの上を動いた音。それから時計の秒針の音。締め切った窓の外から微かに聞こえる外界の音。
 あと、俺のじゃないもう一つの息遣い。

「……」

 まだ眠たくてたまらねえのに脳が勝手に覚醒して無意識に目が開いた。視界に飛び込んでくるのはいつもの見慣れた寝室で、ああ、なんだよ朝かよと、最悪な事実に気づいてしまったその瞬間、タイミングを見計らったかのようにけたたましく鳴り始めた同居人の目覚まし時計が、あわよくば二度寝を企んでいた俺の眠気を一瞬にして台無しにした。
「あ゛ー……うっせ」
 くそ、完全に慣らされてやがる。目覚まし時計が鳴る直前に目が覚めるとか、どうして俺がそんなにも規則正しい感じの生活習慣を身につけなければならない? 最近早起きをする用事ができたとかなんとか、自分よりかは圧倒的にマシな社会人生活を送る人間だ、色々な事情は仕方ないにしろ、それを俺にも強制するなと声を大にして言いたい。というか言った。

「じゃあ別々に寝る?」

 そしたら色んな意味で効果的な解決案を提案されたので、それはお断りだと渋々受け入れたのが先日の話。それでもやっぱり煩わしいことに変わりはなく、音が飛んでくる方向に背を向けて、片腕を枕にしながらもう片方の手で天井側の耳を押さえた。


 こうしている間にも精神に悪影響を及ぼしそうな煩い金属音が一切の切れ間もなく鳴り響いており、朝っぱらから鬱陶しいくらいの破壊衝動に駆られるが、ここからではどう頑張っても俺の拳は届かない。あの目覚まし時計に殴り掛かるにはわざわざ体を起こさなければならないのだ。それはだるい。ので、あの目覚まし時計をセットした張本人を代わりに殴ることにした。
「……おい」
 眉間に皺を寄せながら、背中側に手を伸ばす。が、手に触れたのは布団だけ。いくら手を動かしても、その辺をかするだけで掴めるのは空気のみ。あ? あの野郎どこ行った。
 寝起きでだるい体を動かし勢いのままに仰向けになった。隣に手を伸ばす。やっぱりいない。これはおかしい。あいつの寝息は聞こえるのに。ここで痺れを切らしてようやく体を起き上がらせると、思っていたより足元の方に女が一人丸まっていた。
「……」
 こいつが小さいだけだった。

 目覚まし時計は結局自分で止めた。いつもなら時間通りに起きるのは俺ではなく彼女の方なのに、何故か今日はいつまでもぐっすり眠りこけているようだ。
 俺としてはようやく静かになってくれたので今度こそ二度寝を決め込んでやると言いたいところ……だが、起こさずに無視すればどうせあとで怒鳴り散らされるに違いない。そうなれば今よりもっと面倒なことになる。ていうかもう完全に目ェ覚めたし。
「おい、朝」
 ゆらゆらと肩を揺らす。するとあからさまに嫌がるような唸り声を出したから、目覚めてはいるようだ。さすがテメェの目覚まし時計、鳴るよりも前に俺を起こした優秀な時計だ。音を止めるついでに壊さなかったことを心の底から感謝しやがれ。
 だがいつまで経っても起きようとしない。そればかりか端に追いやられていた布団に手を伸ばして再び寝に入ろうとする。
「オイ」
 こっちは起きたくもないのに起こされたんだ、あのクソうるさい機械を仕掛けておいて二度寝とは何様のつもりだコラ。この一連の流れで割とムカついていた俺は、少しばかり本気になって体を揺さぶり続けた。
「起きろ」
「……んん」
「今日も早く出るんだろ」
「……いーの、今日は」
「あ゛?」
 何やら予想外の言葉が飛び出てきた。つい手の動きを止める。
「今日は一日、何も無いの」
「……目覚まし」
「あは、間違えてセットしちゃった」
 寝転がったまま俺を見上げる女。いつの間にかぱっちりと両目を開いていて、ほんの少しだけ申し訳なさそうに見つめてくる。

 コロス

「なあ、痛えのと痛くねえの、どっちがお好みだ?」
「エ゛、ど、どっちも痛そう……優しくしてね」
「それはお前次第だな」
 俺が少〜し力を入れたら簡単にぽっきり逝ってしまいそうな細い手首。シーツに縫い付けるようにわざとらしく撫で付けたら彼女はごくりと息を呑んだ。今更になって弱々しいごめんなさいが聞こえてきたが、違う違う、今の俺が聞きたいのはもっと別の、息遣い。


虫の息
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