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althaea0rosea

「っ、ぁ、……っ」
鋭い爪が私の胸の中央に一筋の線を描きました。痛みを無くした身体ゆえに、ただ指の腹でなぞられただけだと思ったのに、皮膚は感覚よりも深く割れていて、即座に赤い液体が滲み出てきました。鬼はそれに目を輝かせながらおそるおそる舌を這わせていく。
すると、鬼の身体がドクンと波打つ。傍目から見ても分かりやすい変貌の仕方でした。
「う、美味あ……っ、なんや、これ、こんなん喰ったん、初めてや……。はァ?あのひと……あんな涼しい顔しながら、こんなもん独り占めしとったんか……!?うせやん……」
鬼は急いで上半身を起こし、行為中ぶらぶらと揺れるだけだった私の足を手でつかみ、つま先を口に含みました。そして、断りもなく突然きりきりと歯を立てて大きな傷口をつくると、そこから溢れ出す血液を思い切りしゃぶり始めました。
「っ、ぁ、う……っ」
食べられている。血を、吸われている。
しかし驚いたことに、こうして血が抜かれている感覚にすら、気持ちよさを感じる。ぞくぞくと背が痺れ、身体が仰け反るも、やはり鬼の力には全く適わず、されるがまま。
けれど、つい先程何度も絶頂を迎えた身体からしてみれば、これでも随分とマシな刺激でした。それとも、既に感覚神経が狂ってしまったのでしょうか。

そんな私の反応は気にもせず、鬼の口は舌の上の私の足にさらに歯を食い込ませ、出てくる血を舐り尽くしています。口の端から血が零れそうになるのを指で拭い、静かに咀嚼をする様子は、不気味なほどに行儀が良くてつい目を奪われてしまいました。自分が食べられていながら、その光景を見つめてしまうだなんて、自分が食べられていることを、自分自身があまり自覚できていないのでしょう。
鬼は一度口を離すと、視界がおぼつかないというふうにゆっくりと瞬きをし、浅い呼吸を繰り返しました。
「あ、もう、これ……終わったかもしれん」
それだけ言うと、またすぐに同じところに噛みつきました。美味しそうに、頬を綻ばせて。美味しい……のでしょうか。空腹だったにしても、行為を中断してまで夢中になるだなんて。人間の身体には本当にそれだけの価値があったということ?
だから、私はあの場所にずっと囚われていた……。


『鬼と人間は異なる生物でありながら、生殖活動の相性がそれはもう、とおっても良くてですねえ。そのうえ人間の身体には鬼にとっての重要な栄養素が多く含まれていて、他のどの種族よりも一番美味しく感じるんですよお』
 
…………。走馬灯?

『あ、これは別にぼく個人の味の好みってわけじゃあなく、生物学的にも立証されている事実です。ですからぼくたち貴族の間では、より美味しく成熟すると見込んだ人間を自らの手で育て、《眷属》とし、子を産ませる習慣があるんです』

…………。

『混血するほど子々孫々の肉体的強化がなされ、一族の繁栄に繋がる……というのが鬼の間では一般論として知られていますねえ。まあ、人間の個体数が著しく減った今、人間を好きに扱えるのはお金持ちの貴族くらいで……国民の大半を占める下級の鬼たちは、常に腹を空かせているというのが現状なんです』
…………。
『ぼくは楽に暮らせていますけど、人間の供給不足は鬼にとって死活問題ですからねえ、最近は特に取り合いが頻発してどの地区も治安が悪いようで、パルデア国でも屈指の強さを誇る【保安部隊】ですら統制に手を焼いているみたいです。こわあいこわあい。あらら、つい話が逸れちゃいましたあ』
…………。
『ええっと、あなたは例外的に国が管理している個体なので、あんまり関係のない話になっちゃいますが……今日の授業内容を簡単にまとめると、人間は主に二つの役割を担っている、ということになります』

『一つは、単に鬼の食事となること。こちらは味が普通か、それ以下の人間によく当てはまりまあす。普通食事用に手を加えられているで短命で、長く飼うのには向きませんが、下級貴族の中にはこれらを無理やり眷属にして子孫を増やしているとこもあるようですねえ』

『そしてもう一つは、鬼の《眷属》となること。こちらは上物の人間の中でも特別に地位を与えられた血族から選ばれることが多く、一般に繁殖のために生かされまあす。絶滅危惧種なのに、上級貴族の中には贅沢に複数飼いしている方もいるみたいですねえ。羨ましいなあ……』

………………。
…………。

先生はいつかの授業でこう言いました。鬼が人間の出生を管理しているこの国では、食事になるか眷属になるか、どちらの役割を持つかは生まれる前から決まっていることである、と。しかし、私は生まれ持った体質のために例外的にどちらともに当てはまらなかった。
それは単に、“欠陥品”だからだと思っていたのに、だから、こうして外に逃げ出したところで、鬼に襲われる心配なんて本当のところはないんじゃないか……なんて甘い考えを持っていたのは、今日で撤回することになりました。

どうして一個体の人間ごときをわざわざ国が管理していたのか……考えればすぐに分かったことなのに。


「…………うま、……」
既に理性を破綻させたこの鬼にとって、目の前に用意された人間の身体はどうしてもご馳走に見えてしまうらしく、もう留まることを知りません。私に噛み付く鬼の顎は、だんだん、だんだんと、力が増していき、……ついに骨ごと噛み砕いてしまいました。バリボリ、バリボリ。鬼はそれを飲み込むと、そのまま夢中になって肉という肉を次々に胃の中へしまい込んでいきます。
すぐに私の右脚が半分ほどなくなってしまいました。そしたら今度は、左手を取って口に含んで、同じように、バリボリ、バリボリ。食べられながら思うのは、一つだけ。

痛みを感じないことが、唯一の救いでした。

あれからどのくらいの時間が経過したのでしょうか。未だに私が“瞬き”をできていることに、驚きを隠せません。身体の感覚はもうどこにもなく、身体の状態を確認することもできない。けれど、少なくとも半分以上は食べられてしまったはず。
既に半分平らげてしまったのに、まだ食い足りないとでも言うように、鬼は長い髪が血で汚れるのも気にせず、血塗れの私に覆い被さり、血塗れの口をあけ、首筋に顔を埋めました。

「……ごめ、……食い足りひん……」

…………。
どうして私の身体は未だに意識を保っているのでしょうか。こんな状態で痛みがないなんて、不可思議なこともあるものです。鬼の唾液を経口したことで、肉体が一時的に強化されたのでしょうか。
しかし、人間は血を無くしすぎると生きられずに死んでしまう、ということも先生から聞いたことがあります。もちろん私の体も例外ではなく、食べられながら確実に死に近づいていることを理解していました。

そして、既に事切れていたつもりでいた私の意識は、最期に鬼の口から覗ける二つの牙を捉えました。


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