08

althaea0rosea

木々の間を縫うように、一目散に走る、走る。当然鬼たちが追いかけて来ているようです。その中にはもちろんあの方も……。
「なまえ!!目ェ合わすな!アレと目ェ合わせたら仕舞いやで……ッ!」
追っ手の鬼たちと、つい先程まで同じ制服を着ていたはずの、彼女。遠ざかっていく小屋を見ながら呆然としました。どうして……逃げているの?あの鬼たちは……あなたの仲間じゃなかったの?
けれど、恐怖と困惑に震えた私の喉はやはり機能せず、今はただ振り落とされないように体にしがみつくことしかできない。鬼の本気の走りは私の想像を凌駕していました。そのスピードはまるで地面の中を駆け巡る土龍のようで、心臓が置いていかれそうな感覚がします。
幸運なことに、意識が飛ぶ前に彼女は急激に速度を落として立ち止まりました。……不運なことに、私の身体はその弾みに宙へ投げ飛ばされてしまいました。実際は、彼女がきちんと抱きとめてくれたから、地面に身体を打ち付けるようなことにはならなかったのだけれど。

本当の不運は、彼女は逃げ切ったから立ち止まったのではなく、先回りしたひとりの鬼に逃げ道を塞がれてしまったから……ということ。

「……バケモンか、あなたは」
若干息切れをする彼女と、そして、微塵も息切れしていないあの方が対峙します。いつの間に先回りされていたなんて……信じられない。後ろには他の鬼たちがぞろぞろと追いついて、すぐに周りを取り囲まれてしまいました。
彼女の速さなら逃げ切れると思ったのに、それ以上の速さを見せつけられたらあとにはもう絶望しか残りません。私は地面に崩れ落ちて、ほとんど死んだような気持ちになりながら様子を見守っていました。今にもほどけてしまいそうな彼女の手を、なんとか握りしめながら。

「チリ」

私の名前を呼ばれたんじゃないのに、私まで震え慄くような温度のない声色。あの方は、普段は、もっと優しかったのに……この時ばかりは機械的に業務をこなすかのように、冷徹な表情で一歩歩み寄りました。片手を広げ、言い聞かせるように。
「チリ。ご苦労さまでした。彼女の身柄を、こちらへ」
「……」
「チリ?なにやら様子がおかしいようですが……何か悪いものでも口にしたのですか、、、、、、、、、、、、、、、、?」
張り詰めた空気の中、彼女は私の手をしっかりと握りながら深呼吸をして息を整えました。こちらもいつの間にか呪文を唱えていたのか、私たちのまわりに結界のような薄い膜が張られています。だから、追っ手たちは無闇に近づこうとせず、あの方も、少し離れたところから様子を伺っていました。

「……ちゃいますよ」

そんな小さな呟きが、頭上から聞こえてきました。

「……トップ。悪いんやけど、もう眷属にしてもうたんで、うちの子です」
「は?」
「返せません。もう、手遅れなんですわ。いくらトップでもあきません」
彼女の言葉を聞いた途端、あの方は目を見開いて口を閉じました。言葉をなくし、明らかに動揺しています。
「と、いうわけで……うちの《ペア》の子、どうか奪わんといてください。この子は、チリが頂戴いたします」
「いきなり、何を言い出すのです」
「無茶言うとんのは百も承知です。けど、何がどうなってこうなりよったか、ちゅうのは……この子を世話しとったあなたには、説明せんでも察しがつくと思いますが」
あの方は目を見開いたまま、手で口元を覆いました。動揺し、髪の毛が逆立ち、一本一本生命を持ったそれらも嘆くように蠢きました。
「……まさか、まさか、あなたに限って……ああ、なんてこと」

……状況を全て理解し切れていない私でも、彼女が今まさに国を裏切ろうとしている、ということはすぐに分かりました。だから、先程は制服を脱いで無理やり使い魔に燃やさせて、私を連れて逃げ出して……。
でも、それはつまり、人間である私の味方につく、ということで、同時に……鬼としての自らの立場と、他の何もかもを捨て去ることに、なるのでは……?
周囲の鬼たちはどよめいて、あの方は今にも倒れそうに頭を抱えながら、私たちに注目していました。全ては私があの建物から逃げ出したために始まったこと。自分の保身のために必死な思いで逃げ出した私だけれど、まさかこんなことになるなんて想像すらしていなかった。
「……っ」
ひとりの鬼が置かれている状況を慮って、もはや後悔の気持ちすら湧いてきたことに、戸惑いました。私の心こそ、とうに彼女の味方をしているようでした。

なぜなら、この肉体は既に鬼の眷属となったから。眷属とは――主に対して本能的に忠誠を誓ういきもの。だから、ついさっき放たれた『絶対に離れるな』という命令を、私はもう決して破ることができない。

「チリ。よくお聞きなさい。国の資産の横領、及び国への反逆は死罪に値します。そもそもあなたはあの日……職務怠慢により、あろうことか彼女の脱走を許しました。その件についても然るべき処罰を――」
「はい、はい。ええ、おっしゃる通り。今回の件は全てこのチリの責任です」
「分かっているのなら……即座に彼女を解放なさい。これ以上、罪を重ねることはありません」
「分かったうえで、渡せません。ここでおいそれと捕まってしもたら、もう自由には生きられん。うちも、この子も……せやろ?なら、逃げの一択ですわ」
「チリ、」
「せめてこの子だけでも……つってもこの子をこの世界で独りにさせるわけにはいかんやろ。せや、全部うちの責任……もう決めたことや。もう決別した。勝手やけど、ここらでお暇いたします」
「チリ……チリ……!」
いやに冷静な彼女に対して、今度はあの方の方が冷静さを欠いて近づいてきました。結界をも貫通するその瞳の力は強大で……目を見ないように、としゃがみこんで私の視界を手で覆い隠そうとした彼女だけれど、時既に遅し。私の身体はこの時にはもう石のように固まり、“岩”のように重みが増し、瞬きをすることも出来なくなっていました。
「チリ……今すぐ、彼女を解放しなさい。どうか、どうか、これ以上罪を増やさないで。お願い……私からのお願いよ」
「オモダカさん。ごめんなぁ、あんたのお宝横取りするような真似して……せやけど、こうなったらしゃあないやん……逃げる他ありませんやろ?このまま捕まってお陀仏やとこの子に申し訳が立たんし、チリちゃんやって、まだ死にとうないです」
もう自分の力で動けなくなった私の体を、彼女は再び肩に担いで、周囲の鬼の配置を確認しつつ、改めてあの方と対峙しました。こんなに囲まれて、もう絶体絶命なのに、彼女はそれでも決して諦めておらず、絶対に逃げ切ってみせるという顔をして、私の手を力強く握りしめ――――

「……私の子を、返して……」

あの方の静かな叫びは、彼女の呪文にかき消されました。


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