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私はやはりその場で立ち尽くしたままだったけれど、少し考えた後、そっと彼女のところまで近づきました。そして、腕を差し出しました。
「なんのつもりや」
「……あなたさまは、国の追っ手から私を守ってくださいました。その腕の傷は、私を守って負った傷、です」
「……」
「お礼に、私の腕を差し上げますから、受け取ってください」
これは正真正銘、私の意思でした。しかし、彼女は頭を振りました。
「要らん。そんなん、割に合わんやろ」
「……では、両腕を」
「ちゃうって。あんたの話やないねん。腕どころか、うちは既にあんたの全部を奪ってしもたんやで。心も体もなにもかも。“腕一本”で足りひんのは、こっちの話や」

「……では、私の身体はもはやあなたさまのものです。お気に召すまま、お召し上がりください」

眷属となった人間は、その鬼に対して盲信的になる。これは本能が定めているもの。抗えるものではありません。
なおさら、彼女は私のために体を張って、私のために国を裏切って、そのうえ私のことを気遣ってくださっている。そんな彼女が私のために負った傷を、とても無視することなどできませんでした。
「……チリさま」
「……。ハァ、わかった。そこまで言うなら、ほんの少し分けてもらうわ」
了承したというよりは、ただ諦めたように、彼女はようやく頷いてくれました。疲れきっているのにこれ以上話していられないと思ったのでしょう。特に狙ったわけではないけれど、しめたと思いました。
チリさまはもう立ち上がれない様子で、人差し指を少し曲げて私を手招きしました。正面から一歩近づくと、手を握って体を引き寄せ、少し躊躇した私を無理やり自身の膝の上に座らせました。
「肩、出して」
「はい……」
洋服のボタンを外し、言われた通りに両肩を出しました。あらわになった私の首元を手で触る彼女の顔は未だ不満そうな表情で、「ほんのちょっとだけやからな」と釘を刺してきました。
何故そこまで欲しがらないのだろう。『割に合わない』にしても、私は身を案じてもらえるような身分ではないのに。そう不思議に思っている間に、チリさまはゆっくりと顔を近づけて首筋に舌を這わせました。
「……痛むで」
「……はい。…………、っい……」
歯が刺さる瞬間、ビリ、と痛覚が刺激され、つい彼女の服にしがみつきました。想像よりもずっと鋭い痛み……それもそのはず、さっき血を吸われた時は発情の真っ只中だったから痛覚が正しくはたらいていなかったけれど、今の体は正常だから、噛まれて痛みを感じないはずがないのです。
でも、痛かったのは突き刺さる瞬間だけで、その後すぐに襲いかかってきた変な感覚に気を取られてしまいました。血を吸われる感覚……普通に考えれば出血は痛みを伴うものなのに、これは痛みというよりは、なかなか言葉にし難い感覚、でした。あえて表現するとすれば、痛気持ちいい感じ……血を吸われるのは実際には二度目だけれど、慣れない感覚に体がつい動いてしまいます。
「……ん、っ…………ぁ、う」
人間は多感だと言うけれど、こんなにも……。自分から言い出した手前、今更やめてなどと言えるわけもなく、首筋に顔を埋める彼女の服を一生懸命握りしめていました。

その一方、吸血鬼の食事は順調にことを進めており、私の血を体内に入れ始めて少ししたところで、彼女のちぎれた腕は治癒を開始していました。視界の端で腕の断面から繊維が伸び、お互いが引っ張り合うように繋がって組織が形成され、あっという間に腕が元通りに。
これが吸血鬼の再生能力……おそらく、私の体もこのように回復したのでしょう。チリさまの腕は思っていたよりもずっと短い時間で完治しました。
「……は、……うま……」
しかし、彼女は一向に離れる様子がありませんでした。首筋に噛み付いたまま、夢中になって血を吸い続けています。よっぽどお腹が空いていたのでしょうか。息継ぎをしながら、夢中になって私のことを味わっています。
ついさっきまでは私が押し通すまで遠慮していたのに、私の体を気遣ってずっと我慢していたのだろうと思うと……。
なんだか、彼女のことが……尊く思えてくるような。これは、私が眷属だから?眷属だから、親しみを感じてしまうのでしょうか。遠のく意識の中、私の中で彼女の存在が既に確かなものとなっていることを感じました。

「っはぁ、……あ゛ぁもう、なんやのこれ……美味すぎるやろ……」
しばらくして、チリさまはようやく満足したように口を離しました。顔に艶が出て明らかに血色がよくなっている。食事をした途端に怪我がすっかり治って、体調もよくなるなんて、吸血鬼の回復力には驚かされてしまいます。
でも、よかった、お役にたてたなら。そんなことを思った私だけれど、意識が朦朧として力が抜けて、頭の重みで身体が後ろに倒れ込みそうになったのを、彼女は治った腕でとっさに支えてくださいました。
「……あっ、やっば、……ま、待って、ごめ、やりすぎた……」
ふわふわして、天国に昇っているよう。それは単純に、血を抜かれたことで貧血状態になっているだけなのでしょう。しかし、自分の腕の中でぐったりする私を見て、彼女は心底傷ついたような顔をしていました。
「ご、ごめんな、……しっかりしや……つい、また、止まらんくて、ああ……もう何してんねん自分……!」
さっき言っていた言葉通り、本当は最低限で済ますつもりだったようです。赤子のように座らない私の首をしっかりと支えて、ごめんな、ごめんな、と何度も何度も申し訳なさそうに謝っています。私が押し通したのだから、そこまで謝らなくていいのに、このお方はまた……。
私はもう何か言葉を発する気力もなくて、意識の遠いところで彼女の声を聞いていました。


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