05

althaea0rosea

それは地獄の始まりでした。私が母親の腹を破り生を成した**年前の今日、底の知れない地獄は始まりました。

………………。


「気づいたか。おはようさん」

いつもと違う目覚めの声に、ゆっくりと瞬きをしました。ベッド……というか、すでにベッドとしての役割を終え、ボロボロに朽ち果てた木組みのうえで、おぼつかない意識のまま手足を動かして身動ぎをしました。
でも、ささくれた木が刺さりそうになり、肌に若干の痛みを感じたところですぐにぴたりと制止しました。
「……?」
――『手足を動かして』?

「あれから半半刻15分くらいか。気分はどうや。ちなみにチリちゃんは最悪や。いやま……体調と腹の具合はすこぶる快調なんやけど、気分は最悪や。ほんま、これ以上ないってくらいや。ここが地獄やったかいな?地獄ってこないに気軽に行けるんやなぁ。ハァ?ひとんちの庭に勝手に地獄の門建設すな!しかも誰や扉開いたんは…………」
「……」
「チリちゃんや!!!チリちゃんが蹴っ飛ばしたんや!そこの扉!なんやねん!」
「……」
試しに右手をあげてみると、私の視界には私の右手が写りました。左手も同じようにすると、同じように左手がそこにありました。
次に、両足の膝を折り曲げて上半身を少し起こすと、そこには私の両足がありました。
「……」
驚くべきことに、私の体には傷一つ残されていませんでした。どこもかしこも生まれたままのまっさらな肌。ああ、そっか、であれば。
ついさっきまで私はなにか恐ろしい夢を見ていたような……そう、夢。あの独房を出て、外の世界に逃げ出したところまではよかったのだけれど、たまたま見つけたこの小屋でほんの数日凌いだところで運悪く発情が始まってしまい、そこに鬼が現れ、襲われ、犯され、……食べ、られ……。
「はぁ、面目ないわぁ……てかもう立場がないわぁ……あのひとが一番大事にしとった人の子やのに……煮るなり焼くなりされるやろか……それか処刑台行きや……でもチリちゃん悪ないやろ……。おい、国ィ……なんでよりによって発情期真っ只中の最高級ランク逃がしとんのや……当時管理しとったん誰や…………」
「……」
「チリちゃんや!!!チリちゃんが、担当サボったからや!!!ああああああああ」
「……」
今の私は全身裸だったけれど、唯一上半身にかけられていたものがありました。それが落ちないように手で押さえながら、ゆっくりと起き上がりました。
これは……鬼の制服の上着。パルデア国の貴族の中でも、さらに選ばれし鬼たちしか身に纏うことができない、鬼の制服。細かい装飾に、布地はとても肌触りがよく、重みがあって、……そして、良い匂いが、する?
その持ち主は少し離れたところで椅子に座っていました。反対向きに。上着の他にも、制服は全て脱ぎ捨てて下着だけの状態になっていました。
「あああああああ……あああああ……」
背もたれに乗せた腕に顔を突っ伏して、なにやら震えた声で叫んでいます。そのことに私は若干の恐怖を覚えました。

鬼はしばらく叫んだあと、顔をあげました。
「なぁ、どないしよ。今世紀最大のやらかしなんやけど」
「……」
ところで、……なくなったはずの手や足が、元通りになっているのですが。

私は自分の腕を大切に抱きしめるようにしながら、辺りを見回しました。ここは、この数日間私が息を潜めていたところ。広大な森の中で偶然見つけた、小さな古い小屋。そして……“その瞬間”、私が隠れていたクローゼットは見るも無惨に扉が破壊されていて、中にあった服も床に散らばっている。
……ええ、はい。『夢』ではないことは、最初から分かっていました。
けれど、次に目覚めるとしたらあの世か、もしくは元いた独房の中だと思い込んでいたから、さっきまでと全く同じ場所にいることに動揺を隠せません。それも、他の鬼たちがいる様子もない。ここにいるのは私と、たったひとりの鬼だけ。

私を襲い、犯し、食らった鬼。

その鬼は……彼女は、さっきまでとは違い、いかにも普通そうにしていました。普通、というのは理性があるかないかの話をしているだけなので、普段の彼女がどんな様子だったのかは知る由もありません。
私が直接関わりのあった鬼は、たったの三名だけだったから。ひとりは、“あの方”。そして、先生。そして、博士。
それ以外の鬼たちは、食欲や性欲を変に刺激されないように、特別なマスクをつけた時のみ私と接することが許されていました。だから、相手はどうか知らないけれど、私側からはどの鬼もマスク姿しか知らなかったから、彼女の姿を見たのは今回が初めてのことでした。

「それより、もう収まったん?珍しいな、発情が強い個体ほど“一回”じゃ収まりきらんって決まっとるもんやけど」
「……」
「ああ、ちゃうか。“一回”死んだからリセットされたんや」
「……?」
彼女は椅子から立ち上がると、脱いであった靴を蹴り倒しがてら裸足でこちらに近づいてきました。ずるずると引きずってきた木の椅子に、今度は正しい向きで腰をおろし、前傾姿勢になりました。顔はやっぱり地面の方を向いています。
「安心せえよ、国には連絡しとらん。まあ、あんだけ盛大に暴れたんや、たぶん今にも追っ手がやって来るやろな」
状況が飲み込めず、何も言えずにいる私に、彼女は一方的に語りかけてきました。
「この森はうちの私有地やけど、勝手に住み着いとる下級の鬼たちの騒々しい反応は、到底隠せるもんやない。……結界とか、張り忘れるくらい、あんたに頭やられてしもた」
そう言いながら、彼女はほどけかけた髪留めをするりと外し、ぶんぶんと左右に頭を振りました。解放された長い髪の毛がゆらゆら揺れるのを、つい目で追ってしまいます。
彼女の髪が、“あの方”と同じように艶があって、美しかったから。ここまで手入れの行き届いた髪を見るだけで、この鬼は相当家柄のいい貴族の生まれなのだろうと推測できました。……世間知らずな人間ながら。


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