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althaea0rosea

「チリ、さま……」
「……」
おそるおそる名前を呼ぶと、彼女は少し遅れて顔をあげました。椅子の上でぐったりしているからてっきり意識を失ってしまったのだと思いましたが、鬼の体力はその程度のものではありませんでした。
ただ、それ以上に彼女の身体は深刻な事態に見舞われており、私はいったい何をすればいいのか、何かできることはないか、色々な考えが脳内を巡ってその場で固まっていることしかできません。
そんな私に対して、彼女は冷静に言いました。
「こっち来や。腹減ったやろ。ま、水しかあらへんけど」
今の私はそんなことよりも他の出来事に気を取られていたので、ただ頷くことも、私の心配をしてくださったことに感謝することも、何か他の返事をすることもできませんでした。その代わり、口を噤んで彼女のことを見守っていました。自分の手を握りしめて、固唾を飲んで。
「……どしたん?」
「お怪我を……されています」
「こんなん、たいしたことない」
「でも……」

腕が取れているのは、たいしたことないで済まされるのでしょうか。

「食事すればすぐ治る。けど……ここにはそれらしいもん無いみたいやな。しゃあない。こんなオンボロ屋敷……まだ屋根があるだけマシやで。それよか、とりあえず一息つかな、チリちゃん疲れたったわ……」
「……」
食事が、ない?
鬼の食事といえば、人間では?


ここは、私たちが追っ手から命からがら逃げ延びた古い洋館。主はおらず、さっきまでいた森の小屋と同じくらいボロボロに古びており、おそらく長い間誰も管理していない館なのだと判断できました。ここに住みついていた下級の鬼たちや他の種族は、彼女――チリさまがほんの一瞬威嚇しただけであっという間に闇の中へ消え去り、私たちは幸運にも屋根の下で静かに体を休めることになりました。

今は体調が悪そうに椅子に座り込んで、自分の片手を膝に抱えて目を閉じる彼女は、確かに人間よりも体の強い鬼ですが。
空を飛ぶ追っ手から逃れる時、彼女の腕は敵の攻撃に捕らわれ、絞られ……そのままちぎれてしまった。あの光景を思い出すだけで痛くて痛くて、とても見ていられません。
運良く敵は私たちを見失い、偶然にも見つけ出したこの洋館を隠れ場所に選んだのはいいものの、五感の優れた者の揃う国の鬼たちの前では、見つかるのも時間の問題。そこで、チリさまは満身創痍の体でこの建物とその周囲に巨大な結界を張り、この洋館を完全な隠れ家に仕立てあげてしまいました。
「……はァ〜……つかれたぁ〜……もうカンニンしてぇ〜……はぁ〜〜〜〜……」
彼女は今片腕なのに……それを、疲れた、たいしたことない、で済ませてしまうのは、きっと強がっているから……だと思います。だって、見るからに体力を無くしているし、今にも倒れてしまいそうな顔をしてる。
今は消え落ちてしまったけれど、つい先程まで彼女は私の血を活力とし翼まで生やしていました。あれだけ激しい形状変化で、普通でいられるわけがないのです。……私の半身以上を喰らい尽くしたエネルギーすら、この逃走劇で底を尽きてしまったのでしょうか。

「……チリさま」
「なんや。水ならここに……」
水、ではなく。私のことではなく。
鬼は食事をすることによって身体強化する。体力を取り戻すには、食事は必須なのです。このことは人間である私ですら知っている事実。
ならば眷属となり都合よく元通りに完治した私の体を、さっきと同じように食べてしまえばいいのに……。
「どうして、私のことを食べないのですか」
「アホ……そないなこと、自分で聞くもんやないで」
「でも、私の血を吸えば……きっと良くなるはずじゃ……」
「あんた、うちに何されたか覚えとらんの?」
彼女は首を傾げ、不審がるような顔で私を見つめました。食べられないことを疑問に思う人間が、不思議なのでしょう。正直、私も自分で何を言っているのだろうと思うけれど、私は、私の体はもう……。
使い慣れない喉に気をやりながら、私はゆっくりと答えました。
「はい。はっきりと……覚えています。だから、あなたさまが私の血を飲んだ時の反応も、きちんと覚えています」
「……あんなぁ……」
私がそう言うと、彼女は窓の外を向いて椅子の上で脚を組み替えました。残った方の片腕を肘掛の外に放り出して、深いため息をついています。
「チリちゃんはな、普段から極力食事は取らんようにしとるんや。それも……加工前のは、あんまり好きやない。生きとるもんなんかなおさらな……。……の、はずやったんやけど」
「……」
「あんたのは、さすがやね。国で管理しとっただけのことはある。味のことだけやのうて……こりゃ、取り合いで戦争が起こりかねんわ。せやから、これまで誰のもんにもならずにおったんやろな……」
個人の所有と使用を禁じられていた人間。それはこの国にどれだけ存在しているのか……私は知りません。私は私以外の人間と接したことがないから。
「……とんでもない子に出会ってしもたわ」
ひとりごとのように言いながら、額を手で押さえて椅子に沈み込む彼女。とても笑うような状況ではないと思うけれど、くつくつと小さく喉を鳴らしたかと思えば、再びため息をついてそのまま黙り込んでしまいました。


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